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東映長編研究 第3
 永沢詢インタビュー(1)

 「東映長編研究」の第2弾として、現在はイラストレーターとして活躍している永沢詢(現・永沢まこと)さんにお話をうかがった。
 永沢さんと言えば、やはり『わんぱく王子の 大蛇退治』のアメノウズメの舞い踊りの名シーンを手がけた事で有名だ。『ガリバーの宇宙旅行』でも、キャラクターデザインの一部と作画を担当し、独特の味わいを持ったものに仕上げている。東映動画で活躍した時期は決して長くはないが、東映長編にそれまでになかった新風を吹き込んだ事は間違いない。
 また、彼は東映退社後、『おそ松くん』やカルト的な魅力で知られる『ファイトだ!! ピュー太』を手がけている。今回の取材では、その時期の話についても少しうかがう事にする。

●2004年7月15日
取材場所/東京・永沢詢宅
取材/原口正宏、小黒祐一郎
構成/松野本和弘、小川びい
PROFILE
永沢詢(NAGASAWA MAKOTO)

 1936年1月9日、東京都足立区生まれ。血液型O型。1958年、学習院大学政治学科卒業。在学中から東映動画でアニメーターとして活動を始める。東映時代は『もぐらのモトロ』『わんぱく王子の 大蛇退治』『ガリバーの宇宙旅行』等に原画として参加。『わんぱく王子の 大蛇退治』でキャラクター原案から担当したアメノウズメのシーンは名場面として知られている。1965年にフリーとなり、『殺生石(九尾の狐と飛丸)』(作画主任)、『おそ松くん[第1作]』(演出チーフ)、『ファイトだ!! ピュー太』(構成、演出)等を手がける。1978年に渡米し、ニューヨーク・ソーホーに8年間在住。この間に線描きと水彩による独自のスケッチスタイルを確立。1986年に帰国。その後は東京を拠点として、世界各国をスケッチ旅行しつつ、意欲的な制作活動を展開し、その作品を、展覧会はじめ書籍や雑誌などに発表し続けている。「永沢まことのとっておきスケッチ上達術」(草思社)、「絵を描く、ちょっと人生を変えてみる」(講談社)等、著作も多い。現在は、永沢まこと名義で活動。

●関連サイト
永沢まことオフィシャルサイト
http://www.makoart.com/

●東映動画入社の頃
── 永沢さんの名前が最初にクレジットされている作品は、東映長編の第2作『少年猿飛佐助』(1959)のようですが。
永沢 でも入社したのは『白蛇伝』(1958)が始まる前でした。準備班みたいなものがあって、岡部一彦さん、橋本潔さん達が(企画を)始めてたころだったんです。僕が入社した時は9人一緒でした。臨時採用としてでした。
── 昭和32(1957)年の秋でしょうか。
永沢 そうです。
── 東映の記録だと11月16日付けになってます。
永沢 じゃあ、そうだと思いますよ(笑)。
── 記録によると実は9人どころじゃなくて、ものすごい数の人達が11月16日に入社してるんですよ。アニメーター以外ですけど。
永沢 それは主に仕上げや撮影の人達でしょう。アニメーターとして入ったのは9人です。実は私はその頃、まだ学習院に在学中だったんですよ。
── 学習院というと宮崎(駿)さんの先輩になるわけですね。
永沢 大学3年の春、そろそろ就職を考えなきゃいけないっていうんで色々探してた頃に、東映が日本のディズニーとなるスタジオを作るという新聞記事を、図書館で目にしたんです。
 大学の学務課で紹介してもらうと、就職先は銀行や保険会社あたりになるでしょう。その点、アニメーションなら絵も描けるし、東映なら親も安心するかなあと思って、東映に電話をかけたんです。まだ大泉にスタジオができたばかりで体制が整ってないようでしたが、当時課長をされていた藪下(泰司)さんが電話に出てくださって、「とにかく一度、絵を持ってきなさい」と言われたんです。それで翌日、学校サボって作品を持参したわけです。その頃、私はプロレス雑誌でイラストの仕事をやってまして、それを藪下さんにお見せしたら、「いいんじゃないか」という事になりまして。でも「君は在学中だから、本来だと来年の定期採用になるけど、それじゃ先になるので在学しながら入るか?」と言われたんです。その後、東映の本社で試験をやるので受けるようにという連絡をもらったんですが、行ってみると銀座の本社の周りに凄い数の受験希望者が並んでて……数百人はいたと思いますよ。
── なるほど。
永沢 どこかで見かけた漫画家の人なんかもいました。有名な会社が、絵描きを募集するなんてケースは当時ありませんでしたから、プロの人も来たんだと思いますね。とにかくそうして試験を受けたんです。多分、熊川(正雄)さんの描かれた画だと思うんですが、例題に人物が立ってる絵を渡されて、人物が走ってるところとか、縄跳びしてるところを描けという課題でしたね。
── それは中割りをするんじゃなくて、止めの画を描く課題だったんですか。
永沢 その人物のポーズを描けというような課題でした。その後、しばらく経ってから合格通知が来ちゃったんですよ。「プロもいるんだからダメかなあ」と思ってたんですけど、トップだか2番だかの成績だったそうです。
── それは凄いですね。
永沢 大泉に集められたのが9人で、僕の他に楠部大吉郎、亡くなった小山礼司、それから福島信行、小田克也、後に東映の重役になった江藤昌治とか……。
── 確か、杉山卓さんも同期ですよね。
永沢 あ、タクさんもそうだね。きっとその辺の事は、タクさんがいちばん覚えてますよ。記録もしてるしね。
── その方達はみなさんアニメーターとして採用されたわけですね。
永沢 そうです。最初は臨時採用で入って、熊川さんが先生として、アニメーションの基本を教えてくれたんです。だけどみんなゴロツキみたいなもんだったからね。
── (笑)。
永沢 (作画の練習のための)見本をもらうんだけど「こんな下手な絵は、描きたくない!」と言ってみんな描かないんですよ。「今度の9人はどうしようもないのが入ってきた」と社内でも噂になったらしいです。当時給料が5000円ぐらいだったんで、アルバイトで雑誌のカットなんか描いてたりして。
── 養成期間でも給料が出てたんですね。
永沢 臨時採用でしたから、大卒が5500円で、高卒が5000円、休んだら日割りの天引きだったかな(笑)。とにかく安かったんですよ。それでみんなで、申し訳程度に練習しつつ、「これじゃ食えないから」って9人で、ナインアートという会社を作ったんですよ。
── え! それ、養成期間中に作っちゃったんですか?(笑)
永沢 そうです。それで、営業の上手い人がいて、西武線沿線の会社から仕事をとってくるんですよ。なんか餌袋のデザインとかやってましたね。
── 餌袋って、家畜にやるやつですか。
永沢 そうそう。餌袋にニワトリ描くとかね。
── (笑)。
永沢 それで手分けして描いて、みんなでお金を分けたりしてました。こっそりね。
── 会社というのは、有限会社みたいな形だったんですか。
永沢 いや、そんなんじゃないですよ。ただ、名刺作って、会社を名乗ってたんです。
── 東映に見つかったりしないんですか。
永沢 いや、問題になってたようです。
── あ、バレてた?
永沢 ええ。みんな、どうせ安いんだから5000円でクビになろうがどうしようが構わないって言いながらやってました。確かその頃、横山隆一さんがおとぎプロを作ったんですよ。その記事が新聞に出たんで「こっちの方が給料いいから、みんなで行こうか」とか言ってました。
── (笑)。それは要するに、当時の東映の雇用条件が思わしくなかったという事ですね。
永沢 そうです。思わしくないしね、大体、アニメなんかよく知らなかったんですよ。参考試写を観ても面白くないでしょ。それに日動から来たスタッフや……大塚(康生)さん達とか、大卒で第1次採用組で入った喜多真佐武さんとか、坂本雄作さんとか、紺野修司さんとか。中村和子さんなど、女子美出身の人達もいて。そうした人達で『白蛇伝』を少しずつ始めてたようです。だから、僕らを早く養成して、『白蛇伝』のスタッフに入れたかったんだと思います。ところがその9人が、やる気なくてね、問題ばっかり起こしてた。例えば来客の車だったかスタジオの前に停めてあったんだけど、昼休みに、小山さんと大吉さんだったかな、その頃まだ、車って珍しかったから勝手に乗り込んで走りまわってたら、電柱にぶつけて壊しちゃった。
── ああ(笑)。
永沢 それで管理課長に呼ばれて怒られたり。会社も僕らをクビにしたかったんじゃないですかね。だけど採用して研修に金がかかってるんで、そうもいかなかったんでしょう。それで最初にきた仕事が『夢見童子』(1958)です。まず『夢見童子』の中割りをさせられたんですね(編注:実際には最初の動画は『夢見童子』ではなかったようだ。詳しくは、この連載の最後で触れる)。
── それは9人全員でかかったんですか。
永沢 他の作品もやったかもしれません。それでその面倒を熊川さんが見てくれたんです。でも『夢見童子』がまたつまらないんですよ。動きがないしね。
── ひたすらゆっくりですしね(笑)。
永沢 だからみんなも、1日1枚くらいのペースで。そうしてるうちに『白蛇伝』が動き出したんです。

●『夢見童子』から『白蛇伝』へ
── その時期の短編だと、『夢見童子』の他に『かっぱのぱあ太郎』(1957)とか、森(康二)さん達がやった『こねこのらくがき』(1957)とかを作ってますよね。
永沢 そうですね、やってましたね。
── 参加されたのは、『夢見』だけだったんですか。
永沢 『夢見』の他『ぱあ太郎』や『らくがき』も少しやったかもしれません。大塚さん達がやってた『ハヌマンの新しい冒険』(1957)かなんかを手伝わされた事はあったかな。
── 『夢見』は、タイトル上では蕗谷(虹児)さんが、原画みたいな扱い方をされていますが、実際はあくまでデザインなんですか。それとも動かないまでも、キーになる絵を蕗谷さんが描かれていたのでしょうか。
永沢 描いてましたよ。
── すると、その絵から誰かが原画を起こすという形だった?
永沢 原画を起こしたのは熊川さんと、野沢(和夫)さんがやっていたように思います。
── じゃあ、キーになる絵だけを蕗谷さんが描かれて、いわゆる原画を熊川さん達が描かれていたわけですね。クレジットでは長沼(寿美子)さんや寺(千賀雄)さんとか喜多さんの名前もありますが。あと、藤井武さんとか。松隈(玉江)さんとか。
永沢 長沼さん、寺さんもたしかに原画を描いてましたね。熊川さんはその間に立ってたのかな。でも、蕗谷さんは、ちゃんと毎日来てね、丁寧な仕事をやってましたよ。僕、よく見せてもらいました。
── だからキャラクターが崩れてないんですね。
永沢 そうだと思います。僕は仕事するよりも、蕗谷さんと話す方が面白くて。蕗谷さんも、9人のところに来ちゃあ、パリ時代の話などして下さって。そういう感じだったですね。
── どちらかというと、永沢さんもすでに挿絵の仕事をされていたから、むしろ絵描きとしての蕗谷さんの方が……。
永沢 そうですね。とても興味がありました。
── 以前、杉山卓さんがおっしゃってましたが、最初に養成された人達って、それ以前に入社した人達と部屋が違ったそうですね。
永沢 そうです。
── その養成部屋はどこにあったんですか。
永沢 2階だったかなあ。あの頃、初めてのアニメのスタジオだという事でよく見学者が来たんですよ。
── はあはあ。
永沢 で、僕らは「養成中の人々」でしょう。それで、ある人が「私達は貧しいので、カンパしてください」と紙を貼った箱を出したんです。そしたら結構お金が入ったりしてね。
── (笑)。
永沢 それを会社に見つかって、また問題になったんですよ。でも、箱を出した彼は本当に栄養失調で倒れたんです。
── みなさん、「アニメを」というより「画が描きたい」という動機で入社されたんでしょうね。
永沢 まあ画が描ける仕事っていうのが珍しかったですから。福島さんや江藤さんなんか、画なんてあまり描いた事がなかったらしいけど、よく入社しましたよ。小田さんや楠部さん、杉山さんは、画が好きで描いてましたけどね。
── 当時、永沢さんからご覧になって、「巧いなあ」と思った同期の人は、どの人なんですか。
永沢 小山さんが、画はいちばん巧かったです。養成用の画は全然描いていなかったけど。
── そうですか。
永沢 アニメ向きの巧さでは楠部さんでした。
── 漫画っぽいという意味ですか。
永沢 というより動きのある線ですね。だから後になってアニメーターとして一番自然に入っていったのは、楠部さんじゃないですか。でも小山さんは全然アニメ向きじゃない。早めに背景の方に移っていきましたよ。
── ところで、永沢さんは学習院は結局、中退したんですか。
永沢 いやいや。そのまま(学校へ)行きながら。翌年には、卒業したんですよ。
── え? でも、昼間は東映に通っているんですよね。
永沢 そうです。
── じゃあ、学校にはいかなかったんですか。
永沢 ほとんど。でも、体育かなんか(の単位)を取り残したんでね、その時だけ大学へ行きました。
── ええと、大学三年の時に東映に行って、「今は募集してないから」と言われて、電報もらって行った時は四年生なんですよね。四年の秋だから、もう学校はあんまり行かなくてもよかった。
永沢 そうです。ただ、僕は空手部でマネージャーをやってたんですね。下級生のコーチも兼ねてたんで、練習には東映を抜けて行ってたんですよ。時々、東映の(杉井)ギサブロー達が、一緒に学習院に行って空手の練習をやったりしました。
── ええっ? 杉井さんも一緒に!?
永沢 その頃はタイムレコーダーもなかったし、みんな途中で抜けてましたね。かなりいい加減だったんです。管理体制もちゃんとしてなかったんですよね。東映としても、本社から管理職がきてるけれど、絵描きの管理なんかした事ないでしょ。どうしていいか分からなかったんじゃないですか。その中でも最初の問題児が僕らだったみたいですね。

※東映動画編、杉山卓構成・文「東映動画長編アニメ全集 下巻」(徳間書店)収載の「東映動画のながれ(小史)」によると、養成班には厳しい教育システムが課され、一定の基準に達しないと、動画の仕事に就けなかった。「もっとも、当時はそれが不満で全員うっ屈した気分のまま傍若無人に群れ歩いて“2階のワルども”(一人前のアニメーターは3階で仕事をしており、養成班は2階にあった)などとかげ口を叩かれていた」とある。

── 逆に言うと、その上の人達は優等生だったんですか、みなさん。
永沢 僕らよりはね。坂本さん達、先輩の間でも9人の事は扱いに困っていたらしいですよ。だから早く班に分けて入れた方がいいという事になったんでしょう。入社後、半年ぐらい経って班分けされたと思います。それで大吉さんは大塚さんの班に入ったんですね。僕は紺野修司さんの班だったと思います。
── 班分けされる前、熊川さんの下にいた時は、実際の作画をされるわけじゃなくて、研修、練習をずっとやってたんですよね。
永沢 練習用のやさしい本番は少しやりました。
── 班分けの時に初めて、本格的な実践という形になったんですね。
永沢 そうです。
── この班分けというのが、初期の東映ならではのスタイルだと思うんですが、仕事場で実際に、机の位置もグループに分けられて、配置されていたんですか。
永沢 班長を中心に並んでました。
── いわゆる原画、第二原画、動画が、ひとつのグループにまとまっていたという事だったんですか。
永沢 いや、原画家はまだ少なかったですから。原画は原画でまとまり、班ごとに机を並べていました。
── あ、なるほど。
永沢 班は大体4、5人で構成されていました。
── 永沢さんの例で言えば、第二原画を描かれる紺野さんがその班のリーダーで、紺野さんが原画の方から直接カットをもらってきて、それをみんなで描くという形だったんですか。
永沢 そうです。第二の紺野さんは原画を清書し、中割の指定を細かくして班の人に渡すんです。
── 紺野さんの第二原画としてのお仕事ですが、原画の森さん、大工原さんのどちらからも均等にもらってたんですか。
永沢 いえ。紺野さんや喜多さん、寺さんは、森さんの原画だけをもらってましたね。
── まずそこで流れが大きく分かれるんですね。
永沢 そうです。大塚さんや中村和子さんは大工さんからもらってましたね。
── すると、永沢さんは、森さんの画の動画を描かれたわけですね。
永沢 そうなります。
── いろんなケースがあると思いますが、森さんの場合、どのくらいまでのラフな画の段階で、第二原画に渡していたんでしょうか。
永沢 それは、第二原画によって多少変えてましたね。
── 第二原画を描く人の能力によって?
永沢 そうです。森さんも大工さんもその割り振りが大変だったと思いますよ。第二原画によってキャラクターやシーンの向き不向きがありますからね。
── なるほど。
永沢 例えば、寺さん(寺千賀雄)には鳥を渡すとかね。紺野さんや喜多さんにも微妙に分けてたと思いますね。でも、大工さんと森さんとではその分け方も少し違っていてね。大工さんの方がわりと大雑把なんですよ。任しちゃうんですね。だから、大塚さんみたいな人は育っていったんだと思います。
── メキメキと力をつけて。
永沢 ええ。大塚さんに原画を渡す時なんか、ザーッとラフな画を描いて、「あと、やって」っていう感じで。
── なるほど。
永沢 森さんはそういう事はやらなかったですよ。動きの始めから終わりまでかなり細かく指定して、第二原画に流してましたね。
── そうすると、まずキーとなる原画を森さんがラフに描き、第二原画がその間の動きも含めてある程度枚数を増やして描いて、それがさらに動画に降りてくると考えていいんですね。
永沢 そうです。
── 最初の頃、どのへんの動画を描かれたかご記憶ですか?
永沢 僕が最初にやって覚えているのは、『白蛇伝』の許仙が笛吹いてるカット。
── はあはあ。
永沢 顔が5ミリぐらい動くのと笛を吹く指の上下があるだけの、すっごくつまんないカットで(笑)。紺野さんには、あんまり動きがないカットを回してたんじゃないかなあ。
── そうなんですか。
永沢 喜多さんとか寺さんの方に動きがあるカットが回ってね。紺野さんはくそ真面目で仕事が丁寧な人ですからね。森さん、わりと繊細な動きのカットを回したように思いますね。
── 動きがないというのは、つまり、派手な動きがないという事ですね。
永沢 そうですね。
── 実際の作業としては頭のシーンからラストへ向けて、描いてたんですか?
永沢 いや、違いますね。
── つまり、コンテが全部上がっていて、そこから作画を始めたわけですね。
永沢 ええ。
── だからいろんなシーンがバラバラにくる……。
永沢 ……でもないけどね。それは原画の判断で、大まかなシーンとしてまとめてやってしまうこともあったようです。大工原さんの場合、例えば少青(女の子のキャラクター)だったら、そっくり中村和子さんに回してたりね。
── その時点で、すでにそういう感じだったんですね。
永沢 ええ。波などの自然現象とかお坊さん(法界和尚)のカットは大塚さん、という感じにやってました。私の場合は、どこかの時点で大塚さんの班に変わったんですよ。
── そうなんですか。
永沢 なんでだろうなあ。

●永沢詢インタビュー(2)へ続く

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