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東映長編研究 第4回
 永沢詢インタビュー(2)

── 永沢さんの絵柄の傾向が、大塚さん向きだったんでしょうか。
永沢 忙しくなってきてから、班に関わらず、いろんな事をやってたのかもしれない。わりと大塚さんのをやった記憶がありますね。
── その当時、実際の原画作業には、熊川さんは全く関わってなかったんですか。
永沢 いや、熊川さんも一部原画を描いてると思いますよ。
── でも、熊川班はなかったようですね。
永沢 熊川さんは森さんにとっては先輩なので、森・大工原体制の中では、別格扱いしたんでしょうね。それで養成担当になっていたという事もあるんでしょう。
── 山本早苗さんは、もう実制作の場にはいなかったんですか?
永沢 全然いないです。山本さんはもう完全に管理職。次長って呼ばれていてね。日動(映画社)の社長として、森さん、大工さんとやってきた人なんで、東映としては、押さえとして適任だと思ったんじゃないですか。

●初期の班体制とアニメジャーナル

── ちょっと話を戻しますが、『白蛇伝』の終わりの頃には、もしかしたら大塚さんの原画も永沢さんが担当されていたんでしょうか。
永沢 そうですね。
── そうすると、永沢さんは第二原画を描かれていたのかも知れないですね。
永沢 いや、第二原画はやっていません。
── 大塚さんの「作画汗まみれ 増補改訂版」(徳間書店)でも動画マンの間で「いい原画、セカンドについた人は勉強になるが、そうでないと損をする」みたいな事を言われていた、と書いてありました。
永沢 そういうのはありますよ。セカンド会議では「今度来たアレはダメだ」とか、「こいつ手放すから、あいつ寄越せ」とか、そういうやりとりがあったみたいですよ。
── ああ。
永沢 私もずっと後でセカンドになってから、そういう会議に出ました。班を持つとやっぱり、巧い人が欲しいですからね。というより、下手な人がセカンドとしてはいちばん負担になるんですよ。描かない人とかね。もうホント、1日1枚も描かないような人とか描いても使い物にならない人もいましたからね(苦笑)。だから、紺野さんとか喜多さんとか、当時のセカンドの人は大変だったと思いますね。
 僕らやその次に入ってきた奥山(玲子)さん達……10人は臨時採用なので、初めから給料に差があったんですよ。
── その頃すでに差があったんですか。
永沢 かなり差があったんですよね。半分以下だったんじゃないですか。
── えっ、そんなに。
永沢 ええ。定期採用は、少なくとも大卒で1万円以上あったようですよ。僕らは5000円から5500円ですからね。「臨時」って呼ばれてたんですよね。
── それは、その後もずっと呼ばれてるんですか。
永沢 うーん……呼ばれたというか、「臨時の奴ら」みたいな感じの扱いで(笑)。
── つまり、正社員は正社員だけど、最初に設定された、給料の格差はそのままの状態で。
永沢 そう。『白蛇』の頃はまだ正社員じゃなかったと思いますね。
── ああ、臨時採用のまま、何年間か……?
永沢 1年ぐらい試雇採用だったはずです。
── 1年も試雇期間があったんですか。
永沢 ええ。長かったです。だから、後々の、労働組合を作る母体となったのが、恨み重なるその臨時の連中なんですね。喜多さんとか坂本さんといった、要するに大卒の定期採用が、当時としてはエリートだったんです。それだって普通の会社から見れば安い方だったんでしょうけど。
── 特に、東映の中で美大系の派閥みたいなものはあったんですか。
永沢 派閥はなかったんじゃないですかね。派閥よりも、美大出身で第二原画になった人がいて、その人から仕事をもらっていたわけですが、臨時の人達の中には漫画なんかを長い間1人で描いてた人もいたわけでしょう。「こういう画だったら俺のが巧い」という人もいたわけです。アニメの技術はまだ分からないけど、画自体に関しては「なんだ」っていう感じがあってね。ですから、美大出の人達も困ったと思いますよ。
── そんな事が……。
永沢 美大出の人達の多くは漫画は描いた事ないですからね。だから、森さんの存在は大きかったんじゃないですか。芸大も出てて、アニメもやっていてね。仕事の上で説得力を持ってましたから、両方に押さえが利くわけです。
── ああ、なるほど。
永沢 野育ち系の人は大塚さんを筆頭に、むしろ大工原さんの方になんとなく行って。楠部さんなんかもね、大塚さんについたけど、『白蛇伝』ですぐに原画を直接描き始めてたみたいですね。同期の中ではいちばん早く第二原画みたいな事をやってましたよ。
── 永沢さんがセカンドになられたのは……。
永沢 ずっと後、『安寿と厨子王丸』(1961)の時です。
── 当時は一作終わって、ちょっと休みがあって、また次の作品にという形で、一作ごとに全員でかかっていると思うんですけれど、『白蛇伝』の時に組み立てられた班は、ある程度温存したまま次の作品に移行したんですか。
永沢 それを母体にして、新しいセカンドを作ったようです。
── 原画マンの数も増えますしね。
永沢 確か大塚さん、古沢日出夫さんが正式に原画になったと思います。
── そもそも『白蛇伝』で、最初のうちは(作画を)角合わせで描いていたという逸話がよく語られますが。
永沢 最初は確かに角合わせだったように思います。
── あ、そうなんですね。じゃあ、『白蛇伝』も後半になるとタップ使い出したというのは?
永沢 どこかの時点でタップが配られたんですよ(笑)。それが『白蛇』だったかなあ。
── 最初に配られたタップは三つ穴のタップですか?
永沢 三つ穴ですね。金属製の。その時に(タイム)シートも変わりました。
── どういうふうに変わったんですか。
永沢 シートに色がついたような気がします。僕らが最初教育受けた時は全部、角合わせだったんですが。タップになると背景移動の指定やなんかが変わるでしょ。だから、シートも変えなきゃなんなかったんだと思いますね。最初は(シートは)白い紙だったような気がするけど、おそらく『猿飛』に入る時点で黄色い紙になったんですよ。
── 今でもシートは黄色いですよ。
永沢 そうですか。
── さらに、『少年猿飛佐助』になるといきなりシネスコになるので、動画用紙のサイズ自体も変わったと思うんですよ。
永沢 ああ、そうですね。
── その変化が2段階あるのかどうかが気になるんです。スタンダードサイズでタップを使ってる時期が『白蛇伝』の後半にあって、さらに『猿飛』で用紙も大きくなったっていう事なんでしょうか。
永沢 ……いやあ、それは記憶にないなあ(笑)。
── 養成された時は別の部屋だったとおっしゃってましたが、実際の現場で仕事される時には当然作画スタッフがいる場所に移動して、そこで机の配置が換わってっていう感じですよね。
永沢 そうです。
── それ以後の作品も基本的には、机の位置が換わるにせよ、その部屋っていうのは、長編時代はずっと使い続けてた部屋だったんですか。
永沢 ええ。でも、位置は作品ごとに全員換わってましたね。
── はあはあ。
永沢 「アニメジャーナル」というのは見た事ないですか。
── 話には聞きますが、実物は見た事ないんですよ。
永沢 ちょっと待っていてください。

※永沢さんが奥の部屋に行き、当時の東映動画の社内報「アニメジャーナル」の実物を持ってきて下さる。

── わっ、これは凄い。いつ頃に出たものですか、これ?
永沢 これはね、大塚さんが編集やってたんですよ。彦根君なんかが入ってきた頃だから、『佐助』の頃かなあ……。発行年度が書いてないですが、その頃のスタッフ達ですよ。
── とすると、昭和34(1959)年ぐらいでしょうかね。定期で出されてたんですか。
永沢 いや、凄くいい加減にやってね。これなんか動画用紙の裏を使ってますよね。(「アニメジャーナル」の裏紙を見ながら)これ、大塚さんの画だね。これ、長編の動画用紙でしょ。

※見せていただいた「アニメジャーナル」は、現場で使われた動画用紙の裏にガリ版で印刷されたものだった。閉じられたページの内側には『佐助』の画が見える。

── あ、本当だ、タップ穴が空いてる(笑)。ずいぶん大きい用紙ですよね、これが『佐助』の時の大きさなんだ。
永沢 コレは『佐助』の山賊じゃないかな。ああ、これ、大塚さんの原画ですよ。大塚さん、こういう赤っぽい色で下描きやってたから。(『佐助』の作画は)間違いなくこのサイズですね。かなり大きいですよね。
── 話が戻りますが、永沢さんがセカンドになられたというのは、次の『猿飛佐助』だったわけですか。
永沢 いえ、『安寿』からだったと思いますね。
── 『猿飛』の間はずっと動画だったのでしょうか。
永沢 そうです。一度決まったら、その作品の間はずっと同じ役職です。『佐助』で変わったのは、大塚さんと古沢さんが正式に原画になり、その分、セカンドが増えたんじゃないですかね。
── なるほど。原画は、大工原さんと古沢さんと大塚さん、森さん、熊川さんの5人になってます。
永沢 あ、熊川さんもなんだ。
── ええ。この時には原画として名前が出てますね。ちなみに、この時の動画──多分セカンドの事だと思うんですけど──としてクレジットされてるのは、楠部さんと寺さん、中村さん、紺野さん、喜多さん、杉山卓さん、奥山さん、太宰(真知子)さん。
永沢 確か喜多さんまでがセカンドで、以下は動画です。
── 次に永沢さんで、吉田迪彦(みちひこ)さん、堀川豊平さんまでがクレジットには出てるんですよ。『猿飛』の時、永沢さんはどなたの原画を?
永沢 大塚さんです。
── その時は大塚さんだったんですね。じゃあ『白蛇伝』の途中から、森さんの下ではなくなったという流れの延長で……。
永沢 そうみたいですね。それで凄く楽になった。僕は森さんの画は好きだけど、ああいう細かい動きを描くのが苦手でね。特に僕の上が紺野さんだったでしょ。きっと「アレは向こうへやった方がいい」って事になったんじゃないですかね。
── このぐらいの時期になると得手不得手じゃないけど、自分が描きやすいものっていうのはもうだいぶ自覚ができてきていると。
永沢 そうですね。『白蛇伝』で1本やった後ですからね。
── 「アニメ、あんまり面白くないや」と研修時代に思ってらっしゃったそうですけど、「あ、面白いや」と思った瞬間というのもあるんですか。「意外と楽しいぞ」とか。
永沢 いや、その辺はね、色々揺れてましたね。……まあ、誰でもそうですけど、「いいかなあ」と思ってその職業に入って、やってみると「ちょっと違うな」と思う事が出てきますよね。私の場合もそれで。まあ、画を描く仕事だからいいやという感じで入った上で、実際に画を描いてる人を見て「まあ、このぐらいなら描けるかな」という判断が正直あったんですよね。だけど突っ込んでいくとね、同じ画といってもアニメっていうのはかなり特殊なジャンルでしょ。画を描くという事よりも、動かすっていう事に興味がないといけないんですよ。それは僕に限らず、漫画やってた人も凄く戸惑ってましたね。漫画は好きだけど、別にパラパラやるまでの興味はないっていう人もいるわけですよ。動かすのが好きっていう人は、比率でいってもそんなにいないと思うんですよね。
── それは入ってきた人の中でですか。
永沢 ええ、僕らの9人の中では、多分、楠部さんくらいじゃないかなあ、動かす事に興味を持っていたのは。普通、画が好きな人っていうのは、早い話が1枚描けば気がすんじゃうんですよ。それと、自分の画を描くならいいけど、他人の画を動かすっていうのは、自分の画を描く人にとって、かなり苦痛です。だから小山礼司さんみたいに、それを早く判断した人は、背景とか、少しでも自分の画を描けるところへ行ったんだと思います。
 私の場合は、動かすのにも少し興味があったんで、かえって迷っちゃったんですね。『佐助』になって、それで森さんグループから大塚班に移って。大塚さんはわりと動きの大きいシーンが中心だったんですね。あの許仙みたいな細かい動きじゃなくて、結構遊べるんです。それで「やってみようかな」という気にはなったんですけどね。でも最後まで「動かす面白さ」みたいなものには入れなかったですね。
 大塚さんや、後から入って来た月岡(貞夫)君みたいに、動かす事にノれる人って、初めて見ましたからね。
── なるほど。
永沢 そういう人を見ると「ああ、こういう仕事はこういう人達がやる方がいいんだなあ」っていう感じでした。同じように感じて、辞めてった人がずいぶんいますよね。アニメーションって、誰でも努力すれば入っていけるというものではないでしょう。画が好きな人、漫画が好きな人、映画が好きな人を惑わすものがあるんですよ。それに作品によってもまた違うでしょう。だから、結局僕らの頃でも、セカンドになるまで、まあ4年ぐらいかかかって基礎みたいなものができてくるともう、大体20代後半に入ってきて、結婚する人が出てきたりね。子供ができたりして、もう職業を変えるのが難しくなってくる。だから、この仕事をやるしかないって考えるというのは……まあ、どんな仕事でもそうですけどね。
 アニメの場合は基礎訓練が必要だから、時間がかかるんですよ。だから、「これで一生いくのか」という事に気がつくにはね、ちょっと遅い。それがアニメっていう世界の凄く難しいところっていうのかな。
── 先ほどのお話だと、永沢さんは東映に入られる前に、すでに雑誌の挿絵などの仕事をされていたそうですが。そちらのお仕事は、例えばアルバイトのような形で続けられたりはしてたんですか。
永沢 やってたんですよ。
── それはやっぱり会社には内緒でやってたんですか。
永沢 そうです。みんな知ってましたけどね。
── じゃ、そちらで、ご自分の描きたいものを描きつつ、アニメーションも。
永沢 そうです、ええ。
── やめたいという気持ちと、アニメーションをもうちょっと続けたい気持ちの両方を抱えながら、仕事やられてたわけなんですね。。
永沢 そうですね。そういう人は、ずいぶんいましたね。奥山玲子さんとか、後に漫画家になった梅田英俊とか。やはり後に絵本の方に行った菊地貞雄とか。
── そうなんですか。
永沢 そういうような人。あるいは夜な夜な自分で画を描くとかね。美大卒の人がかなりいましたから。昼間はアニメやりながら……。だけど、辞めて、画でやるほどではない。そういう人のごった煮ですよね、当時の東映は。だから、そういう空気が『佐助』の次の……。

●『西遊記』について

── ……『西遊記』(1960)ですね。これはどんな感じだったんでしょう。
永沢 『西遊記』になって、ちょっと空気が変わったんですよ。手塚(治虫)さんが入ってきたでしょ。連れてきたのが月岡貞夫と石森章太郎なんですね。
── はい。
永沢 東映動画の空気っていうのは、どっちかと言うと伝統的な日動の空気で、画で言っても森さん、大工さんのカラーだったけど、そこに全然違う漫画の世界の空気が入ってきたわけです。だから、東映動画にいた漫画出身の人というか、手塚さんなどの画が好きでアニメーションを始めた人にとっては、凄く新しい風を感じたんじゃないですか。杉井ギサブローやりんたろうなどは結局、後に虫プロへ行っちゃっいましたよね。
── 『西遊記』で空気が変わったとおっしゃいましたが、永沢さんご自身の仕事上での変化というものもあったんでしょうか。
永沢 僕は手塚さんが入った事で、『白蛇』『佐助』以来の、重苦しさというか、日動風の画のスタイルが変わると思ったんですよ。と言っても、僕は手塚スタイルには別に興味はなかったんですけどね(笑)。でも、やっぱり新しい風ですから、いいと思ったんです。大工原さんや森さんもそれは感じたんじゃないですか。
── 反発はなかったんですか。
永沢 なかったですね。むしろ、手塚さんの方が遠慮するというか、気を遣ってました。アニメの先輩の人にいろいろ意見聞きながらという感じでしたよ。森さんと、大工原さんを立ててやってましたね。骨組みはしっかり手塚さんの考えを出していましたが、キャラクターも含めて動きに関する事は東映の原画陣に任せていたと思います。
── そうなんですか。
永沢 大塚さんは『西遊記』でわりと動きのあるシーンをやってたので、僕のところにも沙悟浄なんかが回ってきたんです。その頃ちょうどUPAの『近目のマグー(海底旅行)』なんかが出ていた頃でしょう。当時、大塚さんなんかと話してたんです。今度はリミテッド手法を入れたりする事ができるんじゃないかって。中抜きの画で……あんまり細かく描かなくていいしね(笑)。そういう画をやり始めたんですよ。
── 東映のその体制の中で実際、それはやれたんですか。
永沢 ええ、できたんですよ。私は『西遊記』に入ってから、大塚班でしたが、少しずつ直接、大工原さんから沙悟浄なんかの原画を貰うようになったんです。森さんはしっかり動画まで全部コントロールしますけど、大工原さんは、「面白い、面白い」と言ってやらせてくれたんですよ。フィルムを見たら分かるけど、私がやった沙悟浄の動きのところなんて、中割りしてないでただギャーッとやった画が沢山入ってますよ。
── そこは枚数が少ないんですか?
永沢 例えば(実際に画に描いてみせながら)フルアニメだったら最初のポーズから最後のポーズまできちんと割ってくでしょう。それを僕は、途中に波打つ線でできた画を入れて、中をつないじゃったりしたんです。
── 当時の東映動画としては基本はフルアニメですよね。2コマ撮りを守らなくてはという事はなかったんですか。実際にコマ数に関しても、リミテッド手法を実現できたんでしょうか。
永沢 ええ、それはやれる空気でしたよ。フルアニメでキチンと動かすという建前はあったんですけど、作業的に間に合わない。そんな事言ってられない感じだったんですよ。よっぽどおかしい動きだったらやり直させられたでしょうけど、ちゃんと動いていてましたし、私がやったカットは、ダンスを踊るようなシーンでしたから、何やっても、別にどうという事はなかったです。原画さえ文句を言わなければ好きにやって大丈夫だったんですよ。『西遊記』で空気が変わったいい点だったと思いますね。
── ちょっと確認しますが、永沢さんは、大工原さんの原画を動画にしていく過程で、ご自身の創意工夫を加えたって事ですね。それが主に沙悟浄の、独創的な動きになったと。
永沢 そうです、そうです。
── どこのシーンだったかご記憶ですか?
永沢 記憶にあるのは沙悟浄がもがき苦しむカットですね(編注:悟空が沙悟浄の体の中に入り、沙悟浄を懲らしめる場面。残像表現を使い、かなりパカパカとメリハリをつけて動く)。
── 中をつなぐ話で思い出したんですが、『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)の時に、今風に言うと「イケてる」と言うか、ピッとアメノウズメが振り向く時に残像が残る表現がありますよね。あれは永沢さんのやられたところですよね。
永沢 あ、そうです。それをこの『西遊記』の時に(すでに)やってたんですよ。それで『わんぱく王子』の時、演出助手でパクさん(高畑勲)さんがきて。僕が踊りのシーンをやる事になって。スポッティングっていうのをまだ、東映でもやった事がなかったんですね。
── えっ、『わんぱく』以前はなかったんですか。
永沢 本格的にはなかったと思いますね。音楽に合わせて作画するっていう事はなかった。僕らは当初から、スポッティングをやってみようと打ち合わせをして、芹川さん、パクさんと音楽の伊福部(昭)さんに会いに行って、メリハリの効いたリズムを作ってもらおう、というところからやったんですよね。
── 作曲の段階で注文をつけるというか。
永沢 そうです。また、伊福部さんが作った音楽が凄くよかったですよ。

●永沢詢インタビュー(3)へ続く

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