アニメ様365日[小黒祐一郎]

第396回 『ロボットカーニバル』の「アニメ」と「アニメーション」

 『ロボットカーニバル』の各作品について触れる前に、「アニメ」と「アニメーション」について説明しておこう。今回話題にするのは、いくつかある考え方のひとつとして受け止めていただきたい。
 「アニメ」という言葉は、1963年の『鉄腕アトム』以降に発表された、国産の商業アニメの大半を指す。表現が派手な作品、刺激の強い作品、趣味性の強い作品といったニュアンスもある。WEBアニメスタイルが取り上げている作品の大半が「アニメ」だった。
 「アニメーション」の方は、もっと意味するところが広い。広義ではコマ単位で撮って、動かないものを動かして見せる作品は全て「アニメーション」だ。素材がセルだろうが、人形だろうが、砂絵だろうが「アニメーション」である。広義では『鉄腕アトム』以降の国産の商業アニメだって「アニメーション」だ。
 ただ、「アニメ」と対比して使われる「アニメーション」は、「非アニメ的」な作品という意味になる。乱暴なまとめ方になってしまうかもしれないけれど、個人作家の実験的な作品、映像そのものの魅力を追求した作品が「アニメーション」だ。その分類でいくと『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』は「アニメ」であり、「アニメーション」ではない。勿論、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん!!』も「アニメーション」ではない。以降で話題にする「アニメ」と「アニメーション」はこの意味だ。
 「アニメ」と「アニメーション」の概念は絶対的なものではないし、境界線も曖昧だ。「アニメ」と呼ばれる作品にも「アニメーション」的な魅力はあるし、「アニメーション」として扱われる作品に「アニメ」的な魅力を見出す事もできる。
 『ロボットカーニバル』について語る上で、その「アニメ」と「アニメーション」の概念は重要だ。つまり、「個人作家として自由に作品を作る事ができる企画であるのなら、『アニメ』的なものを作る必要はないはずだ」といった事が問題になるわけだ。この場合においては「アニメ的/アニメーション的」を「商業アニメ的/非商業アニメ的」に置きかえてもいい。これは作り手側の問題であるが、観る側でも、その点を気にして観た人はいたはずだ。
 事実、『ロボットカーニバル』には「アニメ」的な作品と「アニメーション」的な作品が混在している。「アニメ」的であり、「アニメーション」的な作品もある。具体的に言えば、大森英敏監督の「DEPRIVE」、北爪宏幸監督の「STARLIGHT ANGEL」は「アニメ」的な作品であり、マオラムド監督の「CLOUD」、なかむらたかし監督の「ニワトリ男と赤い首」は「アニメーション」的な作品であった。大友克洋監督のオープニング・エンディング、森本晃司監督の「フランケンの歯車」、梅津泰臣監督の「プレゼンス」は「アニメ」的であり、同時に「アニメーション」的だったと思う。
 後年に発表された『MEMORIES』『デジタルジュース』『ANIMATRIX』『Genius Party』といったオムニバス作品も、個々の作品は個性的ではあったし、その中にも「アニメ」的な作品や、「アニメーション」的な作品があった。ではあるが、『ロボットカーニバル』ほどには方向性がバラついていない印象だ。今になって振り返ると、『ロボットカーニバル』は、むしろ、そういったバラつき具合が魅力だ。バラついているのは、個々の監督が素直に作りたいものを作ったからであり、言うなれば、作り手の熱意と、バラつきが表裏一体であった。僕はそういったバラつきすらも、愛おしく感じる。
 自分の事で言えば、試写室で初めて観るまで「アニメ」寄りの作品ばかりだろうと思っていた。今まで「アニメ」をやってきた人達が作るのだから、当然そうなるだろう、と。極端な事を言えば『メガゾーン23』『幻夢戦記レダ』等と同じカテゴリーの作品だと思っていた。だから「アニメーション」的な作品があったり、アート的なところがあったのが驚きだったし、それを新鮮に感じた。
 もっと言えば「CLOUD」と「ニワトリ男と赤い首」にも、商業アニメの匂いは残っている。「アニメ」的でありつつ、「アニメーション」的な領域に突っこんでいったり、表現を極めようとしているところが、「アニメ」好きの自分にとっては心地よかった。そこに『ロボットカーニバル』の魅力があるのだと思う。

第397回へつづく

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(10.06.28)