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コラム
アニメやぶにらみ 雪室俊一

 第10回 アニメライターの死

 77歳の橋田壽賀子さんを筆頭にドラマの世界では、50代後半から70代にかけての熟年世代のライターが大勢、第一線で活躍している。しかし、わがアニメ界では70代はおろか、60代のライターですら、ほんの数人しかいない。
 アニメライターの寿命は野球選手と同じで約20年という説もある。30代でデビューして50代になると仕事が激減、やがて開店休業になってしまうというわけだ。コーチにも監督にもなれない、アニメライターは永遠の失業者になりかねない。
 なぜこんなことになるのか。第一にライターの存在がドラマほど重んじられてないことだ。ドラマの企画の場合“だれが出るか”の次に大事なのは“だれが書くか”なのだが、アニメの企画書を見てもライターの名前が載っていることはほとんどない。たまに載っていると5、6人のライターの名前がずらりと列記してあったりする。
 第二に若いプロデューサー諸氏に熟年ライターと仕事をしたがらない傾向があることだ。自分の父親と同世代の作家とは付き合いたくないと広言する者もいる。
 いまやどこの世界でも世代を超えた縦社会は、うとんじられ、横世界が好まれている。遊びなら仲よしクラブも結構だが、気の合う者だけ集まっていい仕事が出来るとは思えない。
 今回は若いライターに負けない実力があるのに、歳を取ったというだけで仕事に恵まれず、ひっそりと世を去った2人のライターのことを書きたい。
 ひとりは山崎忠昭さん。ぼくとは『ハリスの旋風』以来の付き合いで、ずいぶんコンビで仕事をした。お互い映画育ちということもあってウマが合った。どちらもガンコだったので、あの2人を組ませると、うるささが二乗になってかなわんとプロデューサーに嘆かれたこともある。
 ペンも折れよとばかりの筆圧で書いた、山崎さんの原稿からは作家の熱気がそのまま伝わってくるようだった。たいてい枚数をオーバーして、演出家がカットするのに四苦八苦していた。『ムーミン』の第1話を書いたのも山崎さんだ。『ルパン三世』『一休さん』など、ぼくと離れてのヒット作品も多い。井上ひさしさんとNHKの人形劇を書いたこともある。決して多作ではないものの個性あふれる作品を書いていた山崎さんだが一時、アニメ界を離れたことがある。親しいディレクターのワイドショーの制作に参加するためで、不器用な彼は二足のワラジが履けなかった。
 その番組が終わり、さてアニメを書こうというときは浦島太郎状態になっていた。彼を評価していたプロデューサーは定年になったり、亡くなったりして、若いプロデューサーは、彼の名前すら知らなかった。ぼくも何本か仕事を紹介したのだが、肌が合わなかったようで、うまくいかなかった。彼の最後のアニメ作品は『桃太郎伝説』である。以後、ほとんど仕事に恵まれず、宗教雑誌の編集を手伝ったりして糊口をしのいでいた。扶養家族が年老いたお母さんだけということもあって、なんとか暮らしていけるのではと軽く考えていた矢先、山崎さんの訃報を聞いた。それが分かったのは、作家協会からの郵便物を受け取った大家が「あの人は死んだから、もう送らないでくれ」と電話をしてきたからだった。もう2ヶ月も前のことらしい。身寄りのない彼の葬儀を取り仕切ったのは福祉事務所だった。早速、問い合わせると死因も死亡日時もプライバシーを理由に教えてもらえなかった。作協の機関紙にぼくが書いた追悼文を読んで、数人の同業者が電話をくれた。ほとんど付き合いのなかったドラマのライターばかりで、アニメライターはひとりもいなかった。

 もうひとりは吉田喜昭さん。彼はぼくや山崎さんと違って優等生ライターだった。温厚で人当たりもよく、だれからも愛されていた。どんな素材をも器用にこなし、締め切りに遅れることもなかった。ある仕事の打ち合わせの帰り、お互いに小田急沿線に住んでいたので、いっしょに帰ることになった。なんと彼は駅の改札口で定期券を出したのだ。定期券を持っているライターを見たのは後にも先にも吉田さんだけである。聞いてみると、打ち合わせや原稿の受け渡しで、ほとんど毎日のように都心に出ているという。
 せいぜい週に1、2回しか都心に出ない、ぼくにとって吉田さんは別世界の人間に見えた。彼はアニメだけではなく、児童劇や絵本、学習雑誌など、じつに広範囲に活躍していた。だから、吉田さんの仕事がなくなるなどということは想像もしなかった。
 やがて、ぼくたちライターに力強い味方が現れる。ファクシミリである。特に吉田さんにとっては福音だったはずだ。彼は小児マヒのために手足の動きが不自由だったからだ。いま思うと定期券を持っていたのは、忙しさの他に不自由な手で自動券売機で切符を買う作業を省略するためだったのかもしれない。
 皮肉なことに彼に楽をさせてくれるFAXが普及する頃から仕事が減りだしたらしい。だが、がんばり屋の彼はめげなかった。母校の大学の講師という、新しい仕事に挑戦したのだ。生活の不自由はなかったろうが、家でできる原稿書きとちがい、通勤しなければいけない仕事は、かなり身体に負担をかけたことだろう。
 律儀な彼は、ほとんど付き合いのない、ぼくにも毎年、凝った年賀状をくれた。ある年の暮れ、喪中の挨拶のはがきが届いた。文字通り、彼の手足となって支えてくれていた最愛の夫人を亡くしたのだった。吉田さんは、弔問に訪れた演出家にすがりつき、子どものように号泣して悲しみをぶちまけたという。そして、彼は夫人の後を追うようにして旅立った。冬の夜、講義を終えて帰った彼はコタツで寝込んでしまった。その深夜、急な発作に襲われたらしい。
 偶然にも山崎さんも吉田さんも享年63だった。

 毎日、おびただしい数のアニメ作品が放映されている。かなりひどいシナリオもある。そんな作品を観る度に、ぼくは2人の顔を思い浮かべる。彼らだったら、もっとうまく書いたのに。この中のたった1本の仕事があったら、彼らは死なずにすんだのではないか。そう思うと、悔しくて哀しい───

(了)

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