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東映長編研究 第1回
「芹川有吾
  懐かしき日のアニメ生活雑談(前編)」[再録]

 ここに再録するテキストは、「マイアニメ」(秋田書店)の1981年6月号(創刊第3号)と7月号(創刊第4号)に掲載された故・芹川有吾の「演出家ノート 私のテレビ・アニメ考」の前編である。『わんぱく王子の 大蛇退治』や『世界名作童話 おやゆび姫』等の制作に関する資料としても、また、名匠芹川がたっぷりと自作を語ったという記事という事でも、実に貴重なものだ。本記事は、芹川有吾のご家族、秋田書店のご厚意を得て掲載する。
PROFILE
芹川有吾(SERIKAWA YUGO)

 1931年6月26日生まれ。東京都出身。1954年早稲田大学第一文学部独文学科を卒業後、新東宝に入社。企画文芸部、助監督を経て、1959年、東映動画入社。『西遊記』『安寿と厨子王丸』に参加し、『わんぱく王子の 大蛇退治』で本格的に監督デビュー。以後、『サイボーグ009』 『サイボーグ009 怪獣大戦争』『ちびっ子レミと 名犬カピ』『宇宙円盤大戦争』等の劇場作品で腕をふるい、TVシリーズでもメイン演出家として『レインボー戦隊 ロビン』『魔法の マコちゃん』『魔女っ子メグちゃん』『マジンガーZ』等、アニメ史に残る作品を手がける。観客の心を揺さぶるドラマチックな演出で知られており、気に入った音楽やモチーフを繰り返し使うのも彼の仕事の特徴である。日本のアニメ界において、演出家主導による作品作りを確立した人物と呼ばれており、また、絵描きではない演出家としては最初期の作家であろう。1991年に東映動画を定年で退社、2000年10月4日、脳梗塞のため逝去。


演出家ノート―VOL.3―
私のテレビ・アニメ考
懐かしき日のアニメ生活雑談


芹川有吾(せりかわゆうご) ■昭和6年6月26日生、東京都出身。■ライブアクションの撮影が可能だった懐かしきよき時代に、演出家として大奮闘。『わんぱく王子の大蛇退治』「Xの挑戦」などがおもな作品。


 演出の仕事といっても、“私の演出論”だの“演出に対する一考察”なんて、開きなおった堅苦しいことを私がのべたところで、きっとおもしろくもなんともないと思う。そんなことは諸先生がたがいろいろ論じていられるのだから、私の場合、気楽に東映動画での生活の思い出など、特に『わんぱく王子の大蛇退治』のことなどを中心に語ってみよう(ヤング向けテレビ番組にしか興味のない読者はとばして読んでくださって結構です)。

 私のアニメ演出家としての出発について……

 キネマ旬報の「日本映画監督全集」の私の項で森卓也氏は、私が映画界にはいったのは“ごく自然のことであった”と書いておられるが、これは正解である。私は“東京シネマ商会”という小さな映画会社を経営する家庭の子として育った。父も二人の兄も叔父も映画人だった。育った環境がすべて映画の世界、したがって小学生のころから、自分も映画人になるのが“ごく自然のこと”ときめてかかっていた。そしてその通りになった。独協高校という高校へはいったが、この高校は語学が英語専修独逸語専修とに分かれていた。その独逸語のほうへはいってしまったので、早稲田の独文科へ進んだ。入学試験の語学も独逸語で受けた。したがって私は中学、高校を通じて英語というものを習ったことがない。おかげで第二外語の英語の時間はまさに恐怖の連続だった。卒論専攻はヘルマン・ヘッセを選んだ。このヘッセ文学の影響はアニメ演出になってからも、色濃く残ることになる――『わんぱく王子の大蛇退治』『サイボーグ009』「Xの挑戦」『わたしたちの法然さま』にいたるまで――。
 「永遠に母なるもの」(EWIG MUTTERLICH)の愛、ヘッセがゲーテから受けついだものを、おこがましくも私が受け継がせてもらっているわけだ。
 卒業後、今はもうなくなってしまった新東宝という映画会社の企画文芸部へはいった。映画ファンなら覚えておられるだろうが、溝口健二監督「西鶴一代女」、伊藤大輔監督「王将」、五所平之助監督「煙突の見える場所」など、数々の名作を生んだ撮影所である。
 3年後、私は志願して助監督部に移った。後年、東映動画には実写の撮影所から移って来た人が多かったが、ほとんどが東映京都撮影所か東映東京撮影所からで、他社の撮影所出身なのは私だけ、しかも私が行った時はまだその連中は誰も来てはいなかった。
 私が東映動画にはいった時、高畑勲氏や黒田昌郎氏はすでにいるにはいた……(製作課の事務員さんとして)。かくして私は日本で最初の漫画映画の助監督となったのである。
 そのころ、作品は『西遊記』が準備中であった。アニメーターに大工原章さん、大塚康生さんなどそうそうたる連中がいた。
 宮崎駿氏はまだいなかった(現宮崎夫人はいた。女だてらに無愛想で、とてもオッカナイ少女だった。おっかないだけに、たまにニッコリ笑ってくれる顔はとてもチャーミングだった。そう、ピンク・レディー以上だった)。と、このぐらいお世辞をいっとけばカンベンしてもらえるだろう。
 もちろんそのころ、アニメ界には安彦良和くんなんてカゲも形もなかった。おそらく、我々の作品を、お母さんに手を引かれて漫画映画をみに行ってた幼稚園児だったんじゃあるまいか?
 アニメーターの中に、アゴヒゲがもじゃもじゃとはえて、眼玉のギョロギョロッとしたおっかなそうな原画の先生がいた。きっとこわくて一番うるさい人だろうと思ったが、つき合ってみると一番やさしかった。これがなんと森康二さんだったのである。

   *  *  *  *

 私が演出助手として最初に与えられた仕事が『安寿と厨子王丸』だった。ところが監督の藪下先生はいきなり、「きみ、コンテをきってみてください」といわれたのだ。私は、とびあがるほど驚いた。実写の世界では監督が助監督にコンテをきらせる例は聞いたことがない。しかし、やれといわれたのだからやらねばならない。アニメーションの“アの字”ぐらいしか知らない私は、いろいろしくじりながらとにかくコンテをつくった。この時の四苦八苦の経験はつらかったが、後々大いに役だった。そして、この『安寿――』の仕事の時から、プロデューサーの飯島敬氏と親しくおつき合いするようになり、今日にいたっている。仕事も酒も、ともによくやり、よく飲んだ。
 脚本の田中澄江先生について二人で神楽坂の旅館にこもったことがあった。酒豪の田中先生は、特別な銘柄“奥の松”しかめしあがらない。当時この酒は渋谷の東急会館のそばの酒屋でしか売っていなかった。したがって、車はわざわざ渋谷回りで神楽坂へ。ところがこの珍酒を、夜中に私と飯島氏の二人で全部飲んでしまったのである。さあ翌朝、田中先生が烈火のごとくおこられた。「同じものを補給しないなら仕事をしない」とおっしゃる。責任をとって、私と飯島氏は渋谷へタクシーを走らす羽目となった。
 この時代にはライブアクションの撮影も35ミリキャメラで本格的に撮影されていた。もちろん俳優さんのコスチューム、小道具などもキャラクターと同じものがつくられ、撮影されたフィルムは専用のコピー装置でトレスされ、それをアニメーターがみて作画したのである。『安寿――』では、その声を演じる俳優さんが自分で自分の役のライブをやった。なにせ、山田五十鈴、佐久間良子、北大路欣也など大物ぞろいなので、衣裳、小道具の手配などまでやらされた私はキリキリ舞いのし通しだった。だがこの仕事を通じて私は、実写劇映画と漫画劇映画の大きな違いに気がついた……。
 同じドラマをつくるにして、実写では誰か俳優が演じる。誰それ演じるところの何々であり、その役が斬られて死ぬとしても、それは真似だけであり、御本人はチャーンと生きていることを観客は百も承知でみている。しかし漫画映画では、その登場人物はその人自身で誰が演じているのでもない。そして殺されるとしたら本当に殺されてしまうということ、つまり、実写のようなリアリティーは無い仮象の世界ではあるが、場合によってはより強い実在感が生まれてくるというわけである。最近のものに例をとるなら、『宇宙戦艦ヤマト』は、本物として観客はうけとめる。しかし、これがもし実写だったら、『ヤマト』はセットとミニチュア特撮の組み合わせなのだということが、観客の頭からはなれないのだ。
 ライブアクションで最も本格的だったのは東映動画全作品を通じて、『わんぱく王子の大蛇退治』のアメノウズメの踊り(岩戸神楽)のシーンだと思う。
 これはまず作監の森康二さん、担当原画の永沢詢さん、演出の私、演出助手の高畑勲さん、プロデューサーの飯島敬さん、作曲の伊福部昭さん、それに振りつけの籏野恵美さん(このかたは、現在東映動画のプロデューサーである籏野義文さんのお姉様です)と、ざっとこんなメンバーが集まり、コンテを中心に綿密な打ち合わせが何度もなされて(この打ち合わせは皆、熱がはいり、まったくしつこかった)、伊福部邸でピアノスケッチがくり返された。ある時には伊福部先生、「ここでティンパニーのリズムがはいる。飯島さん、私のピアノに合わせてそこにあるボンゴをたたいてみて!」なんて、プロデューサーがお手伝いを命じられ、また飯島氏すっかりのっちゃって、じつに見事なボンゴ演奏をやってのけた一幕もあった。こうしてある程度固まったところで、今度は少数のオーケストラ編成でテスト盤が録音された。少数といっても約20人、今のテレビBGなみである。そのテープをもとに、またまたディスカッション連続。このころには永沢氏など、もう岩戸神楽の鬼と化していた。そして、ついにこの音楽一曲のためだけに50人に近い編成で本番が録音された。まさに伊福部メロディーの極致ともいうべき名曲であった。だがこれからあとが大変だった。今度は籏野恵美さん、永沢さん、私、高畑氏、それに4人の“タカマガハラ・ダンシングチーム”の作画を担当する彦根範夫さんも加わり、振りつけの打ち合わせの連続。途中から籏野バレエ団の男性4人(ダンシングチーム)と、ウズメを踊る役の女性(妙子ちゃんというかわいい少女で、皆からかわいがられた)が加わり、実際に踊りながらの打ち合わせがくり返され、暑い夏のある日、40数カットのライブアクション撮影が行われた。すべてコンテと同じサイズ、同じアングルである(ウズメが空をとんだりするところは人形を使った)。もちろん、35ミリ、キャメラはミッチェル。40数カットを一日で撮るのはきつい。それに私にとって、セットで実写の、しかもプレイバック(事前にとった音楽に合わせて俳優を動かす撮影)の監督なんて初めてだ。しかも当時高畑先生なんて、実写なんて全然知らないし、カチンコも打てない。しかたないから監督自らカチンコ打ちと助監督を兼ねての撮影……。まったく“わんぱく王子の一番長い日”であった。そして、このフィルムを音楽に合わせて編集し、作画、トレス、彩色があがり、撮影がすんでラッシュがあがったものからはめかえていったわけである。今ではたまらなく懐かしい。あんなぜいたくなことが、もう一回できるなら死んでもいいと思っているが、その当時は“二度とイヤだ”と思ったぐらいしんどい部分だった。
 『わんぱく――』のライブアクションでは、おもしろい逸話がもう一つある。火の神退治のシーンで必要な火の動きの撮影である。担当原画は楠部大吉郎氏、ボロ布と石油、ガソリンをたっぷり用意し、危ないからというので、スタジオ所員がほとんどいなくなる夜9時ごろから始めた。相手が火だから人間の俳優を撮るよりなお大変だ。そこへ楠部さんの注文がいろいろとでる。まず火が地面に燃え広がるところ、これは石油を細長く地面にまいておいて、はしから火をつけた。うまく撮れたと思ったら消すものを用意するのを忘れていた。大あわてで所内から消火器をとってくる羽目になった。次は火の玉がとぶ時の炎の尾の形を知りたいという。これはボロ布を丸めて石油をしみこませ、針金をつけてぐるぐる回してOK。最後の難問がでた。火の玉がロングから正面へとんでくるカット、さあどうやったものだろう? 考えぬいたあげく、まずキャメラをスタジオのすぐそばへ真上に向けてセットし、30センチくらいのボロ布の丸玉に石油をしませ、スタジオの屋上から火をつけて、キャメラめがけておっことしたのだ。なんのことはない、爆弾みたいなものだ。ところが、これをくり返しているうちに管理課長がとんできた。「きみたち、何をやってんだ。消防署から電話がかかってきたぞ!!」。私は大目玉をもらってしまった。
 それからしばらく、私は“ライブアクション恐怖症”になってしまった。かの“ヤマタノオロチのシーン”を大塚康生氏と月岡貞夫氏が描いたことは周知のことだが……、大塚さんがオロチの動きを本物の蛇を使って撮ろうなんていいだしたらどうしよう。私は蛇と蛾は死ぬほどきらいだし、まして「大きな蛇で」なんていいだされたらどうしよう? 動物園からニシキ蛇を借りてくるわけにもいかないし、なんてあらぬ妄想で悩んでしまったものだ……。大塚さんの仕事でライブを撮ったのは、オロチに迫られたクシナダ姫が地面をはって、あとずさりをしながらオロチに石をぶつけるシーン。これはたしか撮影所の若い女優さんにやってもらったと思う。石のかわりにお手玉をバラまいておいた。ところが、この女優さん、大熱演のあまりお手玉を力いっぱいキャメラにぶつけてしまったのだ。ああ! 本物の石でなくてよかった。1千万円からするキャメラが台なしになって、またまた大目玉、いや大目玉なんかじゃすまなかったかもしれない。しかし、この熱演は大塚さんの手によって見事に画面に再現された。私は今でも覚えている、お手玉を投げる演技をキャメラのそばでみていた大塚さんの真剣なまなざしを。いつもの冗談をとばしている時とはまるで別人の眼だった。あれこそはアニメーターがアニメーターとして生きている時の眼だ。私はそう思った。
 『わんぱく――』でやはり一番忘れられない人は森康二さん、それに作曲の伊福部さんだ(もちろん、ほかの人たちとて一日も忘れたことはないけど)。
 「マイアニメ」第2号“マイアニメライフ”に森さんがでていた。実に懐かしく拝読させていただいた。これだけでも「マイアニメ」に敬意を表する価値がある。私は映画演出技法の手ほどきを新東宝時代、並木先生、中川先生からうけた。森卓也氏は私の『わんぱく――』が、“映画”になっていることを評価すると書いてくださっているが、これこそは並木、中川両師匠の教えの賜物といってもよいだろう。そして東映動画にきて、まずアニメ演出技法を藪下泰司先生に教えられた。そして、アニメ作家としての心、根性のようなものを森康二さんに教えられた。森さんはとても優しかった。しかし、一度「ダメだ」といいだすとテコでもいうことをきかない人だった。優しさの中にも真のアニメーターとしてのきびしいシンがあった。今もきっとそうだと思う。いや、お年をめしたからもっとガンコになってるかも……(森さんごめん)。森さんは、自分の作画の人物の動きを自分でやってみることがよくある。これにはいろいろ伝説がある。『ちびっ子レミと名犬カピ』の時、森さんが壁にもたれて悲しげに頭を動かしているのにでくわして、私はびっくりした。壁にもたれて、その後ろ姿はたしかに泣いている。何かお身内にご不幸でも? と思った私が、「森さんどうしたの?」といおうとした寸前、ケロリと向きなおり動画机に戻ってまた仕事を始められた。森さんはレミと別れなければならぬバルブラン夫人が一人悲しむカットを、自分でバルブラン夫人になりきって研究しておられたのだ。
 “マイアニメライフ”で森さんは、お気にいりの場面としてスサノオとクシナダの崖の上のラブシーンをあげておられたけど、この時も動画机にベタッと寝そべるようにしては、ニカッと笑う動きを何度もやっておられたように記憶している。クシナダの演技に、そんなのがあったのだ。かわいいクシナダだとニッコリ笑うのだが、あのヒゲヅラ(失礼)だとどうしてもニカーッとしかいいようがない。しかし、フィルムになったクシナダはまさに生きた少女のように、ニッコリ笑っていた。
 だが、その同じシーンでスサノオが崖の上から遠くへ石を投げるカットがある。まさか屋上へあがって大泉の街へ石を投げたりしないだろうな、なんて冗談を同僚と話し合ったものだった。東映動画の屋上はかなり高い。それに柵もない。上るには垂直の非常ばしごみたいなのしかない。かの国宝、無形文化財がおっこちたら大変だ……。
 これはまだ、だれにも話したことはない。一生、口にするまいと思っていたことなのだが……。
 『わんぱく王子の大蛇退治』の作画が始まったころ、私に最初の子が生まれた。男の子で名を“有太郎”とつけた。だが、彼は生まれると同時に死んだ。医者の扱いは“死産”、お骨はピース50本入り缶ぐらいの小さな壺におさまっていた。東映動画入社間もない私に、慰めの声をかけてくれる人は少なかった。その中で、いちばん私を慰め力づけてくださったのも森さんだった。仕事のことになると厳しい、しかし、森さんほど心の優しい人はいない。仕事で何かがうまくゆかず、イライラして当たり散らしている時、そっと抱きとめてくれる、そんな人だった。すさまじいほどの仕事の鬼だったが、それだけではないソフトな面があった。今のアニメ雑誌にヤング受けだけで調子に乗って“仕事の鬼”なんていうやつらは、森さんのツメのアカでも飲んだらいいだろう。
 私は何度、森さんに心の救いを受けたことだろう。息子が死んだ時もそうだった……。
 「芹さん、坊やのためにも『わんぱく――』はいいものにしなきゃ……完成試写は坊やも一緒にみている……」
 その日から、私は亡き有太郎とスサノオの区別がつかなくなってしまった。スサノオが有太郎にみえ、有太郎がスサノオにみえた。スサノオについては、譲っていたことも譲らなくなった。アニメーター諸氏は、さぞ当惑されたことだろう。難しいカットにぶつかった時、スタッフからは“泣いてくださいよ”といろいろ意思表示が暗にやってくる。そんな時私は、一人考える時間をとった。“有太郎、どうだろう。パパ迷ってるんだけどいいかな、ここは。泣いちゃおか……ダメか? じゃあかけ合ってくるよ”。それでそのカットは予定通りに強行された。「芹さん、最近ガンコになりましたね」なんて嫌味をとばすスタッフもいた。しかし、そんな時も、何もいわなかったけど、森さんは優しい眼で見守ってくれていたのだと思う。

   *  *  *  *

 とりとめもなく語るといった通り、話は前へもどる。
 作画準備期間中に一泊で、森さん、私、高畑さん、美術の小山礼司氏(故人)の4人で伊勢神宮へロケハンに行ったことがある。もちろん、新幹線などない時代で東海道本線の“こだま”に予約もなしの飛び込み乗車をして伊勢へ飛んだ。旅館の予約もないし、しかもまったく悪いクセで、私と小山氏は初めて乗る特急列車(重ねて断るが新幹線じゃない東海道本線)のビュッフェというのが気にいって、東京から名古屋まで、オン・ザ・ロックの飲みっぱなし、しかも車体がゆれているから酔うことははなはだしく、はては小山氏は森さんにおんぶされ、私は高畑さんにかつがれて伊勢の旅館(交渉も高畑さんがやった……らしい)にはいった。翌日は私と小山氏はまったく二日酔いのお伊勢参りだった。それでも拝殿のたたずまいの荘厳さをみたとたん、“これだ、これを使わなくっちゃ”と4人とも眼の色が変わった。特に小山氏の変貌はすさまじかった。はいってはいけない所へどんどんはいって行ってパチパチ写真を撮る。駆けつけた警察の人に引きずりだされた時は、すべてロケハン完了というちゃっかりぶり、いいわけたつ私や高畑さんこそいい迷惑、いや内心は“小山よくやった”ってなものだった。
 『わんぱく――』作画中の作業で、非常に恩になった人が二人いる。一人は高畑さん。私は作画打ち合わせと原画チェックしかしなかった。その後の、最も重要な動画チェックを全カットやってくれた縁の下の力持ち、それが高畑パクさんだ。不審なところがあれば、相手がどんなベテランアニメーターであろうとも、ズバズバ指摘し、くいさがってゆく彼の姿勢はすばらしかった。あのパクさんだからこそ、今日のベテラン高畑勲先生であって当然なのだと思う。
 もう一人の恩人は月岡貞夫氏である。ヤマタノオロチ出現前の描写を、私は愚かにも作画寸前になって思いついた。これだけのオロチがでるヤマ場のプロローグとして、雷、洪水などのすさまじい天変地異があって当然、しかし、もう間に合わない。自然現象の描写は大変なのだ。困った、しくじった!! と頭を抱えていた時、ポンと肩を叩いたのが当時スタジオきってのいたずら坊やで有名だった月岡さんだ。「うん、実はこうこうなんだ。おれとしたことが……、でももう間に合わない。あきらめるよ」
 返ってきた言葉が意外だった。「間に合う!! あきらめるな!! どんなカットがどれだけあればいいんだ?」。それはいらずら坊や、月岡さんではなく、アニメ作家、月岡貞夫の燃える眼だった。返事を待つその眼は“『わんぱく王子――』はおまえ一人のものじゃない。日本アニメーションが初めて世界に問う、スタッフ全員の作品なんだ”と強烈に語っていた(正直いって、月岡さんみたいな愛らしい若者から、もう二度とあんな怖い眼付きを受けたくない)。
 直ちに作画打ち合わせが行われた。翌々日、月岡さんの手がポンと無造作に(ほんとに無造作に)なった。ほうってよこした原画の束。それが全部、私が頭を抱えて悔み悩んだカットだったのだ。それを無造作に、いとも簡単に(彼自身にとっては決して簡単ではなかったと思うが)描きあげていたのだ。三度、森卓也氏の論評を借りると、「オロチが姿を現すまでのサスペンス効果おみごと」。これが月岡さんが間に合わせてくれた部分だ。
 後年、TVシリーズ『狼少年ケン』が始まったころ、私はオープニングを含めて数本、月岡作画のダビングディレクターをだまって引き受けた。オトイレ(音入れ)監督などといって、皆がプライドを傷つけられたようなイヤな顔をしたものだったが……。私はあの時の、だまって大変な天変地異のカットを描いてくれたことを感謝した。だがそれにしても、あの時の彼の作画力には舌をまいた。
 手塚治虫先生は“アニメのために生まれた天才”といわれたそうだが、私にいわせれば、“アニメの世界からやってきたスーパーマン”である。
 ――というわけで、高畑、月岡の両氏に対し、この誌面を借りて心から感謝を捧げるとともに一つ忠告させていただきたい。
 「もうそろそろ二人とも若くはないんだから、健康には注意しなさいよ……」と。
 私のアニメ生活は、このあとで本格的に開花したといってもいいだろう。テレビシリーズその他、『おやゆび姫』で中村和子さんというものすごい烈女と知り合ったことなど、いろいろあるのだが、紙数がつきたので一応このへんで終わり、次回にのべさせていただこうと思う。

※「マイアニメ」(秋田書店)1981年6月号掲載
※基本的には掲載された原文をそのままテキスト化しているが、句読点の位置、括弧、誤字脱字等は読みやすさを考え、適宜補い、修整した。テキストで強調してある箇所、原文では傍点がふられている。
※なお、本文中にある「第2号“マイアニメライフ”」とは「演出家ノート 私のテレビ・アニメ考」とは別の企画連載の事である。


●「芹川有吾 懐かしき日のアニメ生活雑談(後編)」[再録]へ

(04.09.13)
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