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【ARCHIVE】
「この人に話を聞きたい」 第51回、第52回 平田敏夫
『花田少年史』のオープニングを見て「おおっ!」と思った人は少なくないだろう。イラスト調に描かれたキャラクターが奔放に動く、アーティスティックな味わいのフィルムである。このフィルムを作ったのが彼、平田敏夫だ。彼は『金の鳥』『ボビーに首ったけ』等、既成の枠にはまらぬ面白味のある作品をいくつも残してきた。また、個人作家として活動するのではなく、職人的に様々な作品に関わり、その中で時折実験的な手法等を見せる、というスタンスも興味深い。今月と来月のふた月かけて、今までの仕事についてじっくりとお聞きする事にしよう。

2002年11月12日
取材場所/東京・マッドハウス
取材・構成/小黒祐一郎
撮影/平賀正明(平賀スクエア)
初出:徳間書店「アニメージュ」2003年1月号(VOL.295)、2月号(VOL.296)

PROFILE
平田敏夫(Hirata Toshio)

 1938年(昭和13年)2月16日生まれ。血液型A型。山形県天童市出身。武蔵野美術大学洋画科を卒業後、東映動画に入社。その後、虫プロダクションへ籍を移す。次いでジャガードでCM制作に関わり、やがてアニメ界に復帰。ズイヨー映像、サンリオを経て、マッドハウスへ。監督としての代表作は『ユニコ』『グリム童話 金の鳥』『ボビーに首ったけ』『はだしのゲン 2』『リトルツインズ』等。変わった仕事として、『あずきちゃん』全話におけるエピローグのイラストレーションがある。
【主要作品リスト】

―― 今日は、平田さんの今までのお仕事について、うかがいたいんですが。
平田 いいですよ。でも僕はね、ポリシーとかそういうものってあんまりないの。やっている仕事に関しても系統とかないでしょ。なんでもかんでも、おいしいものをやっている感じで。
―― でも、平田さんのお仕事は、はっきりしていますよね。汗臭いものとか、暑苦しいものはやらないんですね。
平田 「正解!」だね(笑)。時々絵コンテを描いて、監督とかチーフディレクターに言われる事があるの。「ええ! この場面、そんなにサーっと行っちゃっていいの?」とか、「もっと舐めるようにPANすればいいのに」と言われて。僕、体質的にそういうのはできないんですね。
―― マッドハウスが手塚治虫さんの『火の鳥』を3本作っているじゃないですか。りん(たろう)さん、川尻(善昭)さん、平田さんで。川尻さんが『宇宙編』をハードな感じでやって。(注1)
平田 そうでしたね。ケレン味のあるやつを、りんたろうさんがやって。
―― ええ。で、見やすいやつと言うか、喉越しのいい『ヤマト編』を平田さんがお作りになっているんですよね。
平田 うん。自己流だけど、基本的に綺麗に撮ろうかなあとは思っていて……。つい数日前に、今度の『鉄腕アトム』の監督の小中(和哉)さんに「『火の鳥』を観ました。平田さんってニューシネマだったんだ」と言われて、なるほど……と。僕はアニメーションでも赴くままカメラを回してみようとか、ちょっとアドリブで撮ったのをインサートしちゃうとか、そういうのを割と平気でやっちゃうの。ルールを無視しちゃうんですよ。映画のモンタージュ理論みたいなのを勉強してないから、自己流なんだよね。それにしても、ニューシネマって、いい言葉だなあ。
―― ドラマに関しても、過剰にドラマを盛り上げる、という事もあんまりなさらないのではないかと。
平田 嫌いなんですよ。
―― 嫌いなんですか(笑)。
平田 ええ。所詮作り物だし、エンターテインメントなんだから、「さあ、ここで泣いてくれよ」みたいに作っていくのもあるんだろうけど。でも、そういうのは嫌い。積み上げて盛り上げて、押して押して押しまくるのは嫌いというか、体質に合わないというか。「余韻とかニュアンスとか雰囲気で、十分伝わるんじゃないの?」なんて思うんですよ。僕は映画にしても、そういう系統の映画が好きですから。そんな好みが、つい出てしまうかもしれない。やっぱり、昔、夢中になったのはヌーベルバーグなんだよね(笑)。
―― なるほど。
平田 ハリウッド映画とヨーロッパ映画のどちらが好きかといえば、絶対的にヨーロッパ映画。ヨーロッパ映画って言い方も変だけど、アメリカ以外の映画の方が好きでしたね。イギリス映画も好きだし、フランス映画も好き、イタリア映画も大好きだし。ひと頃のポーランド映画とかね。そういったものに夢中になりましたね。
―― 昔の事からうかがっていいですか。平田さんは元々アニメーターで、東映出身なんですよね。
平田 そうなんです。東映に入って、最初に森康二さんのとこに配属されたのね(注2)。これが運命の分かれ目だった。今思うと森康二さんのところへ配属されなかったら、もうアニメをやっていないかもしれない。森さんは芸大を出てるんだよね。だけど、アニメーションを馬鹿にしてないというか、アニメーションというものをすごく厳しい目で見ていた。人間的にもとても素敵な人でしたよ。人を怒った事がない。僕は森さんが、怒ったところを見た事がない。だけど、すごく恐いというか(笑)。ニコニコした森さんに澄んだ目でじぃ〜っと見られると、誤魔化しが効かない。そういう人だった。
 森さんはアニメーションというものを高度に捉えていたんだと思うんです。僕はアニメーションのアの字も知らないで森班に入って、その影響で、アニメーションって高級なものなんだと思うようになったんだと思う。今でもその想いはありますよ。
―― 話が前後しますが、平田さんは学校はどちらだったんですか。
平田 武蔵美です。油絵をやっていました。
―― 平田さんも美大卒なんですね。アニメの仕事を選んだ理由は何なんですか。
平田 出会い頭。
―― そうなんですか(笑)。
平田 大学4年の夏休みが終わって学校へ出ていくと、就職の募集が掲示板に張り出されていて、その中に「東映動画スタジオ」とていうのがあったんです。みんな、「なんだ、アニメーションスタジオって?」「漫画を描いて給料もらえるんだってよ」って、そういうノリだったね。それで何人か一緒に受けたんだと思う。受験者は、すごい人数でしたよ。
―― 他にも美大から東映動画に入った人は多かったんですか。
平田 うん。女子美、多摩美、芸大、日大。まるで美大生のたまり場みたいな感じでしたね。だから、あの頃の東映は面白かったんじゃないかな。大塚(康生)さんみたいに麻薬の捜査官をやってた人もいたし、宮崎(駿)さんや高畑(勲)さんみたいみたいな……。
―― 学習院と東大ですね。
平田 そうそう。早稲田や立教もいたね。芸大卒にしてもグラフィックデザインをやってた奴や、僕みたいに漫画じゃなくて油絵を描いてた奴もいて。画を描くにしても、みんな違う目的を持ってたから、人材の幅が広かったんでしょうね。その中にはアニメーションが好きで好きでしょうがない月岡貞夫とか、ひこねのりおとか。そういうアニメーションの仕事を目指して東映に入った連中もいた。宮崎さんもその口なのかな? 僕には分かんないんですけど。
―― そうだと思います。宮崎さんは『白蛇伝』を観て東映に入ったそうですから。
平田 そうだよね。それに高畑さんは、映画が作りたくって東映に入ったんでしょうね。あの頃は、そういう映画青年もいたんです。そんな人達に対して、僕は志が低かった。映画を撮りたいわけでもないし、アニメーションに関する知識もゼロに近かった。東映に入るまで、アニメーションなんて、日本で公開されたディズニーの映画を観た事があるくらいのものでしょ。試験を受けた時に、森さんや大塚さんが、どういう基準で僕を選んだのか未だに分かんない。結果的には、今も続けているんだから(笑)、きっと……。
―― アニメに向いてたんでしょうねえ。
平田 向いてたんでしょうね。でも僕以外にも、高畑勲、宮崎駿、りんたろう、杉井ギサブロー、月岡貞夫、ひこねのりおとか、当時の連中にはしぶとく生き残ってるのがいっぱいいますから。彼等の事を思い出すと「ああ、才能集団だったんだあ」と思うんです。「アニメーションというのは、アートである」みたいな志を持った人達もゴロゴロいましたよ。
―― 「アートである」と語るのは、どなただったんですか。たとえば月岡貞夫さんとか?
平田 そうでした。それから、永沢まことという人(注3)。彼は、今、スケッチ講座をやったり本を出したりしているんだけどね。彼なんかは「アニメーションはアートだ」と言っていたね。ユーゴスラビアの実験映画の上映会や草月ホールのアニメフェスティバルなどに、みんなを強引に連れて行ってましたよ。「アニメーションでこんなすごい事やってるんだ。もっと勉強しよう」って。
―― 率先してみんなを連れていったのが、永沢さんなんですね。他にはどなたが、そういった上映会に行っていたんですか。
平田 小田克也とか、白川大作とか。そういうところには、森卓也さんや手塚治虫さんもいて。そういう事があって、僕はアニメーションに実験映画的なものもあるんだと知ったんだ。それはその時に自分達がやっている仕事とは全然違うものかもしれないけれど、僕はそれでアートフィルム的なアニメーションに興味を持つようになったんです。そういう事に興味を持つ事に関して、同じ会社の中に「何を気取ってるんだよ」と思っていた人がいたのかもしれないけれどね。あるいはディズニーこそが至上の世界だという人もいたし、『雪の女王』が好きな人もいたなあ。僕はエンターテインメント系統の劇場作品だと、『やぶにらみの暴君』が好きだった。やっぱり、アメリカよりも、フランスの方がいいんだね(笑)。短編アニメーションだとトルンカとかゼーマンが大好きでね。そういう風に当時の東映や、あるいはちょっと後の虫プロにも色んな人がいた。だけど、『アトム』以降、テレビアニメって隆盛になって、大勢の人がアニメの世界に入れるようになると、逆に間口が狭くなったかなあ、と思うんだよね。
―― なるほど。テレビアニメ時代になってからの方が、入ってくる人材の幅が狭くなったかもしれないという事ですね。
平田 うん。そんな気がする。でも、今頃になって、短編アニメが見直されてきたみたいでね。ラピュタ阿佐ヶ谷とかで、新人が面白い短編を発表したりしているじゃない。ああ、やっぱりそうは変わっていないんだ。僕の見えるところになかっただけで、作っている人はいたんだ、みたいに思ったりしたね。
 大藤信郎とか川本喜八郎とか、日本の短編アニメーション、実験アニメーションにもすごい人は沢山いたんだよね。だけど、アートとしてグレードの高い作品を作る場所ってあまりなかったみたいで、そういう事をやりたい人がコマーシャルの方に行く事があったの。僕も虫プロから離れた後に、4年ぐらいコマーシャルの世界に行っているんだ。
―― 話はちょっと脇道にそれますが、『わんぱく王子の大蛇退治』と『ガリバーの宇宙旅行』って、ちょっとアートフィルム寄りの部分があるじゃないですか。
平田 そうですね。
―― やっぱり当時、原画をお描きになっていた方達に、そういう志向性があったんですよね。
平田 ありました。当時の東映では、班システムっていうのがあって、原画をチーフにして第二原画がついてチームを組むんです。班によって傾向の違いがありましたね。『わんぱく王子』や『ガリバー』で、だいたい永沢まことがチーフの班は、そんな事をやってましたね。
―― 踊ったりとか歌ったりとか(笑)。
平田 そうそう。で、ある時期は僕もそこへ入れられていたと思います。永沢班にいる時に、草月のアニメフェスティバルに誘われたりしたのかもしれない。それから永沢班と別に、月岡貞夫、杉井ギサブロー、りんたろう達のグループがあって。あの連中は、絶えず欲求不満というか。「もっと新しい事したい」と思っていた。彼等とつき合ったら、これがまた面白かった。彼等は才能の塊だから、みんな、キラキラと光っていて。僕なんか、どんどん引っ張られていったんですよ。20代の青春時代に馬鹿をやりながら刺激し合って。そういう事があったから僕みたいな凡人でも、色んな発想をできるような訓練ができた。今思えば、そう言えるという事ですけどね。
―― 東映にいる間は、ずっと動画なんですか。
平田 月岡貞夫が『狼少年ケン』というテレビシリーズをやった時に、初めて原画を描かせてもらった。その頃には手塚さん達が『鉄腕アトム』を始めていて、そちらに誘われて「チャンスだ」と思って虫プロに行くんです。東映の方は徒弟制度の段階を踏んで、第二原画になって、原画になってと上がっていくんだけど。手塚さんのところは過酷な状況で制作していましたから、もう……。
―― いきなり原画になれたわけですね。
平田 入ったらすぐに原画でしょ。東映では『狼少年ケン』で、数カットしか原画の経験がないのに、虫プロに行ったら即原画。今考えると、相当乱暴だったと思うんですけど。でも、4年間動画をやって、それが基礎になってたんでしょうね。虫プロに行ったら、そこにも才能の塊みたいな連中がゴロゴロしていた。
―― りんさん達はもう先に、虫プロに行ってたわけですよね。
平田 そうそう。りんさんとかギサブローさんがすでに先輩としていた。僕はいつもそういうスタイルなんですよ。あの連中の後をくっついてって、「来いよ」と言われるとついていく。自分から決して行動取らないっていうかね。虫プロには、富野由悠季がいて、出崎統がいて、高橋良輔がいて、丸山正雄がいた。みんな同世代なんだよね。そこにも「新しい事をやりたい」っていう欲求不満の連中が大勢いて。僕もそれに巻き込まれてしまった。彼等もしぶとく生き残ってるんだよね。
―― りんさんや富野さん、今、60歳ぐらいの方達ですね。
平田 そう。還暦を過ぎて、しぶとく「過激なオッサン」をやってるっていうのがすごいなあ。僕は全然違いますよ。その連中とは。
―― そうなんですか。
平田 違いますよ。その連中の後をトコトコとついてきているだけだから(笑)。
―― 虫プロで原画をお描きになって、演出デビューしたという事ですよね。
平田 そうです。だけど、演出の勉強なんてしてない。「エイゼンシュテインなんて全然知りません。モンタージュ理論って何ですか?」という感じでね。そういう奴に「明日から演出やれ」と言うのが虫プロのすごいところでね。そう言われたら、普通はビビるんでしょうけど、「やります」って言っちゃうのが、僕の浅はかさというか(笑)。でも、虫プロの面白さっていうのはそういうところにあったんだと思う。
―― 虫プロ時代には、演出の師匠にあたる方はいらっしゃるんですか。
平田 演出の師匠は山本暎一ですね(注4)。虫プロには漫画家出身の人や、アニメーターから演出家になった人など、色んなタイプの演出家がいましたが、その中で「監督ってのはこういうものなんだ」という事を教えてくれたのが、山本暎一だと思います。
―― それは仕事に対しての取り組み方みたいなものですか。
平田 そうです。「あ、監督って、こういう事をやるんだ」というのを初めて目の当たりにした、みたいな感じかな。
―― 虫プロ時代で、何かお気に入りの作品とかありますか。
平田 自分の仕事というわけじゃないけれど、『ジャングル大帝』で「アニメーションの背景ってのは、こういう発想していいんだ」と知って、目からうろこが落ちた。グラフィックデザインやってた松本強と伊藤信治を起用して、とんでもない発想で美術をやったんですよ。あの起用をした山本暎一って、すごい人だなあと思いますよ。あれはひとつのアニメーションの美術の転換期じゃないかと思うんですけど。
―― とんでもない発想って、色づかいについて、ですか。
平田 いや、背景として克明に描写するだけじゃなくって、「舞台感覚で、フォルムや色彩を使って再構成してしまおう」という発想がすごかった。『ジャングル大帝』ってアフリカが舞台だから、普通にやったら、アフリカの大自然をしっかり描写していくんだろうけど、彼等はそれをデザインで再構成してしまっている。僕はそれに関して、とんでもないカルチャーショックがありました。それくらいのインパクトがあったものは他にはないですね。
―― ご自身の仕事としては、虫プロ時代に思い出深いものはないんですか。
平田 虫プロ時代は色々やったけれど、その中で楽しんでやったのは『ジャングル大帝』ですね。その後、虫プロの経営がうまくいかなくなった頃には、僕はもう「やっぱりコマーシャルをやろうかなあ」と思って、コマーシャルの方に行きましたから。
―― 作品リストを見ると『国松さまのお通りだい』の頃まで、虫プロの仕事をおやりのようですが。
平田 いや、『国松さま』はコマーシャルをやってる時期に、アルバイトでやってんじゃないかなあ。コマーシャルの会社が銀座にあったんですけど、そこまで丸山が追っかけてきて、仕事を持ってきていた。『あしたのジョー』のコンテもバイトだと思う。
―― そうなんですか。
平田 この前、出崎(統)さんと話したんだけど、僕、『あしたのジョー』を結構やってるんだよね。それが半分以上はペンネームなんですよ。で、そのペンネームは、みんな丸山さんが付けてるんです。
―― 結構いい加減なものなんですか?
平田 うん。当時、僕は千葉に住んでて、千葉の隅っこにいるから「千葉すみこ」とかね。何の意味もなく「本田元男」とか。全部丸さんが付けたペンネームです。

●【ARCHIVE】「この人に話を聞きたい」 平田敏夫(2)へ続く

(注1)
マッドハウスが86年〜87年に3本の『火の鳥』を制作した。りんたろうが『鳳凰編』の、川尻善昭が『宇宙編』の、平田敏夫が『ヤマト編』の監督を務めた。
(注2)
森康二は東映動画の設立以前から活躍していた、名アニメーター。素晴らしい仕事を数多く残しており、また後進に与えた影響も大きい。
(注3)
永沢まこと(当時は永沢詢)は、東映動画の初期作品にアニメーターとして参加。現在はイラストレーターとして活躍している。
(注4)
山本暎一は、虫プロダクションで『ジャングル大帝』『千夜一夜物語』等、数多くの作品を手がけたアニメーション監督。後に『宇宙戦艦ヤマト』など手がけている。
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