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アニメの作画を語ろう
animator interview
 木村圭市郎(1)
 『タイガーマスク』の大胆なアクションと力強い描線は、今も、ファンの間で語り草になっている。その『タイガーマスク』のキャラクターとアクションの生みの親が、彼、木村圭市郎である。
 東映動画長編の時代からアニメーションに関わってきた彼は、『タイガーマスク』以外にも、『レインボー戦隊 ロビン』『サイボーグ009[第1シリーズ]』『ピュンピュン丸』等、数多くの作品を手がけている。その仕事は後世の多くのアニメーターに影響を与えており、アクション作画の歴史は、彼の存在抜きに語る事はできない。
 取材でお会いした木村氏御本人は、体格もご立派で、人柄も実にダイナミック。なるほど、この人なら『タイガーマスク』のあのアクションが描けたのもうなずけるというものだ。今回の取材では、アニメーターになる以前から現在までの歩みについて、話をうかがうことにしよう。

2001年9月24日
取材場所/東京・スタジオ雄
取材/小黒祐一郎、星まこと
構成/小黒祐一郎
PROFILE
木村圭市郎(KIMURA KEIICHIROU)

 1938年4月5日生まれ。群馬県出身。血液型O型。高校卒業後、東映動画に入社。『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』や『わんぱく王子の大蛇退治』の動画を経て、『少年忍者 風のフジ丸』で原画デビュー。続く『レインボー戦隊 ロビン』で、早くもキャラクターデザイン、作画監督を担当。『タイガーマスク』での仕事は、後のアニメーターとアクションアニメに多大な影響を与えている。他の代表的な仕事は、劇場『サイボーグ009』、TV『サイボーグ009[第1シリーズ]』、『ピュンピュン丸』等々。1969年頃に作画スタジオのネオメディアを設立。そこからは百瀬義行、北島信幸、森山ゆうじ、北久保弘之といったアニメーター達が巣立っている。近年は、ペンネームを使う事が多い。

【主要作品リスト】


――  アニメ以前のことから訊いていいですか? やっぱり、ご本人の人柄みたいなものがお仕事に反映してると思うので。
木村  よく小学校なんかで「大きくなったら何になりたい?」なんて、先生に訊かれるじゃない。その時に、俺は「挿絵画家になりたい」と言った覚えがあるよ。今で言うところのイラストレーターだな。だから、子供の頃から絵は好きだったんだね。
 どうでもいいことも喋るようだけどさ、家が呉服屋だったんだよ。だから、着るものなんかについても、お袋がうるさかったんだよ。俺が変な格好してると、今日の格好はダサいみたいな事を言われてね。パンツなんかも、今で言うトランクスだよ。全部お袋の手作りでさ、凄いド派手なトランクスだったよ。お袋が亡くなるまではいてたけどね。そんな感じだった。
 小学校の頃から、タブローっていうか油絵を描いてたんだよ。というのは、父親が絵が好きでさ、日曜画家だったんだよ。毎週日曜日になると絵描きの先生が家に来て、親父に油絵を教えてたわけだ。だから、親父も随分描いてたよ。その影響で、俺もチョコチョコと描いててさ。画歴の出発点はそこだね。中学くらいになったら、やっぱり別格みたいな感じになっていて、美術の先生が俺の画を県展に出すと言ってね。俺に「学校に来なくてもいいから、家で描いてろ」とか言ってさ。普通の日でも休みみたいなもんで、ほとんど描きもしないで遊び回ってさ。先生が来て「どのくらいあがりましたの?」と言うと、「あんまりノらないから、まだあがってない」なんて言って。その頃から偉そうにしていたよ(笑)。それでも、なんとか搬入までは間に合わせてね。
 高校の時には、サッカー部や柔道部で身体を動かしていた。先生を殴ったりはしないけど、先生は皆、俺を怖がってたわけよ。体格もよかったし、全然ニコリともしなかったからさ。
――  おっかないタイプだったんですね。
木村  そうだった。高校になるとさ、こんな長い学ランとかを着て、突っ張るようなやつがいるじゃない。俺は徒党は組まねえんだけど、そういうやつが生意気なこと言うと、口より先に手が動いて、ぽーんと殴ったりしていた。とにかく荒れていたわけよ。だけど、上野の美術館で全国学生油絵コンクールというのがあって、それに俺が50号の油絵を描いて出品したら、入選したんだよ。それで、「毎日新聞」だったと思うけれど、入選者の名前が載ったんだ。その時に俺は新聞を持って先生のところに走って報告に行ったんだよ。その時は、入選したから思わずニコニコしてたんだろうね。俺が高校を卒業してからね、後輩の間でさ「3年間全然笑わなかったのに、入選した時だけはニコニコしててさ」って語り草になってんの。
――  (笑)。
木村  まあ別に悪いことをしていたわけじゃない。街のチンピラに喧嘩ふっかけられても、実際に殴り合いなんかはしないんだけどね。喧嘩で一番強いのは、口で負かせちゃう事なんだよ。泥だらけになったり、あっちこっち擦り剥いて勝ったってさ、自分も痛手を被るからね。
――  そうすると、中高生の間は結構恐れられていたけど、絵の腕だけは凄いっていう……。
木村  そうだな。俺は、アニメーターになってから驚いたんだ。詳しい事は覚えてないけど、片親(の家庭で育った人)とか、サラリーマンの息子とかが多かった。俺みたいな、結構硬派で運動もやったりしてアニメーターになったのは、経歴としては珍しいかもな。
――  異色でしょうね。
木村  うん。だから俺、なんとなく知らない人から見ればアニメーターに見えないでしょ。見るからにさ、アニメーターだとモヤシみたいのが多いでしょ。俺が描いたから『タイガーマスク』ができたんだよ。
――  運動は何やってたんですか?
木村  サッカー、柔道、陸上。それに砲丸投げなんかもやっていたよ。
――  砲丸投げですか(笑)。
木村  全国大会に行くようなレベルではなかったけれど、ひととおり、なんでもやったよ。
――  お父さんとお母さんは、いずれ木村さんに家を継いでもらいたいって思ってらしたんでしょうか。
木村  いやいや。だって俺は長男じゃないから。
――  家族構成は?
木村  子供が6、7人いたんじゃないか。
――  木村さんは上から何番目なんですか?
木村  俺は4番目か5番目だよ。正確に数えればわかるけど。
――  そうなんですか。木村圭「一」郎だから、一番上かと。
木村  実家は、戦後に呉服屋をやめて、お茶屋になったんだよ。で、俺がアニメーターになった後に「木村園の息子さんは、東京でヤクザをやってる」って噂がたってさ(笑)。そのうちに、「活気づく東映動画」なんて見出しで「読売新聞」の夕刊に、石森(章太郎)と打ち合わせをしている写真がどーんと載ったわけよ。そしたらお袋が喜んじゃってさ、それを切り抜いて、お店に来る客に見せびらかしていたよ。それで『サイボーグ009』の劇場版を(実家のある)群馬の沼田でやった時に、「作画監督 木村圭市郎」って名前が出て、「ああ、ヤクザじゃないんだ」ってみんなが思ったなんて、そんな笑い話あるよ(笑)。
――  それで、高校卒業後に東映動画ですか。
木村  芸大の油画科を受けたんだけどね。一次試験は受かったけれど、二次で落っこっちゃってさ。それからは青学とか学習院なんか受けたけど、そっちも落っこっちゃったんだ。それで浪人してる時に東映動画の募集があると知って、そこに入ったんだよ。
――  地元の先輩だった楠部(大吉郎)さんに誘われたというわけじゃないんですね。
木村  いや。一応、楠部さんが保証人っていう感じだった。面接の時に「絵を描くタイプじゃないなあ」なんて言われて、それで「いや、タイプで描くんじゃないから」とか言って(笑)。その時には大勢、試験を受けにきていたけど、入れたんだよ。俺の同期は、我妻(宏)とか。それから永樹凡人とか知ってる?
――  知ってますよ。ハテナプロを作った人ですかね。
木村  うん、ハテナ。よく知ってんね。それと羽根章悦とかさ。
――  もう一回確認します。楠部さんに声かけられて、その募集があるのを知ったんですか。
木村  俺の方から「入りたい」って言ってたんだよ。本当は俺、映画監督になりたかったんだ。たまたま知り合いが新東宝にいてさ。「泣いてたまるか」とか、TV映画の監督をよくやっていた高橋繁男っていうんだ。その人は沼田の映画館の息子でさ、新東宝で助監督やっていたんで、その人に入りたいって頼んだんだ。そうしたら「映画はこれからは斜陽だから、アニメの方がいいんじゃないか」って言われてさ。それで先輩の楠部大吉郎が東映にいたから、「入りたい」って言ったんだ。それで、不定期採用の募集があった時に、試験を受けたわけよ。
――  楠部大吉郎さんは同郷で、同じ学校だったんですか?
木村  そう。高校の先輩だよね。で、今のシンエイ動画の社長の楠部三吉郎は、俺の同級生だよ。それで東映動画に入ったのはいいけれど、入ってみたら給料が安くて、一日でなくなっちゃうくらいで。これは人並みに食っていけないんじゃないかって、だいぶ悩んだけどね。
――  どうしてたんですか。
木村  親の仕送りだよ。ずっと、臑かじりだった。
――  木村さんが入った時は、劇場作品のための採用だったんですか。
木村  その頃は、劇場しかなかった。まだ、TVアニメなんてのはなかったんだから。それからしばらく経って『狼少年ケン』や『風のフジ丸』が始まって。『風のフジ丸』の時に俺、原画を描き出したんだけどね。
――  師匠と呼べる方はいますか。
木村  やっぱり楠部(大吉郎)さんだな。当時は斑があって、俺は楠部さんの班にいたんだ。大塚(康生)さんは別の斑だった。楠部さんに「俺、将来性がないからやめようと思うんだけど」なんて言っていたら、大塚さんがやってきて「木村さんの動画は、単純中割りをしてないから、原画の素質がある。だからもうちょっと頑張った方がいいよ」なんて言ってくれて……。
 三根山って群馬出身の相撲取りがいたんだよ、その三根山が座右の銘に大事にしてた言葉でさ、「失意泰然、得意冷然、ただこれ精進」っていうのがあったんだ。それを楠部さんが紙に書いてくれてたんだ。俺も「ああ、いい言葉ですねえ」なんて言ってね、机のところに貼っておいたんだよ。そしたら大塚さんが来てさ、大塚さんは休み時間になると、茶碗にお茶を淹れてふらふらとスタジオの中歩き回ってるからさ。班は違うけど、俺のとこにもよく将棋指しにきてたしね。大塚さんが「何これ?」って言うから、「楠部さんに書いてもらったんだ」って答えたんだ。そしたら「何だよ、大げさに。笑っちゃうよ」なんて言っていた。大塚さんはそういうタイプだからさ。
 大塚さんには凄い影響を受けたよ。俺が原画描いてると、大塚さんがきて「これはこういう感じだよ」とかちょこちょこ描いてくれてさ。それを見て、これは楠部さんとは違うな、と思った。
 大塚さんが「ちょっとどいて」と言って描いているのを、俺は後ろで見ててさ。「なるほどね!」って感心するとさ、大塚さんが「ちょっとあんた、声がでかいよ!」とか言って照れちゃってさ(笑)。俺は、教わり上手だったんだ。
 それは今でもスタッフに言うよ。ポケットに手突っ込んだりして話を聞いてられたら、俺は「教わる態度じゃない」って、怒鳴り飛ばすからね。教わったら必ず「どうも」とかさ「ありがとうございます」だよ。これはマナーだからさ。今、そんなのも言えないやつが多いよ。直されると不満みたいでさ。俺は先天的に教わり上手なんだね。大塚さんも「ちょっとオーバーだなあ〜」とか言いながら、照れながら知ってることを目いっぱい教えてくれたよ。だからずいぶんと大塚さんの影響は受けたね。楠部さんよりも、大塚さんの影響の方が大きいんじゃないかな。
――  楠部さんと大塚さんは、木村さんから見てかなりタイプが違うんですか。
木村  全然違うよ。大塚さんは自然体だよね。楠部さんはどこか観念的に描いてる。だから、フジ丸の立ちポーズにしても、楠部さんが描くのは、両手を広げて踏ん張っているような左右対称のポーズなんだ。大塚さんは、どっちか片方に重心があったりするんだ。それを大塚さんは「こういう方が次のポーズに移りやすいんだ」って言っていたよ。そういう部分でも影響を受けているな。
――  楠部さんも大塚さんもアクションが得意だったんですよね。
木村  だけど、随分違ったよ。楠部さんのは重たい感じで、大塚さんの方が軽快だった。フジ丸がジャンプするみたいなアクションでも、楠部さんのはポーズが堅くて、片足上げたまま跳んだり。大塚さんのはアンバランスだけど、両足を伸ばしてジャンプしたりとか。『タイガーマスク』の時には、それを俺流にアレンジしたんだ。俺はさっきも言ったように運動やっていたから、色んなポーズを取り入れたんだよ。それで当時としては新しい感じがしたんじゃない。
――  斬新でしたね。
木村  動きに伸び縮みの強弱をつけたんだよ。人間が跳ぶアクションで、空中でバーッと身体を反らせたりね。それをやると勢いが出るでしょ。当時は、そんなスタイルの動きはなかったよね。
――  ここで動きの魅力に目覚めた、というような事はありましたか。
木村  もともと画描くのは嫌いじゃないからね。だから、嫌いなことじゃないからやっていたわけだし。仕事をしていても時間の経つのが早かったよ。「もうこんな時間になったか」って感じでね。
――  初原画の『フジ丸』ぐらいから、アニメが楽しくなってという感じですね。
木村  そうだね。楽しいのは、最初から楽しかったけど、さっきも言ったように、給料日になると腹が立つわけよ。電車に乗れば「この中で、俺がいちばん安月給だろうな」とかさ。道を歩いていて、緑のおばさんがいれば、「緑のおばさんより少ないんじゃねえかな」とか思ってさ。そりゃ、面白くはないよ。いちばん元気で、飯も食べたい時に、それが一日でなくなっちゃうぐらいの金だから。馬鹿馬鹿しいなと思った。
――  遊びにも行けないですね。
木村  まあ遊びには行ってたけどね。当時は、家に帰ったってクーラーはないしさ。仕事が終わるとダンスホール行っていた。今で言えば、ディスコみたいなもんだよ。それで遊び呆けてた。もうやりたい放題。夜遊びのし過ぎで会社に来ても、動画机でつっぷして居眠りしたりしてね。動画課長に「木村君、駄目だよ、寝てちゃあ」なんて言われて。だけど動画は、俺がいちばん量を描いてたの。それは意識してやっていた。負けるの嫌いだからさ。作業表みたいのがあって、誰が何枚書いたかっていうのが分かるんだよ。それをひと月ごとに合計するんだ。大体、羽根君がいつも2番だったよ。俺はそれ見て「あ、(2番手が)近づいてきたな」と思うと、バーッと飛ばして描いてさ。
 「仕事をやっつける」という意識だよ。ひとつのカットを5日も1週間も持ってたんじゃ駄目なんだよ。どんどんやっつけてあげていかないと。俺は、それを誰に言われたんじゃなくて、自分でそう思った。だから枚数があがる。枚数あがるということは、それだけ動きを体験するってことなんだよ。それは自分の潜在的なところに蓄積されるよね。1ヶ月に200枚や300枚しか描かない奴と、1000枚とか1500枚を描く奴とでは、同じ1ヶ月でも体験が違うじゃない。それだよ。それで1年も経ったらさ、片っぽは1年で3年分4年分をやっていることになるんだから。だから、俺は手がはやいのじゃ有名だったよ。「あいつは手がはやい」って言うと、まるで盗人みたいだけどさ(笑)。仕事っていうのはそういうんもんだと思ってるから。ダラダラと舐めるように原画を描いていても仕方ないでしょ。フィルムの勝負だから。フィルムになって、動いてナンボだから。今は、そうじゃないのが多いよね。1枚の原画を、綺麗に色鉛筆の腹でムラがないように塗ってさ。描き上げても、額に入れて飾るわけじゃねえんだから。それをまた動画にするわけでしょ。
――  原画になった頃の話を聞きたいんですが。
木村  原画になったのは『フジ丸』だからさ。楠部さんが仕事を割り振るわけだよ。
――  『フジ丸』の時も、引き続き楠部さんの班にいるんですね。
木村  そうそう。小田部(羊一)さんも同じ班だった。小田部さんも先輩だからね。サブチーフみたいなポジションでやってたと思う。
――  『フジ丸』は、オープニングもやられたんですか。
木村  オープニングは動画だよ。あれは楠部さんと小田部さんが原画を描いている。あの忍者の横位置の走りなんかは楠部さんだよ。チャカチャカって走るやつね。
――  『フジ丸』はオープニングは、タイトルが出るまでは小田部さんだと聞いた覚えがありますが。
木村  ああ、そうだ。小田部さんも結構描いているよ。
――  当時の小田部さんの仕事ぶりは、いかがだったんですか。
木村  小田部さんは画に品があるんだよ。上品な画だよね。
――  アクションとかもお描きになったんですか? 僕らはどうしても『(アルプスの少女)ハイジ』とかの印象が強いので。
木村  アクションも描くよ。そんなド派手じゃないけどね。『フジ丸』の頃は、出来高になっていたんだ。量が少ねえとやっぱりやる気がしなかったよ。量が多いと燃えてやるけどさ。
――  支払いが月給制から出来高制になったんですね。
木村  そう。枚数が多いと収入も増える。出来高になって、随分稼げるようになってきたよね。
――  出来高制になったのは、TV作品の頃からなんですか。
木村  そう。それで次に俺は、契約になったんだ。契約になったら、ぼーんとギャラが上がってさ。
――  契約制になったのは『フジ丸』の頃ですか?
木村  いや、『レインボー戦隊 ロビン』の頃。
――  原画は『ロビン』の前は、『フジ丸』しかやってないんですか。
木村  うん。
――  『フジ丸』が原画デビューで、その次の『ロビン』でいきなりキャラクターデザイン、作画監督になるんですか。
木村  そうそう。当時、楠部さんが『フジ丸』で、万札を机の上に立てるぐらい給料を貰ってたんだよ。それで、俺も作画監督になればあんなに貰えるんだと思っていたんだけど、その頃からシステムが変わってさ。もちろん作監料は出るし、原画のギャラも払われるけど、大した額ではなくなっちゃったわけよ。要するに会社の合理化だね。だけど、俺はそういうのはあんまり気にしねえんだよ。「条件が下がったら、その分、量を描けばいいや」って思うから。

●「animator interview 木村圭市郎(2)」へ続く

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