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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第58回 『ミンキーモモ』打ち切り・最終回・延長

 さて、46話「夢のフェナリナーサ」の話である。
 最終回になる予定の作品だ。
 脚本では題名は「ある日突然に」となっている。
 ペンダントを失ったミンキーモモには、平凡な日々が待っている。
 その平凡な一日が、前半に描かれる。
 そして、突然、玩具屋のトラックに轢かれる。
 ここまでの展開は、脚本とは意味は同じでも、作品の描写がかなり違っているのに気がつかれるだろう。
 脚本では、描ききれない部分をミンキーモモのモノローグで語っているが、演出は、それを排除して、できるだけ映像で見せようとしている。
 平凡な一日を、作画スタッフ一同が、一生懸命、描いてくれている。
 とくに、ミンキーモモが、パジャマからおなじみの服に着替えるシーンは、原画を担当したわたなべひろし氏の力作で、着替えのシーンだけで、アニメが1本作れると冗談を言われるほど、枚数を使ったらしい。
 特に、前半は、演出と絵コンテの勝利である。
 アフレコにアドリブと台詞直しに行った僕は、学校の先生の授業など、アドリブを現場で書くのに苦労した。
 ミンキーモモが、トラックに轢かれるシーンは、演出の独壇場である。
 あれを脚本で文章化するのは無理だろう。
 僕は、ミンキーモモに潜在的には、トラックなど吹き飛ばす能力があったのに、それを、あえて使わなかったニュアンスを入れたが、これは難しいシーンだった。
 その当時、現実に死にたがる子が増えていて、現実逃避のため子供たちが自殺するのを奨励するように見えたら、困るからだ。
 だが、そこいらもすんなりと、素知らぬ振りで通り過ぎている。
 この作品の本当のクライマックスは、ミンキーモモが、魔女っ子である事を止めて人間として転生するシーンだ。
 そこも非常にうまく処理されている。
 僕の書いた「ある日突然に」とは、似てはいるが、演出力で想像以上にパワーアップした作品になったと思う。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の最終回を飾るには、充分な出来だと今も思っている。
 冗談で、ミンキーモモがトラックに轢かれる場面を、主犯・首藤剛志、実行犯・湯山邦彦、犯罪幇助・大野実と呼ばれた事があるが、テーマはあくまで、ミンキーモモの人間としての転生である。
 なお、ラストシーンで、登場人物一同が『ミンキーモモ』の主題歌を合唱する場面があるが、これは、朝早くビクターの大きなスタジオで録音した、スタッフ・キャストの歌声である。
 脚本家・演出家・絵コンテ、その他様々なミンキーモモに関わった人が、早朝にも関わらず大勢集まってくれて、一種、感動的であった。
 みんな歌は素人である。
 主題歌を歌っている小山茉美さんが歌唱指導をしたが、だてに合唱が下手だったわけではないのである。
 それだけ、スタッフに愛された作品だったのだろう。
 ついでだが、子供の頃、発声法を習った事のある僕は、歌声が目立ちすぎて、合唱の録音の時、どんどん後ろに追いやられた。
 ついには、スタジオの出入り口のドアまで、マイクから遠ざけられたが、しっかり、僕の声が判別できる合唱になっている。
 合唱まで首藤剛志を主張していると冷やかされたが、僕は満足である。
 いずれにしろ46話は、スタッフ・キャストが、最後の力をふりしぼった最終回だったと思う。
 みんな、ほとんど燃えつきていたといっていい。
 あれから半世紀以上、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の46話が、大人になったアニメファンの話題にのぼる事は、光栄ですらある。
 それでも、打ち切りに頭にきていた僕は、当時、発行されていたアニメ雑誌「OUT」に、作品はスポンサーのものだけであって、視聴者や作り手を無視して、勝手に打ち切りを決めていいのか? と、抗議の声明文を載せた。
 ところが、その号が発行される前に、なんと『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の延長がきまったのだ。
 だから、その号の僕の声明文に、文末にただし書きが書いてある。
 この文を首藤剛志氏が書いたのち、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の延長が決まりました。
 正直言って、きつねにつままれた気分だった。
 スタッフも同じ気持ちだった。
 人間の子供になった赤ん坊のミンキーモモに、どんな延長が考えられるのだろう。
 ほとほと困ってしまった。
 その頃には僕が次にシリーズ構成をやる『さすがの猿飛』が決定しかけていたし、『戦国魔神ゴーショーグン』のノベライズの話も来ていた。
 さらに、メインライターの『まんが はじめて物語』も続けなければならない。
 だが、ここまで付きあった『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を人に手にゆだねる事も嫌だった。
 だが、今まで『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を書いてくれていた脚本家も、それぞれ別の仕事を始めている。
 これで、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の延長ができるのか?
 それは、総監督の湯山邦彦氏も同じ思いだったようだ。
 一度終わりと決まったら、スタッフは次の仕事を探している。
 のんびりしている経済的余裕がないのだ。
 延長といえば聞こえがいいが、一度は、打ち切りを決定された番組である。
 スタッフはバラバラになり、もう一度集めるのは、新作を作るのと同じぐらい面倒であるはずだ。
 脚本でいえば、いうまでもなく脚本ができ上がるのは、作品制作の最初の時期である。
 少なくとも、放送の3ヶ月前までには、脚本ができ上がっていなければならない。
 46話が最終回と決まって、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』も脚本家陣はいったん解散した。
 当時のギャラは安く、月に1本ペースでは、とても食べていけない。
 打ち切りと決まったら、早く脚本家に知らせ、他の仕事を探さなければならないのだ。
 幸いしたのは、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のレギュラーが、生活が比較的自由な独身だった事、他にも作品を抱えていた事だった。
 だから、月に1本どころか、数ヶ月に1本のペースの『ミンキーモモ』もあった脚本家でも、やっていけたのである。
 数ヶ月に1本でも、自分の好きなものを書ける、もしくは、時間に追われなくとも好きな時に脚本が書けるのが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の特徴だった。
 だから、発注してから数ヶ月かかったものもあれば、3、4日ででき上がった脚本もあった。
 そこら辺は、脚本家の乗りに任せた。
 それの方が、いい作品ができると思ったのだ。
 僕は、シリーズ構成としてほとんどの場合、締め切りを脚本家に強要しなかった。
 これが可能だったのは、プロデュサー等を含めた本読みという会議がなかったからだ。
 この手の会議をすると、まず、みんなに読んでもらうプロットが必要になる。本読みのための時間が必要になる、色々な人の意見が加わった直しの時間が必要になる。
 放映話数も決められる。当然脚本完成のぎりぎりの時間も決められる。
 結果、脚本家は、締め切りの時間に追われる事になる。
 ところが、僕のシリーズ構成の場合、脚本家と締め切りを決めずに打ち合わせする場合が多かった。
 つまり、でき上がったもの順に放映していたのだ。
 それでも、1週間に1本は放映しなければならないから、絶えず、3本ぐらいの完成脚本は、手持ちにしていた。
 間に合わなくなれば、僕が直して、プロデューサーに提出した。
 そして、どうしようもなくて没にした原稿にギャラも出せた。
 今では、そんな事はとても無理だろう。
 だいたい、1週間に1回ある本読みに合わせたスケジュールで、脚本ができ上がってくる。
 したがって本読みのある日が締め切りになる。
 直しがあると、その締め切りも1週間後だ。
 脚本なんてものは、そう規則正しく書けるものではない。
 だいたい、直しなど出るとほったらかしておかれ、その間の時間は他の作品に使われて、いよいよ締め切り間際に直しができてくる。
 シナリオに、脚本家の乗りや勢いが反映されなくなる。
 直しが出れば出るほど、脚本のまとまりはよくなるが、面白くなくなるのは、定期的な本読みという会議があるのが理由のひとつだと思う。
 脚本家の個性を殺してしまうのである。
 さらに、どうせ直しが出るだろうと、第1稿を、直し前提で適当に書いてくる脚本家も出てくる。
 つまり、平均点程度のものしかでき上がらなくなるのだ。
 いい脚本から悪い作品ができる事はあるが、悪い脚本からいい作品が生まれる事はない……とは、よくいわれるが、本読みという会議で、面白い脚本が普通のつまらない脚本になる事は往々にしてある事だ。
 だが、本読みというかしこまった会議のない『魔法のプリンセス ミンキーモモ』も、打ち切りには苦労させられた。
 52話分のエピソードは、ほとんど僕の中でできていたからだ。
 43話から45話までは、46話を最終回にするために、別のエピソードを使った。
 だから、本来の最終回を向えるまで、10近いエピソードがあるにはあった。
 しかし、それは、魔法の使えるミンキーモモのエピソードで、赤ん坊で普通の人間につかえるエピソードではない。
 さあ、どうするか……。
 そのうちである。
 なぜ、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が延長される事になったのかの理由が分かってきた。
 それは、視聴率がいいからでもなく、ファンの熱い要望に応えたわけでもなく、極めて現実的なスポンサーの事情だったらしいのである。
 なお、付録で「夢のフェナリナーサ」(ある日突然に)の脚本を掲載してもらった。
 でき上がった作品と見比べてもらうのも一興である。
 僕の書く脚本は、演出や絵コンテで変えられる事はまずない。
 しかし、この回は、かなりの部分が、でき上がった脚本とは変わっている。
 演出や絵コンテの工夫で、作品がよりよくなった珍しい例だと思う。
 それだけ、スタッフの熱意が感じられて感謝している。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 多分ほとんどの脚本家が、やっていそうで、やっていない事、それは、自分の脚本を、自分の頭の中で映画化する事だ。
 つまり、脚本はでき上がれば、演出家なりプロデューサーに渡せばそれで終わり、でき上がりは、スタッフ任せだという事だ。
 しかし、折角自分が書いた脚本なのだから、でき上がりを予想するのも悪い事ではない。
 頭の中に、映画のフレームを考えてみる。
 そして、カメラマンになって、自分の脚本を映画化するのだ。
 音楽も自分で作ってみよう。
 もちろん既成の音楽をBGMにしてみてもいい。
 登場人物は、自分がモデルにした人でいい。
 著名なアイドルや俳優を使うと、あなたの考えたイメージと違うものになりそうだ。
 絵が描ける人なら、絵コンテを描いてもいい。
 そして、あなたのイメージしたとおりの間(ま)で、自分の脚本を読んでみるのだ。
 台詞は感情を込めて読んでみよう。
 どうせ、あなたが1人で個室でやる作業だから、恥ずかしがる事はない。
 全体が長いものなら、シーンごとに読んでもいい。
 そして、それをテープかMDで録音してみる事だ。
 そして、それを、こんどは、あなたが視聴者になった気持ちで聞いてみよう。
 これをやると、自分の書いたものの、退屈な部分や、饒舌な部分がよく分かる。
 書いただけでは分からない部分がよく見えてくる。
 その、自分でつまらないと思う部分を、書き直してみよう。
 自分がつまらないと聞こえる台詞や行動が、他人に面白いわけがない。
 自分で書いたものを読み返して推敲する人は多いが、耳で聞いてみる人は少ないと思う。
 脚本は、小説ではない、音と映像の表現である。
 映像は頭の中にイメージするとして、音は、自分で聞いてみよう。
 べつにステレオやドルビーなどの音響効果まで考える必要はない。
 映像と音楽とを含めた音を意識すればいい。
 特に台詞は大事だ。
 脚本の中で違う人が話しているつもりの台詞が、同じ人が話しているように聞こえたら、あなたは、人間の描き分けができていない事になる。
 脚本の初心者なら、イメージの中で、自分の映画を作る試みを、早めに、一度はやってみて、損はないと思う。

   つづく
 


■第59回へ続く

(06.07.19)

 
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