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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第41回 『戦国魔神ゴーショーグン』シナリオよもやま話

 『戦国魔神ゴーショーグン』の台詞は、5話目の僕が書いた「地獄のファンタジーランド」までは、ほとんど、ぼくの息遣いで書き直したといっていい。ともかく、キャラクター達の、個性的な台詞で『戦国魔神ゴーショーグン』という作品のタッチを、統一しておきたかったのだ。5話は、僕が書いたから、当然、僕流の台詞である。
 ちなみにこの回は、悪の組織ドクーガが、全世界の銀行を掌握している――ケン太の使ったクレジットカードで、グッドサンダーの居場所が知られてしまうのだ。しかも、ディズニーランドのような子供相手のエンターテインメントまでも、ドクーガに操られている――事を、視聴者に知らせる、わりと大切な回だった。
 ドクーガは、単なる悪の組織ではなく、世界の金融と産業のほとんど……つまり、社会生活を続ける人間に必要なもののほとんどを陰で牛耳っている事を知らせたかったのだ。
 そして、グッドサンダーのメンバーで子供嫌いのキリー(子供時代にトラウマがある)と、ケン太との気まずい関係を、すこしだけ、緩和させる回でもある。
 『戦国魔神ゴーショーグン』のテーマのひとつとして、ケン太は最終回までに、ありとあらゆる人、生き物、地球の存在するものとコミュニケートできる子供に成長させる必要があった。
 5話は、そのその最初の伏線になるつもりの回だった。
 誰とでも仲良くなれる……それは、『戦国魔神ゴーショーグン』が終わったずいぶん後に僕が書く事になる『アイドル天使ようこそようこ』の主人公ようこにも似ている。
 ちなみに、『戦国魔神ゴーショーグン』の五話は、後に『アイドル天使ようこそようこ』の総監督になる網野哲郎(アミノテツロー)氏が、『戦国魔神ゴーショーグン』の中で、1本だけ絵コンテを書いた作品である。偶然かもしれないが、現実というやつには時々、作為的な事が起こるものである。
 5話から8話までは、主に、猫(動物)や、通りすがりの子供たちとコミュニケートし、メカを友達と考えているケン太の様子が描かれる。
 もちろん、グッドサンダーやドクーガのメンバー達の、相変わらずの漫才風やり取りも描かれるが、主流は、ケン太の話である。 6話、7話、8話を、既成のプロ脚本家に書いてもらえば、それなりのものはできるだろうが、ありきたりの動物や子供たちの友情物にしたくはなかった。
 脚本としては未熟だろうと、新しい視点が欲しかった。
 そんな時、葦プロで編集をやっている山崎昌三という人が脚本を書きたがっている、という話を聞いた。『戦国魔神ゴーショーグン』の企画書にも参加していた人である。
 やらしてみたらどうか? というプロデューサーの声もあり、さっそく6話を書いていただいた。
 案の定、既成のライターと一味違うものができてきた。
 台詞の直しもほとんどしなくてすんだ。
 この山崎昌三氏の書いた第6話「光る眼の悪魔」が、彼のシナリオデビュー作になった。山崎昌三氏はその後、武上純希氏と名前を変え、今も様々なシナリオを書いている売れっ子の脚本家になった。
 第7話「隠し砦の仲間達」も、この手に倣って、今度は演出の湯山邦彦氏に書いてもらった。湯山氏も脚本を書いたのは、これが2本目で、その1年ほど前に別の作品に1本書いただけだという。湯山邦彦氏としては、第7話は、純粋に脚本だけで、本来の仕事である絵コンテや演出は、西村純二氏が担当した。
 湯山邦彦氏の書いた脚本も、既成のシナリオライターの書いたものとは一風変わった味がしていた。
 蛇足だが、本来は演出家である人が、脚本も書ける事は、大切な事だと思う。それは、プロデューサーにも言える事で、脚本を書いた経験のない人は、本読みの時に、どうしても各シーン、各シーンの出来に目が行ってしまう。
 作品全体を考えずに、それぞれのシーンだけを読む傾向がある。
 つまり、木を見て、森を見ないのである。
 そんな演出家やプロデューサーがごちゃごちゃ意見を言う本読みを経た脚本が、よくなる例は少ない。むしろ悪くなる一方である。
 ところが、プロデューサーや演出家の注文のあったシーンだけを、書き換えて、それで直しを終えた気になるシナリオライターが、とても多いと聞く。
 パソコンのワープロで、言われた部分だけを書き換えるのだから、たいした手間はかからない。
 だが、作品の一シーンを変更すれば、それに準じて、全体が変貌していく。登場人物の感情も、行動も変わって行くはずである。
 そんな事も気にせずに、平気で言われるままに直しをする脚本家は、ただの書き屋さんとしかいいようがない。シナリオライターとは呼べないと思う。
 それに気がつかず、直しをどんどんさせるプロデューサーも演出家もどうかしている。
 是非とも、プロデューサーも演出家も、脚本を書けるようになれとまではいわないが、せめて、脚本の勉強ぐらいはしてほしい。
 映像専門のプロデューサーは、沢山の脚本を読んで慣れているから、まだましだが、最近のマルチメディア化で、脚本の読み方を知らないプロデューサーが増えている。
 アニメの関連商品に関わっていた人は、脚本の事は分からないと、最初から自覚している人が多いからいいが、困るのは出版関係、コミック等の編集をしていた人が、映像関係のプロデューサーになったりする場合だ。こんな人が、脚本や映像・映画の色々なところに口を挟むと、悲惨な結果になる事が多い。
 ご本人は、小説やコミックを読み慣れているから、脚本も読めると思い込んでいるから始末が悪い。
 本や雑誌と、映像・映画は別物である。
 映像・映画をよく知って、本当に脚本を読めるようになってから、プロデューサーをやってほしい。そうでないと、そんなにわかプロデューサーに迎合して、脚本を直す事でいっぱしの脚本家になったつもりの、自称脚本家もどきがこのシナリオ業界を席捲してしまうだろうし、事実、その傾向は広がっていて、石鹸どころか、脚本家という仕事を汚す一方になってしまうだろう。
 例外としてあげられる脚本の読める出版物編集出身のプロデューサーは、僕の知る限り、徳間書店で編集をしていてプロデューサーになった現スタジオジブリの鈴木敏夫氏を筆頭に、数人しかいないと思う。
 余談はこのくらいにして、『戦国魔神ゴーショーグン』の8話「ゴーショーグン帰還せず」は、再び、フイルム編集が本業の山崎昌三氏に書いていただいた。彼にとっては、デビューから2作目の作品という事になる。
 山崎昌三氏や湯山邦彦氏の脚本と同時進行で書かれていた、第9話「ダイヤモンドは燃えつきて」は、悪が善玉をいじめてるという、比較的まっとうなエピソードなので、プロ脚本家の渡邊由自氏に書いていただいた。
 ただし、悪の組織ドクーガの損害を、ブンドルが、一括払いにするか分割にするかと聞かれ、「ええい、いさぎよく一括払いだ!」と叫ぶ、いかにも『戦国魔神ゴーショーグン』らしいシーンは、アフレコぎりぎりまで考えて、僕が付け加えた場面である。
 10話のグッドサンダーが運んでいるビムラー・エネルギーの質が変貌する重要なエピソードは僕が書き、11話、思春期の兆候が見え始めたケン太とレミー島田のエピソードは、かなり重要なので、渡邊由自氏との共作の形をとった。
 タイトル上、共作の形をとる時は、3分の2以上、僕が手を入れている。
 ちなみに『戦国魔神ゴーショーグン』『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に限らず、シリーズ構成をした作品で、僕が半分程度の変更や、多少の台詞を直した作品には、僕の名前は入れない事にしている。
 シリーズ構成や原案や原作の名前で出ているから、それでいいと思っていたのである。
 余談だが、首藤剛志は本名で、いつも、読み方や書き方を聞かれて苦労する。まともに「しゅどうたけし」と読まれた事は少ない。「すとう」とか「しゅとう」とか、ひどい時には「くびふじ」と呼ばれる時もある。
 「たけし」も剛志と書かれる事はまずない。武、猛、よくて剛、武司と書かれるときもある。僕の家族すら、読みにくく書きにくいから、物を書く時は、ペンネームを作ったらと僕に勧めたほどである。
 なかば意地で「首藤剛志」で通してきたが、ここまできたら最後まで続けるつもりである。
 ただ、原作のある『超くせになりそう』のシリーズ構成をした時に、たまたま獅子座流星群が地球に降っていたので「めてお・しゃわー」(流星雨)というペン・ネームを作った事はある。
 さて、話を『戦国魔神ゴーショーグン』に戻して……。
 12話のレミー島田のエピソード「別れのモンマルトル」に脚本タイトルされている木下薫さんという女性は、今はNHK大河ドラマ「義経」の脚本家で知られる金子成人氏から、『ゴーショーグン』の当時紹介された、シナリオ作家志望の20代前半の女性だった。同世代、レミーぐらいの年ごろの女性が、フランスのパリ、そこで出会う恋人をどう感じるかを知りたくての起用だった。
 パリには、僕も1ヶ月ほどいた事があるが、その時は、食べるにも困るほど貧乏で、とても、パリらしいロマンチックさとは、無縁だった。
 つまり、僕とは違う目、女性から見たパリの街を知りたかったのである。
 木下さんは、その後、俳優と結婚されて、脚本とは今は無縁のようである。
 13話、14話、15話は、あらすじと台詞以外はほとんど、プロの脚本家、渡邊由自氏と富田祐弘氏に書いていただいた。
 実は、11話あたりから15話あたりまでは、目の回るような忙しさで脚本の完成を急いだ。
 2、3週間ほど時間が欲しかったのである。『戦国魔神ゴーショーグン』は当初から、26話完結と決められていた。しかし、『宇宙戦士バルディオス』の例を見ても分かるように、いつ打ち切りになるか、それは誰にも分からない。
 いつ終わってもうまく完結するように、伏線は『戦国魔神ゴーショーグン』の2話にふっておいてはいるが、現状を言えば、『戦国魔神ゴーショーグン』も、放送時間がいきなり夕方から午前中に変更され、また夕方に戻るなど、作品自体が瞬間移動するような状況だった。『戦国魔神ゴーショーグン』が、すんなり終わるためには、打ち切りが決まってから、どうしても、4話分ほどの放送時間が欲しかった。
 『戦国魔神ゴーショーグン』は、ビムラーという謎のエネルギーを抱えて、世界中を逃げ回るのが骨子だった。
 どこをどう逃げるか、そこがどんなところか、取材が必要だった。
 クライマックスに予定しているヨーロッパを、どうしても見ておきたかった。
 もちろん、シナリオ・ハンティングの費用など出ないから、自前である。それでも行って見ておきたかった。
 妖精伝説のあるイギリス、ドクーガの本拠地のあるスイスのレマン湖、そしてこの作品でなければおそらく書けないだろう、ドイツを舞台にした北条真吾の友情と恋愛の話……。ついでに、今後『戦国魔神ゴーショーグン』以外の作品で、出てくるかもしれないヨーロッパの各地……。僕はヨーロッパを回り、帰りの飛行機の中では、第16話のシナリオを書いていた。題名は決まっていた。
 「さらば青春の日々」である。
 男が2人いて、女がいて、その理想的な三角関係の話……。もちろんこのエピソードには、元になるモデルがあるし、脚本家なら一度は書きたい男女の三角関係である。
 そして、僕にとってそれは、ドイツ人と日本人と、場所はドイツ南部を舞台にしたものしかなかった。
 このエピソードを成立させるのに『戦国魔神ゴーショーグン』は、格好の背景だったのである。
 これにはかなり、現実の僕の、ガールフレンドとのドイツでの体験が、潜在的なイメージとして影響していたかもしれない。
 『戦国魔神ゴーショーグン』制作途中のこの旅には、他のスタッフは誰も参加していない。
 葦プロダクションで、なぜ『戦国魔神ゴーショーグン』の途中に僕が旅行などに出かけたか、そのわけを知っている人は少なかったと思う。
 誰も、ロボットアニメのシナリオハンティングに、外国まで行く奴がいるなどとは考えもしなかったろう。
 でき上がった作品にも、わざわざヨーロッパに行くほどの価値があったか? と、首をかしげる人も多いかも知れない。
 しかし、僕の脚本は、作品に現れない背景が、リアリティとして必要なのである。『街角のメルヘン』が新宿で、『アイドル天使 ようこそようこ』が渋谷であるように……。実は『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の空モモが住んでいる「どこかの街」は、ドイツのある都市をモデルにしているのに気がついている人は、ほとんどいないだろう。
 ともかく、僕が、旅の帰りの飛行機の中で書いていた『戦国魔神ゴーショーグン』「さらば青春の日々」には、三角関係の他に、もうひとつの試みがあった。それは、この作品のタイプが、コン・ゲームだという事だ。
 コン・ゲームとは、推理小説や冒険小説によく見受ける「だましあい・どんでんがえし」の事である。つまり、見ている観客もだまされ、作品に登場している人物もだまされる。……そんな作品の事である。
 アメリカ映画で、アカデミー賞を獲った『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル監督)という作品が、その典型的なものだといわれている。
 娯楽映画だが、世界の名作200ぐらいの中には登場するだろうから、見ておいて損はない。
 コン・ゲームをやったアニメは「今まで日本にはなかったのではないか」……というあるアニメ雑誌の編集さんの言葉を真に受けるとすれば、まさに一度は作りたいコン・ゲームが、この作品である。
 このコラムにWEBアニメスタイルのご好意で「さらば青春の日々」のシナリオを載せていただいた。
 絵コンテ・演出は共に、湯山邦彦氏である。
 シナリオと完成品のアニメを比べて見るのも面白いと思う。
 シナリオに書かれていない映像表現部分が、絵コンテ・演出の力といっていい。
 なお、台詞は、アフレコぎりぎりまで考えていたから、シナリオとは多少の違いはあるかもしれないので、そのつもりで読んでください。
 なお、次回も『戦国魔神ゴーショーグン』の話を続けるつもりでいる。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 自分が世界で1人だけの存在であるという自覚を持つのは、難しいようだが実は簡単である。なぜなら、世界に自分が1人しかいないのは、厳然たる事実だからである。
 同じ指紋を持つ人間が、2人はいないのと同じである
 1人しかいないのなら、必ず他の人と違いがあるはずである。
 その違いを見つけ出そう。
 ひとまず、異性はおいておいて、同性の人間と自分の違いを見つける事だ。
 大切な事は、他の人間より劣っていると思われる部分には、目をつぶる事だ。
 僕の場合、スポーツや運動能力で、人より優れていると思った事などない。上には上がいる。オリンピックの金メダル候補と、運動能力を比較しても無理である。
 学力などの頭脳関係も無駄である。小学生で大学卒業以上の才能を持つ人間など、世界中に何人もいる。
 知能指数を比べたところで、きりがない。200近くの知能指数で威張ってみたって、上には上がいるはずである。
 つまり、人間の持つ能力関係で他人との違いを見つけるのは、不可能に近い。
 他人より劣っているところならいっぱい見つけられる……と、うなだれる人もいるだろうが、ここはあくまでプラス思考で、他人より優れている違いを、自分の中に見つけ出すのだ。
 そんなものはありはしない……と、あきらめるのは早い。
 繰り返すようだが、あなたは、この世界に1人しかいないという、それだけで、優れた存在なのである。
 それを他人に知らせないのは損である。同時に、他人にとっても、あなたという存在に気がつかないのは損なはずである。
 何しろあなたは、この世界に1人しかいない貴重な存在であり、個性なのだから、自信を持っていい。
 めちゃくちゃに強気な自己存在論、自己肯定論だが、これぐらいの気持ちを持っていなければ、世界に40億人近くもいる人間の中で、生きていけるはずがない。
 つまりあなたには、40億分の1だけ、存在価値があるという事である。
 自分を平凡で無個性な人間だと思う人もいるかもしれないが、それは違う。
 40憶分の1だけ平凡でなく個性的だと考えるべきなのである。
 他人との違いを具体的に見つけ出せない人は、他人とは絶対違うと意識だけでも持っておこう。
 自分に自信のあるところや個性的なところなど何もないと思っている人も、意識の持ちようだけで、自分自身を見る目が違ってくるはずである。
 そして、他人との違いが、劣等感から優越感に変わるように心がけよう。他人との違いは、劣っている事ではなく優れている事だと思い込もう。
 ……この優れた自分の存在を、他人に知らせてやろうじゃないか。
 「僕は、どこにでもいるつまらない人間に見えるかもしれませんが、実は、つまらない人間じゃないんですよ」
 その意識で、他人と接するべきなのである。
 つまり、自己主張を表面に出すのである。
 自己主張などないという人がいるかもしれないが、それは嘘である。
 自己があるから生きているのである。
 人に会いたくないと、ひきこもりをしている人も、ひきこもり自体が自己主張である。
 ならばそれを、他者に知らせてやるのである。
 そこで、大切なのは、大多数の「みんな」に知らせるのではなく、個々の他者に知らせる事である。
 なぜなら、他者も、それぞれ1人ひとりが世界に1人しかない個性を持った人間だからだ。
 「みんな」という大ざっぱなくくりでは、とらえられない個々なのである。
 「みんな」とではなく、1人ひとりとつきあわなければ、自己を正確に知らせる事はできないし、他者を知る事も難しい。
 同性ですら、実際につきあってみなければ、自分を知らせる事も他人を知る事もできない。
 同性ですらそうなのだから、まして、異性ともなれば、つきあうという行為がなければ、自分の存在を知らせる事は無理である。
 「ここに世界に1人しかいない自分がいる。僕の事を知らないと損ですよ」という事を、異性とつきあって知ってもらおう。
 さあ、あなたはその気になりましたか。……その気にならなければ、異性を描く事が必要になる脚本家になるなどという事はあきらめましょう。
 あきらめたくなければ、異性と積極的につきあう気持ちになりましょう。
 さてこれからは、世界に1人しかいないあなたが、異性とつきあう方法を、僕の経験も含めて考えていきましょう。

   つづく
 


■第42回へ続く

(06.03.15)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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