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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第209回 病院での映画『ポケモン』第3弾

 小田原で入院した病院は、その1年前、いわゆる『ポケモン』のピカピカ事件で倒れた女の子が救急車で運び込まれた病院だった。
 この件については、以前このコラムに書いたことがあるから、あえてむし返す気はない。
 女の子が運び込まれた時は原因不明で、当直の方たちはどうしたらいいのか分からずかなり緊張したが、その数時間後、この事態が全国的な現象だったことが分かり、翌日には女の子も元気になった。
 小田原市では大きな病院だが、脳神経科の専門医がいるわけでもない。あれだけの大騒ぎになったのだから、日本中、いや世界中の専門家が調査するだろう。女の子の症状の報告をして、専門家によるその検討結果を待てばいい、とその病院としては、いささかほっとしたのが本音だったようだ。
 その病院は救急病院である。連日、救急車で病人やけが人が運び込まれてくる。
 当時としては1年前の、ひとりの救急患者に……それも回復しただろう患者にこだわる余裕などないのはよく分かる。あの事件について僕に話してくれた医者や看護師さんにとっては、「あの時はあわてたなあ」程度の思い出話になっているようだった。
 あれから10年以上たった今、人々の記憶からも遠くなっているだろう。
 でも、起こった事は起こったのだ。
 TV画面はどんどん大型化し鮮明な画像を映し出し、映像革命などといわれ、さまざまな方式の3D(立体)映像が登場している。
 僕は、デイズニーランドのアトラクションとしての3Dは観たが、映画館で観る場合は、3Dが売り物の作品でも2D版映画館にしている。
 子供には見せない……といっても、話題の3D映画は親に黙って友だちとは観に行くだろうから、子供が観ても怒るしか手はないのだろうが。
 『ポケモン』のピカピカ事件には一応の結論が出ているようだが――断っておくが『ポケモン』という作品内容に問題があるというのではない――アニメを含めすべての映像作品の過剰な映像がもたらす人体への影響について、僕個人としては『ポケモン』のピカピカ事件のときの結論では納得できないものがあるからだ。脳神経、視覚神経への安全性に、専門家によるデータを検討した上でのしっかりした基準ができない間は、安心できない。
 脚本家という映像関係の仕事をしている僕としてはつらい立場なのだが、僕の脚本が3Dになるのなら、今のところ僕は断る。
 ま、実際のところ、絶対3Dを必要とする脚本を書ける才能が僕にあるとは思えないしね。
 で、色々な病院を経験した僕は、かなり興味深い病院話や患者話を知ることができたが、それは後に機会があれば書いてみようと思う。

 今回は幻の『ポケモン』映画第3弾についてである。
 自治医大に入院していた頃の僕は、かろうじて30代であった。
 自由業は、比較的若く見られる。背広ネクタイなど、年に1度も着たことのない人種である。
 20代の看護師さんたちは、ちょっと年のいったお兄さん気分で付き合って(?)くれた。
 うぬぼれた言い方をすれば、僕を男性としてかろうじて見ることもできたと思う。
 しかし、小田原の病院での僕は50代間近である。
 おまけに小田原の病院には看護婦学校があった。
 そこの生徒さんは10代である。
 比較的軽い症状の僕などには、看護の練習だかなんだか、そんな看護師見習いの女の子たちが担当につくことが多かった。20代前半と思われる人さえ少なかった。
 僕の子供といってもおかしくない女の子たちである。
 僕への接し方は、当然、男性として意識していない。いいところでおじさんである。老人介護的扱いをする看護師見習いの人もいた。
 親切なのはいいが、それは、電車内でわざわざ立ち上がって老人に自分の席を勧めてくれるような親切さである。
 これじゃあ、まともな会話も成立しない。
 一度だけ、外出許可をとっての病院への帰り道、「これから帰るんですか? 一緒に帰りましょう」と、私服の若い女の子が僕と腕を組んで歩いてくれた。
 これから病院に出勤するそこの看護師さんだった。
 このカップル、ほとんどパパと腕を組む娘か、下手をすると孫娘と腕を組むおじいさんであった。
 新米、見習いの看護師さんだから、点滴で血管に針を上手くさせない子も多かった。
 2度3度の差し違えは普通、5回6回になると、自分の未熟さ加減に泣きそうになる子もいる。
相手は娘といってもいいほどの女の子である。痛いのを我慢して「血管が見つかりにくいんだね。いいからいいから落ち着いて……」と声をかけた。
 でも、痛いものは痛い。たまらない。
 「今、血管が見つかりにくいなら、少し時間をおいて後でいいよ」などとなぐさめると、「ごめんなさい、先輩にやってもらいます」と涙交じりに病室を飛び出していく子もいた。
 余談だが、今は、一度血管に針が通ると、針を抜き差しせず点滴のチューブを針の管にさしこむ方式である。これを使うと、針を刺される痛みは針が血管に上手く通れば一回だけですむ。
 点滴をする必要のない場合、チューブを外して腕に針を刺したまま、1日ぐらいは自由に動ける。派手に、針を刺した腕は動かせないが……。
 実際、『ポケモン』の脚本会議に出席するために小田原から東京まで、腕に針だけ刺したまま入院先の病院から通ったこともある。
 通院の人も毎回点滴が必要な方は、病院に相談してみるといいだろう。
 で、そんな状態で『ポケモン』第3弾のストーリーをまとめたのだが、「自己存在」「共存」の次に来るのは、なんなのかである。
 個室で、まともに看護師さんたちと会話もせずに点滴を受けながら天井を見ていると、自然と思い浮かぶのは「自分のいる世界とはなんなのか」だった。
 『ポケモン』には、人間とポケモンしか動物は出てこない。放映当初は、ポケモン以外の実在する動物がちらりと出てきたが、それは作画関係との意思の疎通がうまくいっていなかったせいで、本来、ポケモン世界にいる動物はポケモンと人間だけである。
 そのかわり、ポケモンには、植物系のポケモンやら鉱物系のポケモン、なんとヘドロ系(?)のポケモンまで出てくる。
 このあたりは、ゲーム制作の人たちの巧さだが、身近なものや、われわれがよく知っている生物を上手にアレンジしてポケモンという動物群を創造した。それぞれのデザインも能力も戦いの際の性格もバラエティに富み、プレイヤーのお好みに合ったポケモンが見つけられる。さらに、能力が上がれば同種だが別のポケモンに進化するという、「育て」の要素も加えている。
 よく考えれば、植物があって植物系のポケモンがいるのは、どこに差があるのか分からないのであるが、それを気にさせないように上手くポケモン世界を構築している。そして、プレイヤーがバトルに勝てば強くなり、そのランクがあがっていくという上昇気分も味わえる。
 ポケモンは架空の生物であり、死なない。ポケモンの体力を回復するポケモンセンターもある。
 おまけに、ゲームにおいては、ポケモンの日常はモンスターボールの中で、バトル以外の時は出てこない。
 野生のポケモンも、ゲットするための対象で、日常の生態は出てこない。
 ゲームにおいては。ピカチュウもニャースもいつもはモンスターボールの中にいる。
 基本は勝敗を争うバトルゲームなのだが、殺伐さを感じさせない。
 その他、様々なゲームの要素を上手く盛り込み、だからこそ、ゲームが作られた頃、よくできたゲームと評価され、今も人気を誇っているのだろう。
 だが、ゲームとアニメドラマは違う。
 アニメにはストーリーが必要になってくる。
 もちろんゲームにもストーリーはある。
 しかし、ゲームの主人公はプレイヤーである。
 ゲームのストーリーはプレイヤーが通過すべきポイント(指標)と最終地点(ほとんどが、プレイヤーがゲームの勝者になる)を列挙したものである。
 ゲームのストーリーはそうならざるを得ないのである。
 ゲームのプレイヤーが、それぞれ違う人なのだから、その人流のプレイのやり方がある。
 ゲームのポイントからポイントへの行き方がみんな違うのである。
 だが、アニメはそうはいかない。
 ゲームのプレイヤーが主人公ではない。
 アニメなりの主人公がいるから、その主人公なりのポイントからポイントへの行き方を決めなければならない。
 それがアニメのストーリーである。
 そして、アニメの主人公の行き方を多くの視聴者に納得してもらえなければ、支持は得られない。
 一例を言えば、ゲームでは、まず3匹のポケモンからプレイヤーは好みの1匹を選ぶ。
 しかし、アニメではピカチュウが選ばれている。
 もし、主人公のサトシが、ゲームのように3匹のポケモンの中から1匹を選べば、他のポケモンを選んだプレイヤーは違和感を持つ。
 3匹のポケモンが、それぞれプレイヤーに等分の人気があるとしたら、ゲームのプレイヤーの3分の2が、アニメに「私のポケモンじゃあない」という違和感を持つ。
 そこで、制作者は、3匹以外で人気のあるポケモンを調べる。圧倒的にピカチュウに人気がある。かわいいという女の子の評判もある。
 ならば、主人公が最初に選ぶポケモンはピカチュウで、誰も文句を言わないだろう。
 まして、サトシはプレイヤーが選ぶ3匹のポケモンのどれにしようか迷いつつ、最初のポケモンをもらえる時間に遅刻したために、余りもののピカチュウを押しつけられる形になっている(ついでだが、サトシのライバルが選んだポケモンも視聴者には知らせない。それを知らせると、ゲームのプレヤーが選んだポケモンと違った時、違和感を覚えるからだ)。
 ただ、ここで、シリーズ構成としての僕がちょっと残念に思っている点は、誰も文句を言わないだろう主人公にするために、サトシをステロタイプ(ありがちなタイプ)の男の子にしたことだ。つまり個性的でないのだ。
 妙に個性的にして視聴者の反感を買っても困る。しかし、僕個人から見れば、つまんない主人公なのである。脇役はかなり個性的に設定したが、それでも、ピカチュウがだんだんいい子になってきたり、ロケット団トリオが、ドジパターンのステロタイプになっていくのがちょっとつらい。
 ゲームの主人公(つまりプレイヤー)はゲームをするうえでのほぼ最小限の知識を得ると、ただちに最初のバトルへ進んでいく。
 ゲームだからそれでいいのである。
 しかし、アニメはそうはいかない。
 ピカチュウは反抗的だし、サトシの応援団が出てきたり、カスミと出会ったり、色々ごちゃごちゃあった末、ピカチュウとの和解がTV版の1回目である。つまり、サトシが主人公になるための色々なドラマがあるのだ。
 ゲームはゲームを始めた時からゲームに突入していい。もう、いきなりポケモンゲーム世界でいい。
 けれど、ドラマにはドラマが成立するための色々な設定が必要になる。アニメに描かれなくても、設定がなければ登場人物が動けない。
 そもそも、ポケモンのいる世界とはなんなのだ?
 当初、ゲームの解説書は、かなりいきあたりばったりだった。ゲームを始めたとき、そのゲームが面白ければそれでいい。
 しかし、アニメドラマは困る。
 ポケモン以外の動物がいないのもなぜなんだろう?
 そこで、僕なりのポケモン世界を小説1・2巻に補足して加えた。その補足は終わっていない。3巻目が出ていないのは、『ポケモン』の放映が終わらないと書けない、種明かし的補足が入る予定だからだ。
 映画版幻の第3弾には、かすかだがその問題をかすめる話のつもりだった。
 つまり、空想の産物ポケモンと人間しかいない世界に、別の存在が登場するストーリーだ。
 そのストーリーの始まりは、ティラノサウルスの化石が発見されるところから始まる。
 ティラノサウルスは言うまでもなく、地球の中生代に実在した恐竜である。
 ポケモンには化石ポケモンがいる。
 じゃあ、実在した恐竜の化石はなんなのか?
 要するに、遠回しだが、「動物はポケモンと人間だけのいる世界とは何?」をちょっとだけかすめるストーリーだった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が30周年だとしたら、僕の関わったアニメには、もっと古いものがいくつかある。
 そのひとつが『まんがはじめて物語』シリーズである。10数年連続で放映され、10年ほど中断、2000年に記念番組が作られた。
 今もどこかの局で再放映しているらしい。
 数年前、小田原で同窓会風の宴会を開き、「また、2010年にやろう」などと気勢を上げた。
 昨年も、入院した病院の男の看護師さんから、「首藤さんって珍しい名前だけれど、『まんがはじめて物語』の首藤さんですか」と言われびっくりした。
 「いろいろ調べるの大変でしょう? 子供向けだけど僕らにも勉強になります」と言われた。
 つまり、今も放映され、大人の方たちにも見ていただいているわけだ。
 企画当初の「大人の鑑賞に堪える内容にしたい」が実現しているのはうれしい。
 先日、番組開始当時のプロデューサーの方から連絡があって、「今度はTBSで、同窓会を開きたいから、脚本の人達に連絡を取ってくれ」と言われた。
 当時、20代の一番若手でシリーズ構成的役割だったから、連絡は引き受けたが、あれからン十年、状況は数年前の同窓会とは違っていた。みんなアラカン。親が健在でも、老人介護でとても出かける時間はないという方もいる。なつかしいけど、体が言うことをきかなくてねえ、という人も。
 年月は過ぎていく。みなさんも、やれることは明日に延ばさず、今やっておこう。

   つづく
 


■第210回へ続く

(10.01.20)

 
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