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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第210回 幻の『ポケモン』映画3弾……消えた

 前回、突然の休載で申し訳ない……突然なんかじゃなくて、しょっちゅうではないかという突っ込みは、あえて受け止める。
 周辺で、ゴールデンウィークに上演されるらしい某舞台ミュージカル(僕は関わっていません)をふくめたごたごたのせい、といえば半分冗談だけど――といっても、冗談と笑い飛ばせるほど冗談ではないが――それに関係する様々なことへの対処に頭を悩ませているうちに眠れなくなり、食欲がなくなり、体調を壊し、それでもパソコンに向かっていたら、気を失い、気がついたら時間感覚がおかしくなって、このコラムの締め切り時間が吹っ飛んでしまった。申し訳ない。
 昨年、快調に戻りつつあった体も、年初めからめちゃくちゃになりかかったけれど、強引にストップをかけ、まあ元気を取り戻すことができた。
 自分でもしぶといなあと呆れる。
 休載前の続きを書こう。

 ポケモンと人間しか動物のいない、いわば「ポケモン」ゲームが構築した架空の世界に、実在した中生代の恐竜ティラノサウルスの化石が発見される。
 幻の劇場版『ポケモン』第3弾を考えていた10年ほど前、実際に巨大なティラノサウルスの化石が発見され話題になった。
 確か「スー」と名づけられ高額でオークションにかけられた……10億円だったと思う。
 男の子はだいたいそうだと思うが、恐竜の中ではティラノサウルス(T・レックス)がなぜか好きである。僕の場合は「ジュラシック・パーク」ではなく、幼稚園の頃に読んだ山川惣治氏の絵物語「少年ケニヤ」に登場するティラノサウルス以来のファンだから年季が入っている。
 だから、「スー」ちゃんの発見には、30代半ばのいい大人になっても狂喜した。
 10億持っていたら、僕が落札したかもしれない。
 もっとも保管場所に困るだろうが……。
 で、『ポケモン』の話に戻ると、ポケモン世界の生物学会は大騒ぎになる。そして、重要なことに気がつく。
 ダーウィンの進化論はある。動物と人間の進化の過程を説明している。しかし、実際のポケモン世界に動物は人間とポケモンしかいない。いわゆる本物の動物はいない。
 古い記録を調べれば、この世界に本物の動物がいた。だが今はいない。記録には残っているが、人間の記憶にないのだ。
 ポケモンが、この世に発生した時期が定かでない。そして、ポケモンには進化論は通用しない。
なのに新発見のポケモンはどんどん増えていく。
 過去に多くの学者が、ポケモンについて研究しているが、ある時期になるとぴたりと研究を止め、田舎にひきこもり、それ以上の研究発表をしなくなる。オーキド博士もその例にもれない。
 どうなっているのだ?
 記録には残っている動物(写真すらあるのに)が、人間たちの記憶から消えている。
 そのことに疑問すら持っていない。
 何かこの世界の存在自体に、大きな秘密があるのではないか?
 人間たちはティラノサウルスの化石の発見に、自分たちの生きている世界がなんなのかに疑問を抱き始める。
 しかし、そんな余裕はない。
 ティラノサウルスの化石の目の部分に青い光がともる。そして、動きだす。一直線に、どこかを目指し、進んでいく。
 その進路にある、人間の世界もポケモンの野生世界もおかまいなしだ。
 川も海も一直線に越えていく。
 ともかく一直線だ。
 邪魔になるものは、すべて、踏み倒していく。
 ティラノサウルスを止めなければ、ポケモンと人間たちだけの世界の謎を解くこともできない。
 その進路には、主人公サトシのマサラタウンもある。
 色々なポケモンの生活圏もある。
 オーキド博士は、研究所をめちゃめちゃに踏みつぶされても「いつかこんな時が来ると思っていた。なぜ、こうなるのか分からんけれど……」
 としか言わない。
 実は、オーキド博士にも分かってはいないのである。「いつかこんな時が来ると思っていた」以外には……。
 ともかく、一直線に進むティラノサウルスの化石を止めなければ……。
 ポケモンも人間も、本能的にティラノサウルスの化石を止めようとする。
 ティラノサウルスの化石を止めなければ、自分たちのポケモンのいる世界の存在が危うくなる気がするからだ。
 なぜ、危うくなるのかその理由は分からないが、本能的にそう感じるのだ。
 ティラノサウルスの化石の進む進路には、様々な人間のドラマやポケモンのドラマがある。
 しかし、そんなものはお構いなしで、ティラノサウルス化石は一直線に進む。
 そのティラノサウルスの化石の前に立ちはだかって止めようとするポケモンと人間。
 ティラノサウルスの進行を追いかけて止めようとするサトシら主人公たち。もちろんロケット団トリオも同じだ。
 ティラノサウルスの進行方向には、ロケット団の秘密基地もある。ロケット団本隊も化石の進行阻止に必死になる。
 いつもの敵も味方もありはしない。
 ともかく、テイラノサウルスの化石を止めようと懸命になる。
 かろうじて冷静なのは、「自己存在」テーマのミュウツーぐらいである。
 そして、ティラノサウルスの化石が止まり、動かなくなったその場所は……。
 その答えは、書かない。
 動物とはなにか? 
 人間とは何か? 
 その違いと共通点を考えれば、それほど難しい答えではない。
 それは、なにも『ポケモン』の映画でなくても、通用する。
 ……というのが、幻の『ポケモン』映画、第3弾のプロットである。
 実際のプロットは、もっと簡単で、生物学会が大騒ぎするあたりや、ダーウィンの進化論云々は、大幅に削ってある。
 ともかくティラノサウルスの化石が見つかった。
 何らかの意識が宿った。
 ティラノサウルスの化石が動き出した。
 さあ止めろ。
 を、メインタイトル前にやってしまう。
 後は、ティラノサウルスの化石との追っかけっこと、踏みつぶされる側のドラマである。
 それを考えるのに、病院を退院して半年以上かかった。
 テーマは、「自分の生きている世界は何なのか?」である。
 化石が進むことによって起きる様々なエピソードを、すべてそのテーマに結集させようとした。
 そのエピソードの数々を考えるのに、ああでもないこうでもないと考えて、頭がおかしくなりそうだった。
 総監督は、無機質なものに意識が宿り、暴走するというアイデアが気に入ったようである。
 これは僕の一方的な思いで書くのだが、この話は演出の見せ場が、山ほどありそうだからだ。
 例えば、化石の進行につれて、BGMをロックにしようが、クラシックにしようが、それこそ演歌にしようが、その時々で自由自在である。
 この幻の映画第3弾には裏話があり、プロットの段階では最初のゲームしかなく、次のゲームの金銀編が完成しておらず、新しいポケモンが1匹もいなかった。
 つまり、最初のゲームの151匹で話を作らなければならなかったのだ。
 映画第2弾の『ルギア爆誕』に登場した映画用の新ポケモンのルギアが次のゲームに出てくるが、それは次のゲームの完成が遅れていたからゲームに登場できたのである。
 映画版とゲームには、それだけの時間差があった。
 ゲーム制作側と、映画制作側にどんな事情があったかしらないが、映画版3弾には映画専用のポケモンは出さないということになった。
 そうなると、最初のゲームの151匹を総動員してストーリーを作らなければならなかった。
 だが、このストーリーには、それで充分だった。
 横道にそれるようでそれていないことを書くが、ゲームにおけるポケモンは、それぞれの特性を持った将棋の駒のようなものである。
 しかし、それをアニメ(小説でもいい)にすると、各エピソードにドラマ(葛藤)が必要になる。
 それがどんなにつまらなくても、ドラマはドラマである。
 基本、ドラマが成立するのは人間である。だから、ドラマを理解し感情移入できるのは人間であり、人間はそのドラマに喜怒哀楽する。
 だから、動物や架空の生き物でドラマを成立させるには、動物を人間のように描かなければならない。
 つまり擬人化である。
 アニメでも、動物を主役にした実写映画、小説、ドキュメンタリー(記録映画)ですら、作る方や観る方が意識するしないにかかわらず、擬人化が行われる。ノンフィクションといわれる記録ですら、人間が作る以上、その対象は擬人化される。
 分かりやすい例なら、死んだ主人を渋谷駅前で待ち続けた忠犬ハチ公。本当にハチ公は、主人を待っていたのだろうか。
 「シートン動物記」の狼王ロボ。ロボはオオカミのリーダーとして、人間に対して毅然とした態度を見せるが、本当に人間を意識して毅然としていたのだろうか?
 そんなのは、人間の勝手な思い込みではないのか?
 ゲームをアニメ化するにはエピソードにドラマが必要になる。
 つまり、ポケモンを擬人化して描く。
 アニメ『ポケモン』は、151種の、ポケモンという普通の人間とは違う形や能力を持った人間が絡むドラマなのである。
 だれが脚本を書いてもそうなってしまうだろう。
 僕も、そういうつもりで書いてしまっている。
 とすると、アニメ『ポケモン』は、ポケモンと人間のいる世界とは言いながら、実は人間だけしかいない世界の話になってしまう。
 では、「僕が生きているこの世界は何か?」
 明らかに人間だけが生きている世界ではない。
 人間とは違うものがいる、ある。
 自分が生きている世界を知ろうとしたら、擬人化したポケモンでは描けない。
 別の何かが必要である。
 それが、「ポケモン」という架空の世界での、現実の過去に存在した恐竜の化石である。それが意識を持ったらどうなるか。
 つまり、現実の世界で違う意識をもつはずの人間と動物を、架空の「ポケモン」世界における「現実のかつては生きていた化石」を通して描いてみようとしたのが、幻の『ポケモン』映画第3弾だったのである。
 それで「自分の生きている世界とは何か?」を考えてみたかった。
 「そんなややこしいものを出したら本来の『ポケモン』の世界観は、訳が分からなくなる」
 という反対は予想していた。半年以上かけたプロットである。反論も用意した。
 ところが、僕としては予想もしなかった理由から、いわゆる御前様全体脚本会議で、一瞬のうちに却下されてしまったのである。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 いろいろ言われるんで、再度書きますが、本当に関係ないのだ。
 僕が以前、関わった『ミンキーモモ』というアニメと似たような名前の舞台ミュージカルらしきものとは……。
 舞台ミュージカルにしたいという話は、以前聞いた。
 けれど、「現状だと無理だ」と言い、わざわざ僕の関わった他のミュージカルのDVDを渡し、準備期間や予算、人材、その他もろもろ、作るのが無理な理由を話したつもりだ。だから冗談で終わると思っていたのだ……。
 アニメでミュージカルを作るなら、なんとかなるだろう。ただし、優秀な人材と普通のアニメの倍の期間と予算が必要だと思うけれど……。
 けれど、アニメを生の舞台ミュージカルにするのは難しい。まして魔法少女アニメだ。ディズニーのように、ブロードウェイの非難をものともせず、大金をかけて才能を集め、まさに社運をかける気分で作った「美女と野獣」のような舞台ミュージカルなら、成功する奇跡も生まれるかもしれない。そもそも元のアニメーションが、史上初めてアカデミー作品賞の候補になるぐらいよくできていて、曲もいいのだから。でも、「美女と野獣」は厳密には魔法ものとは言えない。舞台では2幕で収まる規模にすれば、できる題材だ。
 確かにアニメ『ミンキーモモ』のベースは、僕が高校時代に考えたミュージカル「フィナリナーサから来た男」です。コアな『ミンキーモモ』ファンなら昔から知っている話だ。
 ただ、これは高校生が考えるミュージカルなのだ。文化祭規模でできるミュージカル。
 予算なんかあるわけないから、幼稚園の学芸会の手品みたいな魔法は使わない。実は歌が魔法なのである。夢が歌になるのである。
 ところが、男は村人に夢(歌)を持たせることに挫折して、ある日、姿を消す。彼がいなくなった時、村人たちは思いだす。夢が大切なことを……そして1人また1人と、消えた彼が歌っていた歌を歌いだし、それが合唱になるのだ。
 「ラ・マンチャの男」というドン・キホーテにその作者セルバンテスを見事に融合させたミュージカルがあるけれど、そのラストに少し影響されていた気がする。「ラ・マンチャの男」は、舞台より出来が悪いけれど、映画になってビデオが出ている。「見果てぬ夢」という歌が有名だ。
 ほかに影響されたかなと思うのは、「ファンタスティックス」というほとんどお金のかからない小劇場向きのミュージカルがあり、なんと50年以上、世界のどこかで必ず上演されている。テーマ曲は「Try to remember」。みなさん聞きおぼえがあると思う。
 その高校時代の小規模ミュージカルの主役が女の子になり、アニメで魔法を使うようになり、夢の国フェナリナーサから降りてきて、30年ほど前に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に変身した。
 で、去年の11月頃、FAXでミュージカルの脚本までになっていない原稿が送られてきて、「面白くないんだけどどうにかならない?」という。
 もちろん、僕が書いたものではない。
 面白いか面白くないかはともかく、そもそも歌詞ができていない。
 少なくとも僕のミュージカルの作り方とは違う。ミュージカルの歌詞は出演者の台詞であり心だ。歌詞なしの脚本はありえないし、プロット段階で作曲家と打ち合わせが必要になる。
 今年のゴールデンウィークに上演すると言う。僕には間に合うとは思えない。
 本気でやる気なんだ、とまずびっくり。読んでびっくり。もしも、アニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のミュージカルだとしたら、ファンなら誰でも気づく基本的な設定のずれがある。
 プロデューサーが意見を聞きたいと言って渋谷まで来た。
 「どうしようもないけれど、どうにかしたいなら今なら間に合うところだけ」と設定ずれを指摘し、それを是正する方法をアドバイスした。
 つまり、意見を聞きたいというから意見を言ったわけだ。
 「来てよかった」と言って帰っていったけれど、その制作会社には、アニメを作ったスタッフがもうほとんどいないから、ピンとこなかったようだ。それにこのプロデューサー、僕が感じるに、脚本家との付き合い方がうまくないんだよね。
 その後、脚本家が意見を聞かないから、脚本のままやる、と聞いた。
 「じゃあ、直接脚本家に電話で話そうか?」と言うと、「電話番号を知りません」……なわけないだろう。
 ということで、僕は、その脚本家と会ったことも話したこともない。
 そんなわけで、僕は、このミュージカルには関わっていないことになる。関わっていると言われると困る。
 そのうち、オリジナルストーリーでオリジナルキャラクターによる「鏡の国のプリンセス ミュージカル ミンキーモモ」という題名になった。
 なら、ますます僕とは関係ない。
 で、そこで終わればいいんだけど……まだまだ続く。
 ここで質問、初代のミンキーモモは人間に生まれ変わって、今どこにいるか。答えはロンドン。
 オリジナルキャラクターの「ミュージカル ミンキーモモ」、鏡の国からロンドンの郊外の町に来るそうだ。
 どこかですれちがうんだろうか?

   つづく
 


■第211回へ続く

(10.02.03)

 
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