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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第202回 ロケット団が主役です

 『ルギア爆誕』について長々と書いてきたが、やっと『ルギア爆誕』におけるロケット団トリオの登場である。
 その前に、くどいが僕自身の自己確認という意味でも繰り返すが――何しろ気がつけば1年近くこのコラムで『ポケモン』の事ばかり書いているので、過去に何を書いたか思い出せないところもある情けない状況になっている――アニメ『ポケモン』映画第1作『ミュウツーの逆襲』の基本テーマは「自己存在」、つまり「自分とは何か?」への自問自答であり、その答えは出ていない。ただ、自分が存在している以上、自分は他にいない自分自身である。自分と同じ存在など他にあり得ない。世界に1人しかいない存在だ。だから、自己存在を大切にしなければならない。その事を『ミュウツーの逆襲』の主人公であるミュウツーがうすうすでも感じる――だった。
 つまり、この世界に存在する自分は、他の存在とは違うという自意識を持つという事であり、その自意識を持つ事によって、自分の存在に価値観を持とうと思う事――結果、自分はこの世界に存在していいのだ、存在すべき存在なのだと自分が感じたいという事、それが、脚本を書いた『ミュウツーの逆襲』における僕のテーマだった気がする。
 それが、『ミュウツーの逆襲』をご覧になった子供達、大人達に伝わったかどうか、まるで自信はないのだけれど、僕とは違うのだから、『ミュウツーの逆襲』を観た方達がどう感じるかは、人それぞれである。
 まして、脚本は作品の土台であり、設計図ではあるが、でき上がった作品は様々な作り手のそれぞれの感じ方を通過して完成されるから、脚本を書いた僕の「書いたつもり」が――ストーリーや台詞は僕の書いたそのままだが――的確に表現されているかは、???なのである。
 アニメに限らず、この世界にあるどんな創作物も多かれ少なかれ、様々な人の共同作業で完成されるものだから、そこいらは作り手のそれぞれが割り切らなければやっていられないのである。個人作業に見えるエッセイ、詩、小説ですら、人々の前に発表されるまでには、様々な人の手を通過している。
 で、話を元に戻せば、自己存在を大切にするという事は、ある意味、自己本位で自分勝手に考え、行動するということである。
 『ルギア爆誕』は、そんな登場人物たちで埋め尽くそうとした。
 自己本位で自分勝手な登場人物ばかりで、「共存」などというテーマが描けるのか、バトルと論争だらけの殺伐とした作品になりはしないかという危惧はある。
 確かに自己本位で自分勝手だと、自分と感性の違う存在や、邪魔な存在が出てくる。
 いわゆる自分の敵である。それらと戦い、あるいは抹殺する。その自分の行為を正しいとする考えは、おそらく人間がこの世界に生まれてから普通にある、常識的な考え――感性といっていいと思う。
 だから、おおざっぱな言い方だが、いつの世も、もめ事と戦争はつきない。
 これまた、おおざっぱに言って、基本、愛と平和と心の平安を説く宗教だって、同じ宗教の仲間内でありながら、喧嘩が絶えない。
 自分本位が是か非かを考える事、感じる事、それを表現する事が、ありとあらゆる創作物の原点かもしれない。
 特に書物や演劇は、ギリシャ悲劇からシェークスピア、ドフトエフスキー、世の東西のほとんどの文学など、僕が大風呂敷な例をあげるまでもなく、それが露骨に表れている気がする。
 何だか、僕が分かりやすく書こうとすると、大風呂敷でおおボラのように自分でも感じるのが困っちゃううえ、さらに語るのがロケット団トリオの事だから、みなさん、ずっこけるであろう事はほとんど予想できる。
 で、またまた、話を戻すが、そんな自分本位や自分勝手な行為は、本当に自分本位で自分勝手に生きる事の過程で起こることのような気がするのである。
 自分本位の障害になるものを消していったら、自分と違う存在がいなくなる。
 人がそれぞれ違うものだとしたら、自分と違うものを消してしまえば、自分しか残らない。
 自分存在の確証が、他の存在と違う事だとすると、自分と違うものがなくなってしまうと、自己存在もなくなってしまう。
 自分と違うものがあるから、自分が他の存在と違う事が分かると思うのである。
 自分だけしかいない世界だと、自己存在はなく、そこにあるのは、何でも自分の思いどおりになるという全能感か、逆に自分しかいない荒野にたたずんでいるような、自分が無に等しい虚無感に陥ってしまう気がする。
 つまり、自己存在を感じるためには、自分とは違う存在が必要なのである。
 自己存在を意識するためには、違う存在も認めなければならない。
 それを、僕は「共存」と呼びたかったのである。
 自分と違うものを消しては――消すといっても抹殺する事は難しいから、現実的には無視とか黙過と呼べるかもしれない――自己存在も消えてしまう気がするのだ。
 程度はえらく違うと思うが、住まいと食は確保されているものの、インターネットやTVの情報(知らず知らずに本人が取捨選択してしまい、さらに元の情報自体が悪意のあるなしに関わらず操作されている、生身とはいえない情報)だけが、外との窓口になってしまう、いわゆる「ひきこもり」は、もしかしたら軽度の共存不能状態であると思う時がある。
 僕自身、今まで全能感を感じたことは一度もないが、幼いころ、虚無感に近いものを感じた時期があった覚えはある。
 自己存在を感じられない虚無感は結構辛いから、敵を見つけて解消しようとする。
 仲間や友達を見つけようとは思わない。そんなものは見つかりっこないと思い込んでいる。
 だから敵を見つけて自己存在を見つけようとするのだ。
 けれど、明確な敵が見つからないから、そんな状態に自分を追い込んだものとして現代社会のせいにする。それが憎悪に変わる。
 社会への憎悪を表現するなら、敵はそんな社会を作り出した政治、経済、いわゆる巨悪といわれるもの(僕は巨悪と言えるほど大したものだとは思わないが)を敵にすべきなのが論理的だろう。
 ところが、そうはならない。
 虚無感から自己存在を求めると、社会悪のもとにまで思いが回らず、身近で社会悪にしたがっていると思える弱きものを憎悪する。
 その人が取捨選択した情報の中で現実味のある世界は身近な世界しかなく、その世界の人達は、自分の考える自己存在より弱くなければならない。
 その人の自己存在は、他の人の自己存在に負けたくないのである。
 で、ご近所の誰でもいい弱者に牙をむく。
 国会議事堂の前や議員会館で暴れるなら、何となく分かるが、それが秋葉原になり――その人の情報の中で、考える社会悪の中心地(?)が秋葉原だったのだろう……おっと、こんな事を書き始めたら、このコラム、大脱線かもしれないので、自己存在と共存とロケット団トリオの話に戻る。
 ロケット団トリオは、自己意識の強い存在に設定した。
 ゲームの「ポケモン」には、ロケット団という悪の組織らしきものが存在はするものの、ロケット団トリオのような、目立つ登場人物とニャースはいない。
 ぶっちゃけた話、企画当初はアニメ化にあたり、悪役がいた方がストーリー展開が楽だし、定番アニメとしてパターン化しやすいから考えられた役柄である。
 ただし、何をやってもダメで、落ちこぼれで、いつもやられっぱなしで、情けなくて、ぼやきっぱなしで、ボスのいいなりになっていて、視聴者の同情で人気の出るような、タイムボカンシリーズの三悪にはしたくなかった。
 彼らの歌「ロケット団は永遠に」の歌詞にあるように「悪が正義か? 正義が悪か?」どんでん返しのからくり芝居を狙っているような自己存在意識の強いキャラクターにした。
 美形であり、主人公たち以上に人間味あふれた存在で、声も演技的に信頼できる方達だった。
 僕の知る限りだが、ムサシの声の林原めぐみさんにとっては、アニメにおける初めての敵役だったかもしれない。
 が、僕にとっては、ムサシの声にミンキーモモの声が欲しかった。
 前回も書いたが、ロケット団トリオは。アニメ『ポケモン』にとって最重要な役だったのだ。
 もともと、僕の書く脚本の悪役は、単なる悪役で終わることはまずない。
 徹底的に格好よく(少なくともキャラクター本人はそう思っている)目立ってやろうと意識している。
 「ポケモン」ゲームとのリンクの都合で、サトシやピカチュウ目線でアニメが描かれ、仕方がなく敵役にされているが、本来は主役のつもりである。
 『ポケモン』世界を描くには様々な切り口があるが、何かの間違いでサトシとピカチュウ目線になり、悪役になってしまった。
 「だったらそれでいい。本来の主役は私達である事を、いつかみなさんに知らしめてやる」
 たくましく、居直ってしまう敵役である。
 だから、TVアニメではけっして負けたと言わないで「やなかんじー」(この台詞は声優さん達のアドリブ)で去っていく。
 そして、本来は、ロケット団といえば、ポケモンを使い世界制覇を狙う大きな悪の組織らしきものだったのだが、視聴者にとってロケット団=ムサシ・コジロウ・ニャースを意味し、感じるように変えてしまった。
 『ポケモン』世界を描くには、サトシたち主役より、ロケット団トリオの日常を描いた方が分かる――と、シリーズ構成の僕が言いたくてしょうがないキャラクターたちだった。
 しかしである。
 ロケット団トリオメインのエピソードがなかなか出てこない。
 しょっちゅう、ドジで間抜けなところばかりが出てくる。
 裏を話せば、いろいろ屈折したロケット団トリオを描くより、ドジで間抜けな描き方をした方が、脚本家にとっては書きやすいし、ストーリーもパターンに逃げ込みやすいからである。
 で、シリーズ構成の僕としてもロケット団トリオの描き方については、欲求不満がつのっていった。
 ただ、サトシとピカチュウ目線のアニメとして観れば、できてくる脚本に破綻は目立たない。
 だから、なおさらロケット団トリオは欲求不満である。
 苦節1年、映画化が決まり、いよいよ出番と思ったら、ミュウツーに主役をもっていかれ、ラストシーンで「いいかんじー」と叫んで、かたちとしてはトリをとったものの、主役ではない。
 もはや、敵役のやられキャラクターで、甘んじていられる限界はとっくに過ぎた。
 「最初と話がちがうじゃないか」と、ロケット団トリオ。
 僕も痛くそれを感じていた。
 そして、2作目の映画『ルギア爆誕』。
 映画のテーマの「自己存在」も「共存」も 実はどうでもいい。
 ロケット団トリオの目立つ映画を作れ!
 僕は、自分の作ったキャラクター達から、すさまじいプレッシャーをかけられた(断っておくが、プレッシャーをかけてきたのは、声優さんではなく、アニメのキャラクター達である。もっとも、ある年、ロケット団トリオの声優さんの1人から送られてきた年賀状に、「ロケット団トリオを、もっと面白くしてください」と添え書きが書かれてあったこともあったが)。
 で、「共存」などと言うテーマはそれはそれとして、ロケット団が目立ちやすい舞台を作ろうとしてかなり懸命になった。
 しかし、ロケット団トリオの登場時間が多いと、『ルギア爆誕』はロケット団トリオが主役の映画ではない、と脚本会議ではねられる危険が大である。
 登場場面が少なくても、ロケット団が主役に見えてしまう映画――「共存」の意味と同時に、『ルギア爆誕』の脚本はそれを目指してもいた。
 そして、極めて強引にロケット団トリオは目立ってしまった。
 彼らの目立ちっぷりには、それなりの建前としての彼らの台詞があるが、それは、あくまで建前であって本音ではない。
 だらだらのびのびのコラムで申し訳ないが、『ルギア爆誕』のロケット団トリオの本音については、行数の都合で次回に回さざるを得なくなった。
 ロケット団トリオに免じてお許しください。
 それにしても、ロケット団トリオはアニメ版『ポケモン』において大きな存在だと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 先日――といっても文化の日だから、ずいぶん前だが、仕事場から見える中学校が60周年を迎えた。
 松涛中学校という名で、僕や僕の妹2人が通った公立中学である。
 この中学校を高校に見立てて小説を書いたこともあるし、渋谷を舞台にしたアニメシリーズ『ようこそようこ』を書けたのも、この中学校に通っていたおかげだと言えないこともない。
 もっとも、『ようこそようこ』の渋谷は、20年近く前の昔の事になってしまった。
 そのわりには、変貌した建物は多いものの、街に集まる人々のタイプが、あまり変わっていないように思えるのが不思議である。
 何でもありのくせに、表面的には不健全さがないのだ。
 ずいぶん変わってしまった新宿と違い、一度渋谷を回遊(回遊散歩コースがある)したならお分かりの方も多いだろうが、不思議な街・渋谷の不思議さは健在な気がする。
 ところで松涛中学校だが、僕が通っていた頃は、1学年に400人もいたが、渋谷の真ん中の住宅街にあり、渋谷の都市化と少子化のせいもあり、数年前は1学年数人(ひと桁)にまで落ち込み、存続が危ぶまれた。
 渋谷の一等地――かつて1000人以上も収容したみっつの校舎に、ひと桁の入学者である。
 もはや、その生徒数では学年ともいえず、クラスともいえず、ほとんどグループと呼んでいい生徒数である。
 そこで、主要科目以外は英語で教えるという公立中学としては珍しい方針を打ち出し、それが、評判を呼び、今では全生徒数が200を超えたという。めでたい事である。
 僕にも中学生の娘がいるが、ちょっとした都合で、別の女子中学校に通っている。
 で、今の公立中学校の男女共学の生徒達がどんな様子なのか――いつも渋谷の街へ行く道ですれ違ってはいるのだが、見知らぬおじさんが声をかけたら犯罪者と思われかねないので――60周年記念の式を拝見させていただいた。
 式は、授業の成果を見せるためか、司会も生徒たちの挨拶も、余興(?)の生徒達の劇も、討論会も、みんな英語である。司会者の言葉には、日本語訳をつけていたが――あ、校歌はさすがに日本語で歌っていた。
 そんな方針の中学校なのに、来賓のお偉方たちの挨拶や祝辞には、まったく英語がない。
 そして、僕が中学生のころ聞いた内容と同じ事を生徒たちに喋っていた。
 平成(21世紀)の中学生に、日本語で昭和の挨拶内容をしている来賓の方達の姿は、いささか異様であった。
 後日、校長先生にお会いしたが、今の生徒達にも『ポケモン』は人気なのだそうだ。
 しかし、僕の娘の中学では、『ポケモン』は、ほとんど話題に出ないようだ。
 それに、松涛中学校の校長先生の語る『ポケモン』は、僕が関わっていた頃の『ポケモン』とは、ちょっとニュアンスが違う。
 どこが違うかは言っても仕方のないことのような気がする。
 『ポケモン』アニメが始まったのが10数年前だから、いくらワンパターンのアニメといっても、時代とともに変わってきているのは当然だろう。
 『ポケモン』に限らず、日本における脚本というものの質が変わってきているのは、TVドラマや映画を見ていると、僕もよく感じることである。
 このコラム、ずるずると4年も続いている。
 本気で脚本家を目指している方なら、プロの脚本家になっていてもおかしくない年月が経っている。
 プロという意味が、どういう意味かは色々意見が分かれるだろうが、もともとプロ意識のない変な脚本を書いてきた僕だから、あまり気にはならないのだが、21世紀に昭和(それも戦後日本)の脚本作法が異様な事は感覚的に分かる。
 もちろん時代を超えて普遍的なものもあるだろう。
 でも、変わったものは変わったのだ。
 脚本についてのこのコラム、平成(21世紀)の中学生に、昭和の挨拶内容をしている松涛中学校の来賓の方々のような語りにはしたくない。
 しかし、僕は昭和生まれだ。
 若いころの僕は、爺さんの説教など聞く耳を持たなかった。
 でも、今思えば、結構、参考になることを言ってくれていた気もする。
 そんなつもりで、このコラムを読んでいただけるとありがたいのだが。
 それに、1学年400人もいた世代が、ここ数年でみんな暇になる。
 この世代、マンガとアニメに抵抗がない。「あしたのジョー」が青春だったりする。
 白土三平の原作漫画を読んでいた人が、今年映画化された「カムイ外伝」を見たら、あまりのガキっぽさに怒り心頭で席を立つだろう。
 アニメが、少子化してどんどん少なくなる子供や若い人を相手にするより、長寿化して小金をもっている、じいさんばあさんを相手にした方が商売になるような時代が、すぐそこまで来ている気がする。
 この世代、今の若い(40代以前)の人より、そうとう理屈っぽいです。
 で、このコラム、居直って説教くさくなるかもしれないが、そこのところよろしくお願いする。
 テレビのニュースで見たのだが、40代、50代が、ガンダムの豪華超合金モデルの購買層として対象にされているらしいが、そのちょっと上の世代は、そんな虚構のモデルは買わないと思う。
 アポロ宇宙船の豪華モデルは買うかもしれないし、財産つぎこんで、実際に行われる数分間の宇宙飛行は体験したいと思うかもしれないが。
 そんなあたりが、ちょっと違うんだよなあ。

   つづく
 


■第203回へ続く

(09.11.18)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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