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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第175回 『ミュウツーの逆襲』の脚本の話を続けています

 「自分が何であるか」を問い、ポケモンのコピーを作り、本物に挑戦したミュウツーは、本物とコピーという、この世界に新たなる差別を生み出してしまった。
 差別は、様々な形で世界中にある。
 差別の良否ではなく、差別の存在は、誰もが思い当たる。
 それが、いつもは日常の奥底に隠れていて、何かの拍子にちょっと噴き出してくる。
 僕が出会ったドイツの田舎町で、とりたてて、ジプシーの人たちへの差別が目立っていたわけではない。
 その土地の差別のルールにのっとり、当たり前のように、ドイツ人とジプシーの人たちは共存していたのだろう。
 そこに、何も知らない日本人が来て、ルール崩しを始めた。いや、ルール崩しが始まりそうな気配だった。
 そこで日本人に親切なドイツ人としては「あの娘はナイン(ノー)。ジプシーだから……」と忠告してくれたわけだ。
 なぜ、ジプシーがいけないのか?
 どうして、ジプシーは、その町のドイツ人にとって差別する対象になるのか?
 詳しい説明はない。
 おそらく町の人々それぞれも、詳しくは分かっていないのかもしれない。
 ともかく、差別は存在しており、何も知らない日本人がそこに首をつっこめば、混乱が起こるのは必至である。
 せっかく静かに見えている水面に、僕が石を投げる事はない。
 僕はそれ以後、挨拶と笑みでしかその女性に答えなかった。
 彼女も気にしていないようだった。
 町を去る日が来た。
 町の酒場は、僕の壮行会のようになった。
 シュナップス(ドイツの果実酒・焼酎)の瓶とグラスを持ってきた彼女は、僕の顔を見つめ、にっこり笑い、いきなり素っ頓狂な声で「フィーレン・ダンク(とってもありがとう)」と叫んだ。
 その時の彼女の声と表情は、いまだに、覚えている。
 その後、数ヶ月、ドイツの他の街や、イギリスのロンドンや、フランスではパリ近辺をあてもなくさ迷ったが、彼女とのことが後を引き、至るところにある目に見えない差別のようなものが、気になって仕方がなかった。
 差別を『ミュウツーの逆襲』の隠れたテーマの一つとして選んだのは、この映画が世界公開されるからである。
 世界中の誰もに、このアニメを見て思い当たる部分があれば、作品は愛されだろう。
 世界中でヒットした作品を観れば分かる。
 たとえ、アクションものだろうと、文芸作品だろうと、ラブストーリーだろうと、観客の心に思い当たる部分を持っている。
 「自己存在」をテーマにしても、「そんなことは考えないでいいのです。皆さんは神の子として存在しているのですから」という精神の人たちには、ピンとこないだろう。
 「自己存在」の問題だけでは弱い気がしたし、もう一つ、観客が思い当たるテーマをつけ、作品をガードし安定させたかった。
 で、「差別」に気がつき、『ミュウツーの逆襲』の陰のテーマにしようと思った。
 「差別はいけない」とどこの世界でも言われるが、「差別」はどこの世界にもあるものである。
 「差別」は、受ける側にとっても、する側にとっても、あまり気分のいいものではない。
 それなのに、なぜ、人は人を差別するのか?
 そこいらにも気を配っている作品にしたかった。
 もともと、ポケモン世界自体が、疑似世界である。
 現実の世界をカリカチュアライズするのに適しているはずである。
 それに、アニメ『ポケモン』は、ゲームからアニメへ変換させるために、かなり無理をしており、差別について無関心ではいられない立場もあった。
 たとえば、野生のポケモンと人間に飼われたポケモンの差はどこにあるのか?
 しかも、飼われたポケモンはファイターとして育てられていく。
 目的は、飼い主であるトレーナーの出世栄達である。
 ポケモンは人間のための道具である。
 これは、野生のポケモン側から見るとどう見えるだろう。
 「お前たちは檻に入れられた奴隷じゃないか」
 野生側から見れば、軽蔑、差別の対象になるかもしれない。
 事実、小説版の「ポケットモンスター」では、序盤、サトシのピカチュウが、森で出会った野生のメス・ピカチュウに、人間に飼われている理由でふられるシーンがある。
 サトシのピカチュウ自身が変わっている。
 サトシのピカチュウはボールに入らない。
 ピカチュウの進化系はライチュウだが、サトシのポケモンは進化してライチュウになろうとしない。
 ルール違反のポケモンなのである。
 ルール違反といえば、ロケット団のニャースもただの化け猫ポケモンではない。
 二足で立って歩き、しかも、人間語をしゃべる。
 これらのルール違反は、ゲームからアニメへの無理から生じたことは明らかだが、無理を承知で貫いたのは、『ポケモン』全体のラストに関わることだからである。
 当初、『ポケモン』が、十年以上続くロングランになるとはだれも思わなかったろう。
 だから、僕も短ければ1年半後、長くてせいぜい3、4年後には、『ポケモン』のエンドマークが必要だと思い、ピカチュウや、ニャースの性格に納得できるエンドを考えていた。
 そこでの展開は、映画版『ミュウツーの逆襲』にあった「自己存在」「差別」、『ルギア爆誕』の「共生」など、色々な形で語られてきた様々なテーマが上手くはまりこむように作ったつもりだが、『ポケモン』が放送中である現段階で、それを言うのはどうかと思うのでやめておこうと思う。
 話があっちこっちへ飛んで申し訳ないのだが、『ミュウツーの逆襲』に戻る。
 「自己存在」と「差別」をテーマにして戦いを始めるにして、この作品で気を遣ったのは、台詞をわかりやすく書くことだった。
 一部の人には知られているが、僕の書く台詞は、ロケット団の口上に代表されるように首藤節とかいう特徴があって、確かに言われてみれば変わっているかもしれない。
 日本語で聞いているぶんには何となくごまかされるのだが、外国語で同じ台詞を話す時、翻訳の方はとても苦労するそうである。
 英語版を何度か見たことあるが、ポケモンの英語版を作っている方達はかなり優秀で熱心な方達だと思う。
 もちろん、僕の書いたセリフの英訳である。みんな、初めからまともなことなど喋っていないのだが、とてもうまく英訳されていると思う。
 しかし、『ミュウツーの逆襲』の場合、洒落や笑いは必要ない。
 できるだけ分かりやすく外国語に訳しやすい台詞を選んで書いた。
 いつもと違い、かなり用意周到に脚本を書いていた僕だが、最終になり、ミューとミュウツー、本物のポケモンとコピーのポケモンの戦いになるあたりから、アドリブ感を込めて、一気に駆け抜けたという脚本だった。
 そして、書いている途中、「あれ? こんなこと書いていいのかな? いいか、行っちゃえ……」――そこに、もう一つのテーマがあった。
 本物とコピーとの戦いになって、その戦いの激しさ悲惨さにその場にいたポケモントレーナーは、立ちすくむしかなかった。
 本物とコピーは、今までのようにトレーナーのために闘っているのではなく、自分自身の存在を賭けて闘っているのだ。
 それは、『ミュウツーの逆襲』内では、書く気はなくとも、いつかは書かなければならないことだった。
 つまり戦いの否定……。
 バトルゲームが原案のアニメが、バトルを否定してどうする?
 しかし落ち着く先は、僕にはそこしか考えつかなかった。
 それは……。
 ミュウとミュウツーの戦いを止めようと、サトシが間に立ち、両者の攻撃を受け、石化し床に転がったあたりからはじまっていた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 ある実写系の監督がいう、アニメの嫌なところは、引きがないことだそうです。
 簡単に言うと、人間をとらえるときに、全体像がとらえ切れていないうちに、各部のクローズアップにいってしまうということでしょう。
 すべてのアニメに引きがないかというと、そういう事でもないと思うのですが、確かにTVサイズのしかもストーリーアニメだと、引きよりもアップになるのは仕方がないのかもしれません。
 実写の監督はスクリーンに映す映画を前提にしていますが、TV育ちの人達は14インチから20インチが、身についた普通の画面なのでしょう。
 小さな画面では、引きが際立ちませんから……。
 実写の監督でも、最近はモニターTVでカメラに映る画像を監視しながら撮影する方もいるんですから、一概にどうのこうのとはいえませんが、逆に50インチ、100インチのプロジェクターで見る視聴者もいるわけですし……。
 要するに、脚本家は、画面を意識すべきかどうかという事なのですが、これは決まっています。
 脚本は映像作品の基本になるもので、音響台本でも、セリフ集でもありません。
 脚本家は絶えず画面を意識して、脚本を書くべきでしょう。
 そして、引きのシーンが必要ならば、脚本に書きましょう。
 それは、もしかしたら、監督や、絵コンテマンが通常描けない引きのシーンかもしれません。

   つづく
 


■第176回へ続く

(09.02.18)

 
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