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第135回 でたらめ年表四苦八苦……
「平安魔都からくり綺譚」のあらすじを簡単に言えば、平安時代、清少納言や紫式部のいた時代にかぐや姫(通常竹姫と呼ばれた)が実在し、しかも彼女は天才的女性科学者で、様々な発明をし、ラストには月を目指して自ら発明したロケットで飛びたっていったが、残念ながら月に行きつかずに、地球の日本以外の別の場所(多分アラビア)に不時着してしまったという話である。
そのかぐや姫(竹姫)を主人公にした作品に「竹取物語」という作者不詳の日本最古と言われる小説があるが、それは実は、かぐや姫(竹姫)をよく知る清少納言と紫式部が、共作したものだったのだ。……これ、もちろん僕の思いつきのでたらめである。
科学者としてのかぐや姫の活躍が、平安時代の人達からすれば、まるで魔法使いのように想像を絶したものだった。そのために、誰からも信用されないだろうと思った清少納言と紫式部は、かぐや姫(竹姫)を月から来た女の子という設定にして、様々な当時のお伽話をつけ加えて寓話として発表。今でいう空想SF小説のようなものだったが、文学という言葉すらなかった当時としては、架空の小説は書いても誰からも認められない。当時は事実を記した実録か日記、自分の心情を述べたエッセイの類か和歌しか存在しなかった。小説など、とんでも本の一種だったのだ。そんなものを書いたという汚名を恐れた清少納言と紫式部は「竹取物語」の作者を、自分たちとは名乗らずに不詳ということにした。
清少納言は、後にエッセイで名を知られるが、小説をあきらめ切れない紫式部は、「竹取物語」よりは、実際に存在しそうな――つまり、かぐや姫(竹姫)より現実に存在しそうな――男を主人公にした長編小説を書いた。それが「源氏物語」だった。……これも言うまでもなくでたらめ。
だが、「源氏物語」も、作者不詳の「竹取物語」も、所詮は架空の小説。実際のかぐや姫(竹姫)の京都での活躍を描いたのが「平安魔都からくり綺譚」である。
というような思いつきのでたらめを、現実に残った平安時代の歴史の空白部分に、紛れ込ませて書こうとしたのが、僕の「平安魔都からくり綺譚」だった。
平安時代に登場した実在の人物に加え、「源氏物語」の光源氏のモデルになった男や、かぐや姫(竹姫)にからんで平安朝廷を転覆させようと暗躍する大江山の鬼の一族――もちろん鬼ではなく、かつて日本に鉄を持ち込んだ一族で、鬼と呼ばれ差別を受けていた人々――が登場し、ミサイルで京都を破壊しようとする計画が起こったり、荒廃した京都の都を復興するための、臨海副都心ならぬ臨京副都心計画が行われたり、果ては、当時の中国=宋が日本侵略を企て、日本海で大海戦が起こったり、この海戦には、鉄でできた大戦艦――戦艦大和ならぬ戦艦大江山という巨大戦艦――が出撃する、というばかばかしさだが、それを無理矢理、今に残る平安の歴史に埋め込んだのだ。
所詮、おバカな疑似歴史だから、適当にやればいいのだが、この作品を僕の最後の疑似歴史ものにしようとした僕は、今に残る平安時代史との整合性にこだわった。
つまり、『まんがはじめて物語』では、歴史的事実等をほとんど考慮に入れずに書き、結果、現実の歴史とさして変らない内容の脚本ができてしまっていたのだが、「平安魔都からくり綺譚」では、歴史的事実を考慮して、でたらめを書こうとしたのだ。
その脚本を書くために、そのおバカな疑似歴史を、頭にしみ込んで離れないほど、しっかり作りこんだ。
そして、その作り込んだ歴史の中で、虚構の人物も実在する人物も一緒になって自在に動くようにした。
その存在の虚偽はともかく、登場する人物があたかも生きているように喋り、行動するためには、そこまで作り込む必要があった。
そのため、僕の中では、現実の平安時代史より、僕の作った平安時代史のほうが現実味をおびてしまい、今でも現実の平安史と、冗談ではなくごっちゃになっている。
歴史の話をする時など、僕の平安時代に関しての歴史は、まったくあてにならない。
自分が作った歴史年表を本気で信じているようなところがあって、自分でも呆れる時がある。
さらに、平安時代の人達が持っていただろう科学技術で、近代、現代の発明をかぐや姫(竹姫)の発明としてでっち上げるのだから、苦労した。
例えば、この作品にたびたび登場するロケットやミサイルなどは、ただ飛ばすだけでなく、ちゃんと目的地に辿り着くように、オートジャイロの原理を使うのだが、それが平安時代で通用するよう、地球ゴマの原理を使って説明しなければならなかった。
そして、それらの発明が平安時代の人達には妖怪の仕業や怪異現象に見え、呪いを解くべく、安倍晴明(あべのせいめい)達、陰陽師の登場となる。
安倍晴明は、実在した人物とされている。
こんな具合に虚偽が入り交じってくるのである。
僕は、自分で作った歴史を「平安魔都からくり綺譚」に整合するように、何度も作り変えた。
結果的に、前にこのコラムに書いた年表から、さらに変わっている。
「平安魔都からくり綺談」10世紀末略式日本史改訂版の改訂版
「平安魔都からくり綺談」が書かれた時代の真実に、いくつかの新事実が発見された。
10世紀を間近にした894年、一般の歴史書には、菅原道真が遣唐使の派遣の中止を上奏し、遣唐使派遣は中止されたとある。だが、なぜ日本が遣唐使を止めたのか、その真相は長く謎であった。
菅原道真は内裏付属帝女学館(だいりふぞくみかどじょがくかん)から大量の美人女性留学生団を派遣し、その団長になろうとしたため、帝を筆頭に各界の羨望と、さらに美女への夜這いの楽しみをなくす若い男達の恨みを買い、女性遣唐使派遣決定寸前に中止を余儀なくされたようである。
○901年 右大臣菅原道真が太宰府に左遷された伏線がここにあるものと思われる
○959年 中国に宋朝おきる
遣唐使を中止した日本としては、「あ……そう」という程度のよその国のお話であった。
別の国のお話と言えば、このころイタリアでは、ベニスの商人たちが活躍し始める。しかし、かれらの活躍がやがて、ヨーロッパに、ルネサンスをおこし、天才レオナルド・ダ・ビンチを輩出させるまで400年以上またねばならない。
○969年 左大臣、源氏の源高明、藤原氏との政権抗争に敗れ、太宰府に左遷
なんでもかんでも落ち目は太宰府……ただし、後日、藤原源光(光源氏のモデルかもしれない)が、太宰府に流されたという記録はまるで残っていない。
○970年頃 この頃大江山に鬼がでるとの噂しきり。鬼がどういう人たちであったかは定かではない
1010年頃に源頼光と四人郎党が大江山の酒天童子が、大江山の鬼を退治したという言い伝えがあるが、でっちあげのフィクションのようだ。大江山の鬼達は退治されたのではなく、10世紀末、新天地を求め、外国に旅立ったのが真相である。
○970年代後半 大江山付近の竹細工師の家に女の子が生まれる。
名を竹姫、正確な生年月日は定かではない。
○986年 一条天皇即位
朝廷は藤原家のなすがまま。藤原兼家が、摂政(政権トップ)になる。
○990年 「平安からくり綺譚」のまさにその時代
そしてこの年、藤原伊周、異例の出世、蔵人頭になる。
990年頃、竹姫、国民的美少女奨学資金を受け内裏付属帝女学館に入学。上級生に、清少納言、紫式部がいた。藤原道隆の娘、定子、一条天皇にお嫁入り。中宮(ちゅうぐう)になる。ようするに藤原伊周と一条天皇の妃は兄妹の関係である。後に定子に仕える女房(女官)になるのが、清少納言である。だがそれはまだ先のこと。
この頃中国では、印刷技術が完成された。
○990年頃
超有名陰陽師が登場。その名は安倍晴明。
なお彼は1005年、85歳で没。「平安魔都からくり綺談」での若き安倍晴明とは年齢が合わないが、どうやら竹姫関連の事件で、急に老け込んだようである。
○羅生門、消失…(京都に鬼、出没)この事実は普通の歴史には記されていない。
大江山噴火……(ミサイル多数発射が噴火のように見えた)この事実も普通の歴史には、記されていない。
○たび重なる凶事に、帝、 臨京副都心計画をおしすすめる
が、完成間近……副都心消失……。
後に藤原道長、宇治に副都心の内裏のミニチュア版、平等院を建てる。
○某大陸からどこかの国(たぶん宋)、襲来
この記録は、現在の歴史のどこにも残っていない。
ただ、1019年、藤原道長が権力の頂点から身を引き、出家したころ刀伊の賊が対馬、九州に侵入したという記載がある。
ただ、その規模はどこかの国(たぶん宋)の軍隊の規模とは、比較にならないほど小さい。
おそらく、どこかの国襲来の情報が、縮小解釈されたか、平安マスコミ倫理規定のフィルターを通して現代の歴史に残ったものと思われる。
○この頃、京の都に、月の使者が空より降り、娘1人をさらっていったとの噂、しきり……
○994年 九州からはじまった赤斑瘡(はしか)が猛威をふるう
○995年 政権トップの藤原道隆をはじめ政権トップの座をねらう有力者軒並み死亡
棚からぼた餅で、政権トップの座は、疫病にやられなかった藤原伊周と藤原道長のふたりのどちらかにしぼられる。かくして、ふたりはライバルとして政権トップをねらい、全面戦争に突入。藤原伊周と藤原道長の戦い激化。それは、清少納言と紫式部の戦いでもあった……。
○996年 藤原伊周、女性問題がらみで失脚
出世に焦った藤原伊周は、恋人を清少納言から帝の女性に乗り換え帝の怒りにふれた。
○1000年 彰子、中宮になる
当時全盛の藤原道長は自分の娘彰子を、中宮として一条天皇の妃にする。一夫多妻時代とはいえ、帝に2人の后というのは、初めてであった。この彰子に女房として仕えたのが紫式部である。
○同年、竹取物語成立
永遠のライバル、清少納言と紫式部が共同で書いた唯一ののSFチック、おとぎばなしチック、青春グラフィティだったが、原形は現存していないようである。
○枕草子成立
作者・清少納言
○源氏物語成立
作者・紫式部
通常、言われている藤原道長が、光源氏のモデル説は没である。
○11世紀初頭は、藤原道長の全盛期であった(追補1)
シェラザードがアラビアの王様に語って聞かせた千夜一夜の物語は、科学技術の話題にあふれたものだったが、当時の王様には、魔法の話としか理解されなかった(シェラザードは、アラビアに不時着した竹姫かも……)(追補2)。藤原源光(多分光源氏のモデル)の行方は、いまだ歴史から抹殺されたままでいる。
以上、他の虚構歴史を書く作家の方達には、こんな年表を作るのは普通の事かも知れないが、僕にとっては「平安魔都からくり綺譚」が最初で最後だった。
僕はこだわりまくって、この年表を作り、本物の年表だと思い込み信じ込む心境になってから「平安魔都からくり綺譚」を書いた。
おバカをやるのも、真面目にやったのである。
書いた僕は、心底疲れ果てたが、脚本を読んだ人は「おもしろいよ。平安時代の事、よく知らないけどね」……だった。
いつもの脚本のように、思いつきでさっさと書き上げたように脚本を読んだ皆さんに思われているのが、僕は無念だった。
僕の苦労した脚本は、人には楽に見えるらしい。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
脚本家の個性、オリジナリティについて語ろうとすると、必ず出てくる意見がある。
意見というより、脚本に限らず、小説、作劇に対して常識的に出てくる定説だ。
「現代における脚本……小説、作劇も含めて……つまり物語(ストーリー)を作るということにおいて、オリジナルなどない。新しいもの、オリジナリティのあるものなどは、すでに出尽くしていて、どんな作品を作っても、今までにある物語(ストーリー)のどれかのパターンに当てはまる。そのパターンは数十とおりしかない」
その数十とりを丁寧に教えてくれる、脚本を教える学校や指導書もある。
確かにそうかもしれない。
人間が、「お話」と言うものを作るようになってから、何千年、何万年経つかは知れないが、人間が考えられる「お話」は出尽くしている、という意見に反対はしない。
どんな「お話」を考えても、いままである「お話」の何かには似ている。
では、その「お話」のパターンをぶち壊すものを作ろう……つまり、「お話」じゃないものを作ろうとしても、残念ながら、そのパターン崩しもすでに出尽くしている。
パターンもパターン崩しも、現代においては、結局パターンにすぎない。
だがだからといって、そのパターンを覚えたから、「お話」が作れるわけでもない。
知識としてそのパターンを憶えておくのは、その人の勝手だが、自分の書いたものが、どのパターンに当てはまるかに気を取られ、結局、どのパターンにもなり切れない中途半端なものになるのがおちである。
作劇の構成として「起承転結」や「序破急」が基本であるのは誰でも知っている。
特に初心者の脚本や戯曲の場合、批評される時に「起承転結、序破急が上手くできている」とか「できていない」とか言われて評価され、あまりにそれを言われるから、頭にきて、「起承転結」「序破急」をぶち壊しのものを書いたら、「そんなものは、すでにあるよ……それも傑作が」等といわれ、だったら、どうすりゃいいのよ……と、頭を抱えた経験のある作家志望の方も多いはずである。
もちろん、誰かの作品の「起承転結」や「序破急」を読み取れたからといって、自分の作品の構成がうまくできるわけではない。
自分の書いた作品のどこをどう「起承転結」「序破急」にしようかと悩んで、結局、無理な構成になる場合が多いのである。
さて、昔の僕の例を言うなら、ちょっと普通と違う風変わりなものを書いた時、いつも気にしていたのは、すでに他の誰かの作品に同じものがあって、それを知らず知らずのうちに真似していないか? つまり、誰かの作品のパクリをしていないか、ということだった。
意識的にパロディにしたもの――パロディとパクリは違うが、それについては、後日、書こうと思う。僕の作品はパロディがやたら多いと言われているし――ならともかく、自分が考えだしたもののつもりが、誰かの真似かもしれないと思うと、自分の過去にそんな作品との出会いがなかったかを思い出そうとして、夜も眠れなくなり、ノイローゼになりかかったこともある。
「君の脚本は、君なりのオリジナリティがある作品だ」等とお褒めの言葉をいただくと、かえって「本当に、僕のオリジナルなのか」と、考え込んでしまうのだ。
特に僕の場合、何を書いても「『首藤節』の脚本ですね」等と言われる時期があって――今も、そうかもしれないが――、「自分で、自分の作品の真似をしてどうするんだ」と、そうとう悩んだ事もある。
自分のオリジナルのつもりが、自分自身の過去の作品の真似というのは、本人にとってかなり悲劇である。
別の表現をすれば、自分のマンネリに悩むという事かもしれない。
ともかく自己のオリジナリティを出すというのは、かなり難しい事のように思えるが、実は、ものは考えようで楽になるのである。
つづく
■第136回へ続く
(08.02.06)
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編集・著作:
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