β運動の岸辺で[片渕須直]

第83回 われわれはどこから出発していたのか

 読売新聞の福田淳さんが突然連絡してこられて、政岡憲三さんについて何か語れますか、と問われてしまった。
 福田さんにはじめて声をかけられたのは、たしか『マイマイ新子と千年の魔法』の公開開始直後か、ひょっとしたらマスコミ向けに試写を行っていた時期だったかもしれない。この映画は全国公開直後から興行成績が危ぶまれ、なかんずく本来最初に狙い目とするはずだった大人の観客層が観ようにも観られない、夕方以降の上映が設定されていないという失策のために、いきなり浮沈の際に立たされたのだったが、なんとかしようと対策を講じた中で行った文学フリマにおける監督トークの催しの、一番前の食いつかんばかりの席に福田さんはおられた。そのことだけでも福田さんには恩義を感じる。
 その福田さんが「政岡憲三を」といわれるのだが、よりにもよって自分などにそんなところを喋れる資格があるのだろうか。なさそうだなあ。
 ただ、ちょっと感じていたことがある。ちょっとだけ。そんなそこはかとないものを根拠に、喋れるかもしれません、と返事してしまったのだった。
 政岡憲三の代表作『くもとちゅうりっぷ』は昭和17年の完成、18年の公開という戦時映画だった。戦時色が感じられない情緒的な作品、といえばいえる。少なくとも『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』の露骨さはない。
 それよりも、とふと思うのは、『くもとちゅうりっぷ』の悪役、カンカン帽の蜘蛛のあの動きのことだ。脚がのびのびと長く、ストレッチ・アンド・スクワッシュが効いた蜘蛛の動きは、当時の日本製アニメーションの作画としては異色なまでにアメリカ製アニメーションに接近していなかっただろうか。「フルアニメーションってなあに?」などということに今さらこだわるところがあってしまうから、そんなところが気になってしまうのだった。対して、てんとう虫の女の子の動きはこれもちょっと度が過ぎたくらいにちまちましている。あの頃の童画の典型のように花が低く真ん丸な顔のてんとう虫の手足は短く、どうしても同じ距離を歩くのに多くの歩数が必要になってしまうのだったが、ただそれだけのことではなさそうな気がした。
 おそらく政岡憲三という人は、「アメリカ的なデザインの蜘蛛」と「日本的なデザインのてんとう虫」を相対させただけでなく、それぞれに「アメリカ的なアニメーションの動き」「日本的なアニメーションの動き」を与えることで、対峙させようとしていたのではないか、などと考えてしまうのだった。もしそうなのだとしたら、政岡にはすでに「自分たちのアニメーションはこう動くのだ」というポリシーというか、独自性のようなものが自覚的に存在していたことになる。
 この辺のことはあくまで現場人としての立場における自分の勘に過ぎないので、より精緻な分析は専門の研究者の委ねたほうがよいのだろう。
 ただ、そんなようなことを福田さんに話したら、「『マイマイ新子』はその系譜の上にあるわけですね」と指摘されてしまったのだった。

 敗戦の翌年昭和21年に、政岡は早くもアニメーション業界の復興作である『桜』を作り上げている。
 この作品は配給を拒絶され、興行にかけられなかった。ストーリーを排した情緒的な内容に過ぎたから、ともいわれ、日本髪や和服の女性を描いていたことから進駐軍の意向に触れることを恐れたため(当時、時代劇映画は公開できなかった)ともいわれる。だが、何より『桜』の作画には、『くもとちゅうりっぷ』の蜘蛛のストレッチ・アンド・スクワッシュが微塵も残されていないのだった。アニメーション作家として、政岡は日本的なアイデンティティを動きの上ででも主張していたのではなかったのだろうか。
 それにしても、『桜』のカメラアングルの立体感には胸打たれる。
 その後、政岡が設立した日動は東映に吸収されて東映動画となる。だがそのとき政岡はすでにそこにいない。政岡を欠いた東映動画の初期の長編動画の構図には、あの『桜』の立体感も欠けており、それが蘇るのは、大塚康生さんによる『わんぱく王子の大蛇退治』のクライマックスシーンまで待たなければならないのだった。
 『くもとちゅうりっぷ』に歌以外の台詞がほとんど存在せず、『桜』では完全に台詞が排されていたように、『わんぱく王子の大蛇退治』もまた決戦シーンにほとんど台詞を有しない特異な映画だった。
 われわれの歩み道の基礎は、ストーリーよりも「表現」から出発していたのだなあ、とあらためて思わされた。
 そんなことを考えるよい契機を与えてくださった福田淳さんに感謝します。

 で、この連載で長々と続けてきた自分自身の昔語りを、『名犬ラッシー』に取り掛かる直前で中断したままになってしまっているのだが、正直いまだにあの作品については苦しくて、どう書き始めてよいのかわからないでいる。ということで、今回もまたもやこんなふうに逃げてみた。

第84回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(11.06.06)