β運動の岸辺で[片渕須直]

第40回 目とともにある暮らし

 人生や物づくりには色々な挫折があって、でもそういうことの結果として、例えば『マイマイ新子と千年の魔法』のようなフィルムが存在している。そんな意味合いで、自分の来し方を振り返って書き始めた頃は、思えば快調だった。『マイマイ新子』の当初客足に多少の不入り感があろうが、それはそれで、なあに、何か立ち向かってゆく相手がひとつ見えたさ、という気持ちになって前へ前へ向かうことができた。
 今はちょっとそういう気分ではなくなっている。
 何か落ち込むような不幸せがめぐりきたのかといえばそういうことでもなく、単純にちょっとくたびれている。率直にいえば、『BLACK LAGOON』新シリーズの2話目がこれを書いている日から見た昨夜、完成納品を迎えたのだが、スケジュールの最後の最後に色々なものが集中して、個人的にくたびれ果ててしまった。思えばここのところ、仕事場にいるか、通勤のための車の中にいるか、自分の寝室で布団にくるまっているか、どれかしかなかった。こういうときは現実逃避するにしても、自分自身の昔のことなど振り返ってみてもいたずらに「悔い」に似た感情が高まるだけで、それよりももっと別なところに向かいたくなってくる。
 ということで、今日は朝から小説本を読んでいる。それがずいぶん久しぶり、というのだから、我ながらちょっとあきれかえってしまってもいる。

 ここのところ大忙しだったのも、日がな一日真っ暗な部屋に籠もってパソコンモニターをにらみつけて、画面を構成する素材の調整をしていたからなのだが、画面表現は物語と同レベルの作品要素であるわけなので、ここはがんばるべきところだと自分では思っている。『マイマイ新子』のときもそうした作業時間が長くつづき、やっている間にどんどん目の焦点が合わなくなってゆくのが手に取るようにわかった。最近の家庭用TVなんかよりずっと小さなマスターモニターの画面を映画館のスクリーンに見立てて眺めようとすると、どうしても画面から20センチくらいのとこまで目を近づけなくてはならず、まあ、自分の年齢的なものもあって、ピントの調節がどんどん退化していってしまうのだった。
 そうこうするうちに本を読むのが億劫になってきた。億劫ですむうちはまだよかったが、今では眼鏡なしには全然活字の顔が見えない。本なんて当たり前に読むものだった自分の生活がどこか変わってしまい、文庫本なんかまったく読まなくなってしまってもはや久しい。

 もともと遠視気味だったように思う。学生の頃から書店の本棚に並ぶ背表紙を眺めていると、本棚と自分の間を行きかう人が通るのだった。それくらい、目標物から距離を置いて立っていた、という話。
 そのかわり、視力は両眼2.0はあったのだが、テレコムに通っていた20代半ばの頃、地下鉄のホームに立って、並ぶ列柱がきちんと見えなくなっているのに気がついていた。片目だけピントの具合がおかしくなっていたのだった。
 テレコムにいた頃、先輩のアニメーターの丸山晃一さんに教わったのだが、平面に描かれた絵を両目で見ると脳はそれを平面的なものとしか認識しないのだが、片目だけで絵を眺めるとより立体的に見えてくる、というのだ。富沢信雄さんが個人的に持っていた井岡雅宏さん直筆の『ハイジ』のアルムの山の背景画を実際に片目で眺めてみて、驚くばかりの立体感に驚いた。
 この方法でレイアウト・チェックをすると、パースが合っているかどうかが一目瞭然になる。

 そうこうして、テレコムを辞めてみて、久しぶりに夜空の月など見上げてみたら、ちょっと前まではっきり見ることができたクレーターも月面の海もよくわからず、それどころか月自体が三重のダブラしに見えた。乱視になってしまっていたのかもしれない。右目は特によく見えず、仕事したあとなど視野の右半分だけ霞がかかっているように見えるときもあった。パソコンなんかが仕事の現場に出現するはるか以前から、目はやはりくたびれていたらしい。
 それ以来25年に渡ってその目を使って仕事してきて、最近になって本を買っても枕元に積み上げるだけになってしまった。まことによろしくない。
 といいつつ、漫画本はそれなりに読んでいたりもする。

第41回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.07.12)