アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その78 続『母をたずねて三千里』

 『三千里』は完全連続の全52本、正味約20時間の大河ドラマであり、マルコを中心にした人間群像劇でもあります。その描写は一面的ではなく、主人公マルコにしてもよくある健気なよい子ではなく意固地な面を持っているように、周囲の大人も子供も、立派な面も弱さも欠点も持った血の通った人間になっています。単なる悪役や善人ではなく、それぞれに彼らなりの背景を持っています。だからどんなエピソードでも描写は卑しくなく、物語に厚みを与えているのです。
 例えば第40話でマルコに罵声を浴びせる執事にしても単に冷酷な人間ではなく、不況の中で糧を求める移民たちがなだれ込む情勢に古くからの住民は迷惑を被っているという社会背景があります。
 そんな中でマルコに示される善意は、移民が集う店「イタリアの星」でのそれのように、互いにぎりぎりの生活の中での共感からのものであり、それゆえに見る者の心をも打つのです。そこに地元民の、街の人間の非礼を詫びる言葉が加わり、感動はさらに増します。単なる哀れみからの施しはマルコの誇りを傷つけるだけなのです。
 善意の人物の1人にペッピーノ一座の危機を救う老ガウチョ・カルロスがいますが、彼の孤高の姿の後ろには急速に変わる世の中で滅び行くガウチョの悲哀があります。このカルロスに『ハイジ』でアルムおんじの声を演じた宮内幸平さんを当てたのは、さすがのキャスティングです。

 群像劇としての『三千里』の中でも極めつけの人物として、ペッピーノと、フランチェスコ・メレリがいます。
 陽気でお調子者、口ばかり大きく頼りないけれど人情家のペッピーノ。いつかは自分の人形劇場を持ちたいという野望を抱きつつも、現実は日々の暮らしを賄うのが精一杯。女房はそんな彼に愛想をつかして逃げてしまったという体たらく。しかしそのペッピーノの人間臭さがどれほどこの物語に潤いと親しみを与えてくれたことでしょう。声の永井一郎さんは、数々の歌も披露する名演技でペッピーノの存在感を確かなものにしてくれました。
 マルコの叔父であるメレリを巡る人間ドラマは、ファミリー向け番組とは思えないほど重い内容を含んでいます。それは連続TV番組の中のエピソードだからこそ可能になったものであり、このあたりに連続TV番組という形式が持つ意義があると思います。メレリの、アンナとの血縁や性格の弱さを感じさせる風貌や、彼を陥れる小悪党のいかにもそれらしい風体なども実によくできています。
 また、マルコとフィオリーナの「母」を巡っての陽と陰というべき関係も、重要な要素です。一途に母を探し求めるマルコと、母に捨て去られ、心の底に母への愛憎を沈めているフィオリーナ。2人の初めての出会いの時、フィオリーナが独りで酔っ払いの人形を操っているという描写には感嘆してしまいます。女の子らしい可愛い人形でなく、酒ビンを手にした酔っ払いの人形を巧みに操るというそのことに、まだ年端も行かない彼女が過ごしてきた年月がうかがわれるのです。自分は何もできないと思い込んでいたフィオリーナは、マルコの明るさや積極性に触れるうちに自身の本当の気持ちに気づき、本来の自分を生きられるようになります。まるで『ホルスの大冒険』のヒルダのように。「花」の意を持つ名のフィオリーナは、マルコの旅路に寄り添って咲く花のような存在です。
 そしてもう1人、「花」という名の少女フアナと、その兄パブロ。インディオの彼らとの間に芽生えた友情は、マルコとアルゼンチンとをより強く結ぶ絆になります。マルコの父ピエトロの診療所の設定がここで最大に生きて来ます。それまでの旅で病人に寄り添い、死の床にある人を看取ってきたマルコは、ここで移民に対するよりもひどい差別があること、医術すらも金次第という現実に直面し、父の事業の重要さを芯から理解するのです。『三千里』の物語を通した1本の糸だった設定はやがて、探し求めた母が医術の力によって命を救われる様を経て、マルコの中にしっかりとした根を張ります。将来、医師となって再びアルゼンチンに戻るという決意となって。母との再会は、ゴールではなく、母からの自立の第一歩となったのです。

 地に足の着いた描写が主体の『三千里』の中で異色なシーンが何度か出てきます。それは第21話冒頭でマルコが見る悪夢であり、第40話で心を打ち砕かれたマルコが白昼夢の街を彷徨うシーンです。強いコントラストの、現実感も三次元の感覚もない異様な世界は、マルコのみならず観る者に強烈なインパクトを与えます。リアリズム主体の物語だからこそ、シュールレアリズムの効果がいや増しているのです。遡って『ホルス』の迷いの森にそのルーツを見出すこともできます。
 また同じ第21話では、アルゼンチンを目前にしたマルコの乗る船が遡上するその河の上流から何かがゆっくりと流れて来て、やがてロバの死骸と分かるという描写があります。淡々とした描写で、登場人物の誰にも気づかれることなく、それを目に留めるのはカメラ、すなわち作り手と視聴者のみ。この描写がこれからマルコを待ち受ける苦難の旅路の暗示となっており、映画的な感覚を感じます。

 ものを作る側は想像以上に、そのものに影響を受けます。『三千里』についてスタッフに意見をうかがうと皆一様に、つらかったと口にします。実作業の大変さとともにマルコの旅そのもののつらさがスタッフの上にのしかかっていたのです。それは末端の動画マンだった私にしても同様でした。宮崎さんは『三千里』について、ぼくらは皆、高畑さんの後をとぼとぼとついていっただけなんですということを言われていましたが、共感できる言葉です。マルコが発した「ぼくは悪魔に呪われているんだ!」という叫びは、そのまま皆の心を映したものだったでしょう。
 『三千里』はアニメ史上未踏の高峰でした。メインスタッフ、キャストの誰1人が欠けてもその踏破は難しかったことでしょう。映画「劔岳 点の記」がただ登ること、ただ撮ることでしか完成し得なかったように、『三千里』もただひたすらに描くこと、組み立てることによってしか成し得なかった作品と思います。それを支えていたのは、よい作品を作っているという誇りでした。
 長い旅路の中で国籍も人種も境遇も様々な多くの人と出会い、別れ、それぞれの人生の断片に触れ、世の中そのものに目を開いて行ったマルコが、母とともにジェノバに帰還を果たした時に父に告げた「素晴らしかったんだ、ぼくの旅」の言葉。それはマルコだけでなく関係者全ての思いのこもった、全てを肯定する言葉となったのです。
 手を取り合って街角へ消えて行く一家の後ろ姿。物語は閉じるけれど、彼らの人生はこの先もずっと続いていくという確かな手応え。それは彼らの日常への帰還であり、日常性の勝利であるのです。『母をたずねて三千里』という題名から容易に想像される哀れな母恋いの旅に堕することなく、大いなる人間讃歌の群像劇としてこれを作り上げた『三千里』。そのスタッフの末端に加われたことを私は誇りに思います。
 最終回。世話になった人々に次々と別れを告げながらのマルコの帰還は高畑さんたちが愛する『雪の女王』へのオマージュとも取れ、微笑ましくも晴れがましいものになっています。

 しかし、この『三千里』は、『ホルス』『ルパン』『パンダコパンダ』『ハイジ』と連綿と続いて来た高畑・宮崎・小田部3氏のチームによる最後の作品となりました。
 小田部さんは日本アニメーションを退社し、古巣の東映動画で久々の長編漫画映画『龍の子太郎』の作画監督を、『三千里』後半の作監補として伴走してくれた奥山玲子さんとともに務めた後、ゲーム関連業界へと転進しました。宮崎さんは、一番身近で高畑演出の真髄を見続けてきた成果を、初監督作『未来少年コナン』で爆発的に開花させ、アニメ史上の傑作『ルパン三世 カリオストロの城』を経て、現在では世界のミヤザキとして誰もが知る存在になっています。着実に業績を積み重ねる高畑さんの作品世界も、『三千里』の頃とは違ったものになっています。緻密に描写された日常生活に根ざした人間ドラマは『三千里』である意味やり尽くされてしまったのでしょう。皆、あの頃から遥かな地点まで来てしまいました。もう二度と『三千里』のような作品が生み出されることはないでしょう。『三千里』は日本のアニメ史におけるひとつの到達点であるとともに、彼らにとっても到達点であり、新たな旅立ちのよりどころでもあったのです。
 でも、と私は思います。人の業を描くのも重要と承知しつつ、やはり人間の善意と可能性を信じる作品は何よりも心に染み入るものであると。
 それにしても放映当時は感動こそすれ泣くことはなかったのに、今改めて『三千里』を見ると、何でもないところで涙が流れて仕方ありません。これがペッピーノさんがいみじくも言う「大人になればなるほど寂しいもんさ」ということなのでしょうか。時を越えてそびえ立つ高峰。それが『三千里』なのです。

その79へつづく

(10.03.26)