アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その50 あんばらや

 1972年の暮れから1973年にかけて、アニ同にとっても大きな影響のある出来事がありました。アニ同を通じて知り合った会員数人が、卒業、就職を控え、共同生活を始めることになったのです。最初のメンバーは、石之、北島、並木の各氏にズイヨーのアニメーターだった山本やすひこさんを加えた4人。1年後に山本さんが抜けて、一時郷里に帰っていた小湊昇さんが再度上京して加わり、こうして今もアニドウの歴史に名を残す「あんばらや4人衆」が誕生したのでした。
 場所は西荻窪の奥。古い2階建てアパートの1階全部を使った、バス、トイレ、ダイニングキッチンつきの物件でした。中はドアと襖で仕切られた和洋折衷な造りで、6畳と4畳半の4部屋を4人で分け合って暮らすことになりました。でもなぜか、一番最初にそこに入ったのは私だったのです。私のアパートは以前にも書きましたが大家の老女が、私が当時アニ同の他に所属していた手塚ファンクラブのことを変に誤解していて非常に居づらく、あんばらやには何の用途か2畳の小部屋があるのを幸い、そこに一時避難させてもらったのでした。
 「あんばらや」という名称はオンボロアパートの「あばらや」の意味もありますが、もうひとつ、当時深夜に放映していた円谷プロの怪奇シリーズ『恐怖劇場アンバランス』と掛けて誰言うともなくついたものです。『アンバランス』は鈴木清順、藤田敏八監督らも参加していた異色作で、制作後しばらくお蔵入りになっていたほど怪奇色猟奇色が強く、皆で脅えながらひとつのコタツに寄り固まって見ていたものです。もちろん一番怖がっていたのは私で、ショックシーンのたびに、手近にいる誰彼構わずしがみついて耳を塞いでいたのでした。怖いといえば、あんばらやへの途中に薬王院という古い寺院があって夜目にもおどろおどろしい雰囲気を放っており、前を通る時は皆で早足で歩いたものです。
 話が前後しますが、この「あんばらや」入居をまたいで、石之さんはタツノコプロ、北島さんは木村圭市郎さんのネオメディア、小湊さんは野田卓雄さんのナンバーワン、並木さんは東映動画やトップクラフトでの撮影助手を経てオープロへ、そして私は岡田敏靖さんたちのアドファイブへ、それぞれ動画マンとして就職するという人生の転機を迎えたのでした。
 こうして「さん」づけで書いていると何か感じが出ません。かつて漫画家の聖地トキワ荘では互いのことを「何々氏」と「氏」づけで呼び合っていたそうですが、アニ同でもそんな風でした。湯川氏、田代氏、藤田氏。あんばらやでも同様に、石之氏、(小)湊氏と呼んでいました。この呼び方には日本語の音感の関係で3文字の苗字が合うので、北島さんは北島氏でなく北さんと呼ばれていました。並木さんは氏で呼ばれることもありましたが、なぜか呼び捨てか「くん」づけが多かったのは当時の格付けが反映されていたのでしょうか。
 あんばらやでの日々は楽しいものでした。それまでアニ同は毎週集会としてコボタンや何かの喫茶店を使っていましたが事務所という場所がなく、会報やプログラム類を作るにも会員の家を転々としたり、手塚ファンクラブ関係の知人の家におじゃましたりと苦労をしていたのです。でも苦あれば楽ありで、藤田さんの家のあった江古田の牛丼屋さんや、並木さんの家がある浦和で真冬に食べた排骨ラーメンの美味しさは、その時の充実感と共に一生忘れられない味です。味といえば、西荻窪からあんばらやへと歩く途中の道路沿いに屋台を出していたラーメン屋さんの味は最高で、後にお店を構えたと聞きますが、もう一度味わってみたいものです。
 話が逸れてしまいました。皆があんばらやに入居したちょうどその頃、東映動画の労働争議に伴い、伝統の長編用動画机が1台5000円で大放出され、リヤカーで運び込まれたのもこのあんばらやです。その机を使って本業の他に皆で動画のアルバイトをしたり、アニドウの自主制作アニメを作ったりしました。2畳の小部屋はちょうどいい撮影部屋として活躍したものです。電話も引いてアニドウの事務所としても機能するようになりました。旧「FILM1/24」の11号や情報紙としての「FILM1/18」が作られ、私の手書きによる「FILM1/24」が始まったのも、並木さんが「ファントーシュ」を始めたのも、自主作品の全国縦断上映会PAFが開始されたのも、皆ここです。これらについてはまた項を改めて記そうと思います。
 仕事ばかりでなく暇な時は皆でずっと莫迦話。その頃はアニメはもちろん、SF、それも早川書房の銀背と呼ばれるシリーズがマニアの基礎教養でしたから、そのタイトルだけを使って延々と駄洒落を言い続けたりしていました。他にも当時大ブームだった少女マンガ誌の「週刊マーガレット」や「別冊少女コミック」等々を回し読みしたり、休日には揃って出かけたり、一緒に料理を作ったり。料理は大学生活で一人暮らしが長かった石之さんが得意で、トマトの味噌汁などという風変わりでしかも美味しいものを食べさせてもらったり、一緒に料理の本を見ながらポークチョップ等に初挑戦したこともありました。4人の共同生活は2年以上続いたのですが、最後にはほとんどが自炊の達人になっていたそうです。
 あんばらやは私に限らず常に誰か出入りしていて、タツノコプロで特殊効果に携わっていた人がその技をセルに実演して見せてくれたこともありましたが、それは原画の絵にとらわれず自らのセンスでブラシや筆、スポンジ等を縦横に使って創造する、正に特殊な技術でした。後に「ファントーシュ」に関わることになるメンバーや、アニメーターからデザイン関係に転身した牛込恵子さん、まだ高校生で昼間の電話番を務めてくれた篠幸裕くんたちもよく来ていました。篠くんは後にアニメ演出家になりましたが、彼などが俗にアニドレイと呼ばれるアニドウのお手伝いさんのはしりかも知れません。他にも上映会の二次会の後に十数人が一斉に転がり込んだり、自主制作をしていた時などは常時何人かが泊まり込みで、最多で20人以上が集まって所狭しと作業していたこともありました。
 本家には及びもつきませんが、私たちにとってのトキワ荘。あんばらやはそう言っても過言ではないところであり、アニドウの歴史にとっても若々しい躍動の青春時代に当たります。私にとって、あんばらやはそんな幸せな記憶と共にあるところなのです。

その51へ続く

(09.02.20)