アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その24 アニ同群像

 東京アニメーション同好会、当時の略称アニ同は、資料によると1967年4月にアニメの現場で働くスタッフたちの交流と勉強の場として発足しています。当初は新宿の喫茶店プリンスで毎週月曜に集会を持ち、「アニメ見る会」の名で『雪の女王』や『やぶにらみの暴君』等の上映会を開催する一方、ガリ版刷りの機関誌『アニメだより』を発行、また、東映動画の労働組合員が中心となって作り上げた長編『ホルスの大冒険』の公開支援のためにスタッフ座談会や討論会を開くなど、活発な活動を繰り広げている様子が資料からうかがえます。1969年4月からは新宿のマンガ喫茶コボタンに集会場を移し、雑誌『COM』で取り上げられたこともあってか、この頃から学生の参加も増えてきたそうです。当時の会則には「アニメの好きな人なら誰でも入会出来ます」と書かれていますが、私が入会したのは、ちょうどそんな開かれた時期だったのでした。
 同じ会則に「アニメ同好会は世話人会によって民主的に運営されます」とあるのもどこか時代を感じさせますが、私が入会した1971年の頃のアニ同は、三上芳晴さん、相磯嘉雄さん、半田輝雄さんたちが世話人会の中心メンバーとして会の運営を、鈴木周一さんが会計を務め、名古屋から上京して来た熱血漢、湯川高光さんが実質的なリーダーとして会の活動を精力的に牽引していました。中心メンバーは皆、仕事を持ちながら時間をやり繰りして月曜集会に集い、話し合いながらアニ同の運営を進めていました。前記の3人の方々はそれぞれ歴代の会長を務めていましたが、本業が多忙になるなどして時間を割けなくなると、会員の総意の下、会長の座は他の人に譲られていきました。
 初代会長の三上さんは当時すでにご多忙だったのか、余り記憶にないのが残念です。
 2代目会長の相磯さんは初期の東映長編に動画としてお名前が載っているベテランの方ですが、私がコボタンでお会いした頃は撮影の方に天職を見出されていました。アニ同の用事で大泉の東映動画スタジオを訪ねた折に、大きな撮影台の前で奮戦しておられる姿を遠目に見かけたものです。マルチプレーンカメラのレンズの下で直接試行錯誤しながらの撮影の仕事には創造の余地と工夫のしがいがあり、絵を描くのとはまた別種の喜びがあったようです。機会があれば、この辺のこともいつかお聞きしてみたいと思っています。
 スリムな身体に長髪が印象的な3代目会長、半田さんは当時はまだ多くはなかったマイカーの持ち主で面倒見がよく、アニ同の活動でお世話になるばかりか私のアパートの引越しまで2日に渡って手伝っていただき、感謝に堪えません。半田さんの奥さん、片野福子さんは初めてお会いした時には大きな黒ぶちの丸メガネをかけて髪を両脇で結わえ、赤ちゃんを抱いた元気な若奥さんでした。片野さんがこまめにアニ同発足当時の資料を保存しメモしておいてくださったおかげで、今も当時の様子を知ることができます。
 私が入会した時には会長的な役割を果たしているように見えたリーダー、湯川さんはすでに地元・名古屋のTAC(東海アニメーションサークル)で自主製作の実績があり、アニ同でも自主制作のための創造研究部を発足させるなど、積極的な活動を進めていました。吉田拓郎の『人間なんて』をモチーフにした作品の叩きつけるような熱さや、名古屋時代に友人の神田吉男さんと共作した『太陽と小さな親切』等の完成度の高さは、暗いコボタンの2階で回る映写機の音と共に忘れることができません。
 湯川さんとは昨年4月に行われた「アニドウ創立40周年記念の会」で久しぶりにお目にかかることができました。現在は学生の指導にあたりつつ、アニメ作家として活躍されているとのことですが、作品制作にかける情熱は全く衰えを見せておらず、遠い昔に電車に乗り遅れて下宿先に泊めていただいた思い出も含め、頭が下がるばかりです。
 会計の鈴木さんは当時、某現像所に勤務していた関係でフィルムの扱いに長けており、時には役得的な事柄も会にもたらしてくれました。湯川さんとは名コンビで、熱い行動派の湯川さんとは対照的に、もの静かで優しい物腰をしており、専用のルーペでフィルムを挟んで直接コマを見る方法を教えてくれたりもし、少女の私は密かに憧れていたものです。今は某所で映写係を担当されているそうです。ちなみにフィルムを直接見るのは、コマの下の方にアルファベットとローマ数字の組み合わせで記されている製作年度を読み取るためです。映写中にはなかなか正確には読み取りにくいものですから。片野さんが育児でお忙しくアニ同に顔を出せないからでしょうか、いつしか私が上映作品等の記録を受け持つようになっていったのです。その頃の思い出のルーペは今も動画机の引出しの隅に、入会当時の幸せな記憶と共に眠っています。

その25へ続く

(08.02.22)