アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その23 東京アニメーション同好会へ

 入学してしばらくしたある日、大学図書館で開いた『映画評論』最新号のページの下段に、東京アニメーション同好会の上映会のお知らせが載っているのを見つけました。問い合わせの電話番号もあります。その頃の私は漠然と「東京」アニメーション同好会という語感から、とても大きな組織で事務所なども構えているのではないかと思っていました。それで問い合わせ先の「日下部」という表記を「くさかべ」さんという個人名だと思わずに「日下」という部署があるのだろうと思い込んでしまったのです。かけてみた電話には幸か不幸か誰も出ませんでした。もし通じていたらとんでもない勘違いな電話になっていたはずで、冷や汗が出ます。
 上映会はまだ先で、東京に不慣れな自分には会場の場所も分かりません。そこでまずは『COM』に載っていた地図を頼りに、東京アニメーション同好会が集会を開いているという新宿のマンガ喫茶コボタンを訪ねてみることに決めました。水道橋の駅に向かう途中に小さな家電店があり、サンヨー(三洋)の系列店だったのでしょう、庇より高く掲げられた『ジャングル大帝』の大きな看板が私を励ましてくれているような気がしました。
 コボタンがあるのは新宿駅東口。西口広場ではまだフォークソングを歌い集う人々を見かけた頃です。伊勢丹の前の通りをしばらく歩いた角にある小さな2階建ての喫茶店。そこがコボタンでした。扉を開けると1階にレジのカウンターとテーブル席、2階はびっしりとテーブル席。壁にはマンガの書棚、ところどころにマンガ家の原画等が展示されていたりもしました。
 アニ同(当時の略称はカタカナではなく、この表記)の集会は月曜の夜。場所は2階です。狭い階段を上ると、奥の方まではよく見えないような薄暗い部屋でした。いたのはほとんどが男の人だったような気がします。そんな中にひょっこり現れた、長い髪にリボンをつけた童顔で小柄なミニスカートの女の子は随分と場違いに見えたのではないでしょうか。それでも、コーヒーを注文して端に座っているうちに誰かが声をかけてくれ、その日その場で入会金と会費を払って小さなカードのような紙製の会員証を受け取り、会員になったのだと思います。この少し後の資料で見ると、入会金50円、会費が月150円とあります。

 アニ同の集会は2階を使って開かれていましたので、いつも2階へ直行してしまって、私は1階に座ったことがありません。1階では1杯のコーヒーで黙々とマンガを読んでいる人ばかりだったような印象があります。私はアニ同の集会でしか行ったことがなかったのですが、当時、アニ同とは別にコボタンに通っていた人の書いたものを読むと、マンガを読みに来るだけでなく、マンガ家の卵同士が互いの原稿を見せあったり、マンガ論を闘わせたり、マンガコレクター同士の情報交換があったりと、かなり活発な動きがあったようです。『スケバン刑事』で有名になる和田慎二さんや『COM』で新進気鋭の岡田史子さんたちも随分通っていたと聞きます。コボタンにはその後閉店になるまでほぼ毎週通っていたのですから、1度くらい別の日にでもゆっくりとマンガを読みに行ったらよかったのに、そんな機会は全く持ちませんでした。私にとって、コボタン=アニ同ということだったのでしょう。伝説の場所に通いながら、今思うと惜しいことをしたものです。

 会員になってすぐの頃のことで一番印象に残っているのが、当時大宮にお住まいだったフィルム・コレクター杉本五郎さんの自宅が火災に遭い、そのカンパを求められたことです。杉本さんはアニ同の創立間もない頃からの顧問格だったそうで、アニ同としてもお見舞いをということだったらしいのですが、当時の私には初めて聞く名前。その日は杉本さん本人は来ておらず、どういう人なのか、何のためのカンパなのかも分からず、言われるままにいくらかのお金を出しました。これが私と杉本さんとの、本人を介さない最初の接点でした。火災は1971年7月のこと。怪我などはなかったそうですが、この火災がどれほど大変なもので、どれほどの貴重なフィルムや資料が失われてしまったのか、当時は知る由もありませんでした。この時運よく焼け残ったフィルムを1コマずつ手で焼き直して修復する執念の作業、またこの火災の原因を巡って始まる長い長い裁判の苦闘については、後に杉本さん自身の筆による『FILM 1/24』の名物連載「フィルムは何故?」の中で「フィルム・コレクターの受難」と題して書き留められており、さらに後、杉本さんの病没後に刊行された単行本『映画をあつめて』(1990年8月、平凡社刊)にも収められています。杉本さんについては様々な思いが渦巻きますが、また後ほど、項を改めて書きたいと思います。

その24へ続く

(08.02.08)