アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その22 大学生活

 進学した学校は最寄り駅が水道橋、地下鉄なら竹橋でした。共立講堂で行われた入学式では、式の後、アルベール・ラモリスの短編映画「赤い風船」が上映されました。生きているかのような赤い風船と少年の交流を描いた珠玉の映像詩です。初見ではありませんでしたが、アニメーションにも通じる万有生命の精神と詩的な映像にやはり心揺さぶられ涙しました。「素晴らしい風船旅行」「フィフィ大空を行く」等、空に魅せられた作品を撮り続け、撮影中に空に散った作家ラモリスは、この時の思い出も相まって、今も好きな映像作家の1人です。
 ほんの数年前、全国的に燃え盛った学生運動は入学時にはすでに下火になっており、学内では少数の生き残りが勧誘活動を行ったりしていましたが、じきに姿が見えなくなりました。あと2年でも早かったら、多分私も学生運動の闘士になっていたことでしょう。ベトナム戦争を通して革命や独立運動、反戦活動にシンパシィを感じていましたから。
 当時はミニスカートの全盛期で、美空ひばりまでがミニで歌い踊っていたものです。それまで女の子は子供のうちは膝小僧丸出しの、ワカメちゃんや、ちびまる子ちゃんがはいているような短いスカート、年頃になったら膝丈、お勤めしたらタイトスカート、という段階的ファッションが世間的に決まっていたのですが、ツィギーの来日が火をつけたミニスカートの流行は、その子供から大人への節目を取り払ってしまいました。私たちの世代は何歳になっても膝上スカートのままで、大人の女性のファッションを身につける機会を失ってしまいました。ちょうどアグネス・チャンがアイドル最先端の頃で、女子大生は皆、ミニスカートの素足にアグネス流の膝下の白いハイソックスをはいていました。髪型もナチュラルなストレートのロングヘアが目立ちました。私も高校までの三ツ編みをほどいて下げ、ブレザーにミニスカート、白いハイソックスの女子大生スタイルでしたが、若いというのは大したもので、膝上10センチのミニでも寒いと思ったことはありませんでした。
 お嬢さん学校という評判のとおり、学内は静かなものでした。授業は高校までと違って、自分でカリキュラムを組むのですが、なるべくまとめて受講できるように組んでみても、教授の都合などによる休講が多いのは予想外でした。
 私は群馬県から高崎線に乗って上野経由で通学していましたが、この高崎線は当時の国鉄で日本一の黒字線と呼ばれるほど混雑を極めていました。幸い私は始発の高崎駅から2駅目からの乗車で必ず座れましたが、途中駅からは2人掛け対面式の座席の人と人の間にまで乗客が押し込まれてくるほどの混みよう、おまけに当時は冷房がなくて天井の扇風機と窓からの風しか涼をとるものがないという状態で、1時限の授業に間に合うように早起きして6時台の列車に乗ってやっと学校に辿り着いても、肝心の授業が休講になっていたりするとガックリしてしまいます。
 それでも、そんな時には念願の神保町の古書店巡りをしたり、竹橋駅そばの洋書店を覗いたり、学内の図書館へ通ったりして有意義に過ごしていました。学校から徒歩で神保町へ行ける立地はやはり快適でした。水道橋への途中にはマンガ雑誌を山積みにして安く売っている店があって、よくそこへ寄っては、それまで立ち読みだけですませていた雑誌を集めたりしました。
 学生は全国から集まっているので、何人かの友人がすぐにできましたが、一緒にお昼を食べに行った時、古本を買い過ぎてしまっていて持ち合わせが少なく、おそば屋さんで私だけがかけそば、などということもありました。
 古書店もありがたかったですが、それ以上に有効だったのが大学図書館でした。一棟丸々の図書館は授業(主に古典文学)の参考図書を探すのにも役立ちましたが、それ以上に、映画関係の雑誌資料を閲覧できたのは大きな収穫でした。「キネマ旬報」のバックナンバーはもちろん、「映画評論」にここで出会いました。森卓也さんの「アニメーション入門」の元になった「動画映画の系譜」の連載や、岡田英美子さんの鋭い批評などを時間一杯読み漁りました。コピー機は、さすが大学図書館というべきか、高校で市立図書館通いをしていた頃よりも随分と進歩していましたが、まだ気楽に使える値段ではなく、また手で書き写せるような量でもなく、各号を暗記するほど熟読し、手帳に何号に何の記事というリストを作りました。
 そういうわけで、私のアニメ観や感想の書き方は、森、岡田お二方の影響を受けています。後にアニドウの会報に感想文を書き始めた頃、岡田さんの書くものによく似ているという指摘を受けたこともあります。自分では無意識だったのですが。
 私はいわゆる女おんなした文章は嫌いなのですが、岡田さんの「映画評論」の文章はキリッとしたところがあって、とても好きでした。横山隆一さん主宰の、おとぎプロで作画をしていらしたという岡田さんの経歴も私と似ているためか、感性の方もどこか通じるものがあると言ったら不遜でしょうか。ずっと後に、宮崎駿さんの『千と千尋の神隠し』で、川に流れる小さな千尋の靴のイメージショットを見て、距離を隔てて岡田さんと私で、異口同音に『雪の女王』の影響を、宮崎さんの種明かしのその前に言い当てたこともあったりします。
 この時、図書館で作ったリストは、後すぐに役立つことになりました。

その23へ続く

(08.01.25)