アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その18 あの頃

 さて、今まで数回を費やして「あの頃のアニメ」について語って来たのは、私にとって「あの頃」が一番純粋にアニメと向かい合って見ていた時期ではないかと思うからです。
 後にアニドウに参加して上映会を開催しながら見るアニメ、またアニメーターとして仕事で接するアニメとはやや違う、勉強や確認のためでもなく、見ておかねばならぬという喜びまじりの義務感からでもなく、全くの個人として、自分のためだけに見ていたアニメたちだからです。
 もちろん、この後に見たアニメ作品からも多大な影響を受けましたし、アニメーションを愛するその姿勢は不変のものではありますが、やはり社会に出る以前に見たアニメ、いや、特撮も含めた映像作品全般、絵画や文学も含めてですが、それらが自分というものを形造る根っこになっていると思うのです。
 思えばよい時代に生まれました。『白蛇伝』こそ間に合いませんでしたが東映長編と共に育ち、TVアニメは草創期からその変遷を体験し、合間に、勃興期ならではの混沌としたTV界のおかげで早くからチェコの短編等にも触れました。ゴジラとの遭遇は「キングコング対ゴジラ」が初体験。この娯楽性豊かなゴジラが最初だったおかげで、後にやや上の世代が失望することになる「シェー」をするゴジラも子供目線で楽しむことができました。思春期には『ホルスの大冒険』「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」がストライク。ベトナム反戦運動のただ中でもあり、それら全てが、ものの見方の根幹を作ってくれました。

 でも、この頃のファンというのは、おしなべて孤独でした。パソコンもケータイもない時代です。現在のようにオタクと呼ばれることこそありませんでしたが、クラスに友人はいても、アニメや特撮の話のできる相手はいないのが大多数だったのではないでしょうか。そして、それゆえに共通の体験、共有する言語を持った仲間を求める気持ちが強かったのです。
 現在と違って資料の類もなきに等しいものでした。DVDはおろか、ビデオデッキも、アニメ雑誌も、とにかく何もなかったのです。そんな中で、何かを残したい気持ちが、以前にも書いたTV画面を元にした手書きの放映リストの作成や、自己流のスクラップブック作りに熱中させ、また、映画館のスクリーンやTVのブラウン管に映る画面のカメラ撮影や、TVの前にテープレコーダーを置いたり、あるいは映画館に持ち込んでの音声録音等の行為に向かわせました。館内での撮影や録音は犯罪行為ですが、当時は誰もそんな認識は持ち合わせてはいませんでしたし、映画館自体もそれを把握してはいなかったようです。だからいいと言うつもりは全くありませんが。後になると、館内の通路に三脚を立てて堂々と8ミリ撮影をする猛者も現れたりもしたものです。
 こうした情報への希求と収集欲、そしてそれらを発表し、同じ思いを持つ仲間と共有し、語り合いたいという欲求が、やがて、ファンサークルの結成、自主上映会の開催や同人誌の発行、といったファン活動へと発展して行き、ファンダムを形成して行くわけです。そして、もう一方の、かつてスクリーンから与えられた感動に見合うだけのものを今度は自分(たち)の手で創造したいという欲求は、やがて自主制作活動の花を咲かせていくことになります。
 これらの活動を支えたのは、コピー機や簡易印刷機、1コマ撮りの可能な8ミリ撮影機の普及といったハード面の発達でした。
 全国に点在するファンが手をつなぐための場となったのは「SFマガジン」や「映画評論」等の雑誌の読者欄でした。サークルの結成を呼びかけ、上映会を告知し、読者欄のわずかなスペースを通して、ファンがつながって行きました。中でも「SFマガジン」が果たした役割は大きかったのではないかと思います。ある年代以上の人間にとって、SFは基礎教養、あるいは通過儀礼のようなものであり、また、少年マンガ誌の読み物や学年誌の付録によってそれと意識せずとも誰でもSFに触れる環境は整っていました。『鉄腕アトム』に始まる初期のTVアニメにSF色が濃いのも大きいかと思います。今でも「これはSFだ!」というのが最大級の誉め言葉として通用する世代は現存します。

 もちろん、私たちはファン活動の第1世代ではありません。私たちの前に、ディズニー・アニメに傾倒し、ガリ版ながら『Fan&Fancy Free』という立派なファンジンを発行し続けた、森卓也、渡辺泰、岡田英美子さんらのサークルがあります。時期的に、この方々は、手塚治虫を神様と崇めてトキワ荘に集った若きマンガ家たちとつながっています。しかし、当時の私(たち)は、それら先人の活動を知りませんでした。
 私(たち)がそろそろと手をつなぎ出したのは、『宇宙戦艦ヤマト』によって爆発的なアニメブームが起こる、はるか以前のことでした。

その19へ続く

(07.11.16)