アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その100 杉本五郎さんのこと

 本連載もいつの間にか100回を迎え、記念に「1/24」を巡る人々について書いてみようと思います。まずは大恩ある杉本五郎さんから。
 私と杉本さんの出会いは東京アニメーション同好会(略してアニ同)という名称だった頃のアニドウを通してです。以前にも書いたと思いますが、私が新宿の漫画喫茶コボタンで開かれていたアニ同の集会に通い始めて間もないある日、カンパの箱が回ってきて、訳も分からないままにお金を入れた、それが杉本さんのご自宅の火災見舞いだったのでした。その当時、杉本さんは大宮に住んでおられ、貸本屋を営みつつフィルムの蒐集に励んでいた、そのコレクション約2万本を不審火によって焼失したのです。災難の直後でしたから杉本さんはしばらくアニ同に顔を出すどころではなく、直接お会いしたのがいつのことになるのかはよく覚えていません。逆に杉本さんの方からの当時の私の第一印象と思われるものが「1/24」第27&28号の杉本さんの連載「映画フィルムはなぜ? 第16回アニドウ草創の頃」に書かれているので引用してみます。1971年の全国総会静岡大会でのことです。「公園で記念写真を撮った時、真丸顔の可愛い女子中学生が目についた。『こんな子を泊りがけの旅行に一人で参加させても良いのだろうか、やはり時代が変ったんだな!』と思った。ところが何と、この子が実は女子大生で、現在1/24の編集長になろうとは夢にも思わなかった。不明の至りである」。火災が7月、全国総会が10月ですから、これが杉本さんとの最初の出会いだったのかもしれません。
 杉本さんといえば真っ先に思い出すのはその笑顔です。温厚な方で声を荒げるような場面にはついぞ出会ったことがありません。嘘と不正を嫌い、偉ぶることも相手を見下すこともなく、誰に対しても誠実に同じ態度で接してくださる。これは、自分が歳を重ねて分かったことですが、とても難しいことです。
 そしてその膨大な知識。映画の歴史、アニメの制作法、フィルムや映写機の仕組み等々についての知識は汲めども尽きず、「1/24」はもとより「アニメージュ」等のアニメ誌に発表された文章に披露されていますが、それとても知識のほんの一端に過ぎず、63歳での早過ぎる死が惜しまれてなりません。雑学・薀蓄ブームの現在、杉本さんのような方こそが時代に求められていると思うのです。しかもその知識の全てが飽くなき探究心に基づく幼い頃からの実践によって身につけた生きた知識であるのがすごいところです。
 カメラもお好きで、上映会の後の喫茶店等で小型カメラで誰彼構わず撮影していたのを思い出します。カメラを向けられて私が恥ずかしがって手で口元を覆ってしまうと「ああ、また顔を隠しちゃった」とニコニコしながら言っておられたものです。アニ同にもカメラ好きは多く、新製品について嬉しそうに情報交換する姿は歳の差を感じさせない少年のようですらありました。ご存命だったらデジカメやケータイ写メをどんなにか喜んで使われたことだろうと思います。
 フィルム・コレクションの始まりはアニメを自作するための動きの研究用とのことですが、そんな杉本さんとフィルムの出会いは幼い頃、浅草で父上にオモチャの映写機とフィルムを買ってもらった時に遡ります。それは木村白山の『凸ちゃんの太平洋横断』だったそうですが、以来、古道具屋巡りをしては様々なフィルムを買い集めていたそうです。アニメ制作を夢見る杉本少年は膜面を洗い落として透明にした古フィルムに直接ペンで絵を描き色を塗る、今で言うダイレクト・アニメーションや、ポジの工程を省略するために白黒逆の絵を描いて撮影する等、試行錯誤を繰り返していたと聞きます。豊富な知識もそうした中で身につけたのでした。そんな杉本さんの夢の結晶である自作アニメは『千代紙と少女』(1967年、16ミリ、カラー)をはじめ数本が知られており、来日中のノーマン・マクラレン氏にも進呈されたそうです。
 生活の全てを切り詰めてフィルム代に回す杉本さんの情熱は日本一のフィルム・コレクションとして形をなしていきますが、第2次大戦の東京大空襲をはじめ、三たび災難に遭いながら、そのたびに不死鳥のごとく甦ってきたのでした。それも単に買い直すのではなく、かろうじて焼失を免れたものの熱によるダメージを受けたフィルムを1コマずつ自分の手で焼き直すという想像を絶する努力によって。また買い直そうにも杉本さんの元にしかない貴重なフィルムも多かったのでした。杉本さんはフィルムを通して文化そのものを守ったのです。
 貸本屋の収益や記録フィルムの貸し出しで得た報酬によって生計を立てつつ、貴重なフィルムをアニドウをはじめ全国のサークルに無償で提供してくださるばかりか、全国総会等では自ら映写機を回し解説をしてくださる杉本さんに私たち皆がどれほどの恩恵を被ったことでしょう。映像ソフトも録画機器もなかった時代、森卓也さんの「アニメーション入門」や「別冊小型映画」を隅々まで読み覚えた作家と作品、そしてそれ以上のものを目の当たりにできた幸せ。私を、そして多くの同好の士をアニメーションの広大な海へ導いてくれたのは杉本さんの存在でした。それはアニメーションだけでなく、イカモノゲテモノのB級映画にも及び、随分と楽しい日々を過ごさせていただきました。どんなに感謝してもしつくせるものではありません。
 大宮での火災の後、杉本さんは東京都下福生市に移り、元米軍ハウスを自宅兼大日本フィルム社の事務所として助手の金子さんと共に住んでおられました。アニドウ時代、そのお宅には数え切れないほど通ったものですが、室内はどこもかしこもフィルム缶で溢れ、訪問者は大抵入ってすぐの部屋のソファで杉本さんが次々とかけてくれるフィルムを見ながら話をしたものです。部屋の奥がどうなっているのか足を踏み入れることも躊躇われる状態でした。新しいフィルム、探し求めていたフィルムを入手した時の会心の笑み、どうしようもないトンデモ映画を見せてくれる時の悪戯っぽい笑顔。終始にこやかに、アニメに限らず映画の予告編やニュース映像も含め、次々とまるで魔法のようにフィルムを取り出しては見せてくれる杉本さんとの時間はきらめくような光に包まれて甦ってきます。米軍基地が近いためかコーラが常備されていて来客はお相伴に預かり、冬にはお燗したホット・コーラが出てきたという話も聞いたことがありますが、幸か不幸か私は出会っていません。
 私がアニドウを離れ東京を離れても杉本さんとは年賀状を通した交流が続いていました。ところが1987年にいただいた年賀状にはベッドに横たわった自画像と体調がよくないことが綴られていました。その頃広島に住んでいた私は、気にかけつつも日は過ぎ、6月に訃報を知ることとなったのです。その年の帰省の折、片山雅博さんの案内で浅草の菩提寺を訪ねご冥福を祈るのが精一杯でした。死因は難病の再生不良性貧血。杉本さんが貸本マンガ時代からの水木しげるさんと親交があり、そのマンガの吸血鬼のモデルになっていることは知られていますが、吸血鬼のモデルが貧血で亡くなるなんてできすぎだと何とも言いがたい理不尽な思いを抱いたものです。吸血鬼の他にも水木さんの自伝漫画に、杉本さんが巨大な戦艦のプラモデルを抱えて水木さん宅を訪れるシーンがあり、去年のNHKドラマ「ゲゲゲの女房」にもそのような場面があるのではないかと期待していたのですが残念にもそれはありませんでした。杉本さんにとっては大宮の火災を巡る長い裁判が全面勝訴で決着し、これから本腰を入れてコレクションの再開をと張り切っていた矢先だけに、志半ばの早過ぎる死が悼まれてなりません。
 杉本さんの逝去に際し「アニメージュ」では1987年11月号で追悼小特集が組まれました。また「1/24」等に発表された文章を編纂した「映画をあつめて これが伝説の杉本五郎だ」が1990年に平凡社から出版されましたが、その「伝説の杉本五郎」が全く別の形で甦ったのはやや後のことです。
 1997年、サブカルチャーブームの中で、かつて杉本さんが、つゆき・サブローの名で発表した貸本マンガ等が「寄生人」のタイトルで太田出版のQJ選書の1冊として刊行されたのです。この本は著者謹呈として贈っていただきましたが、正直言って私にはショッキングなものでした。収録マンガ「寄生人」「ミイラ島」のグロテスクな陰惨さ(それは発表当時の貸本マンガのひとつの傾向でもありましたが)はもとより、白夜書房刊『HEY!Buddy』1985年9月〜11月号掲載のロング・インタビュー再録の内容と誌面は、フィルム・コレクターとしての杉本さんしか知らなかった私には衝撃でした。杉本さんのもうひとつの名前である、つゆき・サブロー氏の嗜好については、さーくる社から「アンティック少女写真館」という単行本が没後に出版され公になっていたようですが、当時東京を離れ交友関係も限られていた私には知る由もなかったのです。結局「寄生人」は全部を読むこともなくカバーをかけて本箱の奥に封印してしまいました。今回この原稿を書くにあたり十数年ぶりに手に取ったのですが、その間の歳月は私に全てを受け容れる余地を与えてくれていました。
 さらなる衝撃は2005年に訪れました。青林工藝社の雑誌「アックス」掲載のマンガ「JUKU ジュク」がそれです。これは清水おさむさんの自伝的マンガで、その流星編(3)(4)にマンガ家を目指す主人公の少年がコボタンで杉本五郎と名乗る人物に会い、アニメーターになることを勧められ下請け作画プロダクション数社の実名が書かれたメモを渡されるシーンがあるのです。「コボタンで出会った怪人」「いろんな肩書きを持ってる伝説の中の伝説漫画家(?)」とあり、デフォルメされた杉本さんが描かれています。作者独特のタッチによる描写はかなり強烈で、3本黒く塗り潰された前歯、テカテカのオールバックの髪、終始まとわりつく「ぬお ぬおおっ」という擬音……当時、杉本さんを知る者に大きな衝撃の輪が広がったものです。「JUKU」は2006年に同社から単行本が出版されました。主人公の水町努少年が楠村大市郎なる人物が社長を務めるレオプロに入社しアニメーターとして各社を転々とする様もマンガ的誇張を交えて描かれています。
 没後も次々と私を(我々を?)驚かせてくれる杉本さん。いつか天国で再会したら、あの悪戯っぽい笑みで迎えてくれるのではないでしょうか。水木しげるさんの家へ大きなプラモデルを持って現われ「驚かそうと思って」と笑った、あの笑顔でもって。

その101へつづく

(11.02.04)