アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その2 TVが来た

 1953年(昭和28年)、NHKがTV放送を開始しました。受像機の一般家庭への普及は1959年の、当時の皇太子殿下と正田美智子さんのご成婚が大きな契機になりましたが、我が家は、親戚の家が電化製品の小売店を営んでいたおかげで、比較的早くTVが入りました。当時のTVは四つ足で、チャンネルは丸い手回し式。しばしば映りが悪くなっては角を手で叩いて直したものです。当時はTVのある家にTVを見せてもらいに行くという、今では考えられないような交流があって、地域社会の結びつきが濃厚だったことの一例でもあるのですが、我が家でもそれは同様。夏ともなるとガラス障子を開け放ってTVを外に向け、庭に集まった近所の人たちと一緒に怪談やプロレスを見たものです。
 この頃のTV番組で印象的だったのは、日本テレビ系で放送していた「ディズニーランド」です。プロレス中継と交互に隔週放送という形で、小学生だった私は、「ディズニーランド」のある日だけは遅くまで起きていてもいいことになっていました。ウォルト・ディズニー本人が司会を務め、ティンカーベルが案内する4つの世界をワクワクして待ちました。ディズニーの長編は映画館でも上映されていましたが、「ディズニーランド」の中で紹介される、まだ見ぬ諸作品は本当に楽しみで、『イカボードとトード氏』の中の首なし騎士のショックや、ウォード・キンボールが腕を奮った『火星とその彼方』のシュールな映像など、今も鮮やかに記憶に焼きついています。
 一方、NET系では大丸デパートをスポンサーに1963年11月から、『白蛇伝』から『わんぱく王子の大蛇退治』までの6本の東映長編を30分ずつ3〜4回に分けて放映しています。『西遊記』の天竺到着シーンでの孔雀が艶やかに羽根を広げるカットをタイトルバックにした、この「大丸ピーコック劇場」は、シネスコ版は両端カットという形での放映でしたが、それでも映画館で1回しか見られなかった長編がTVで見られることがとても嬉しかったのです。この年の1月からはすでに虫プロの『鉄腕アトム』の放送が開始されて高視聴率を獲得しており、10月からは『鉄人28号』、11月からは『狼少年ケン』が放送開始。その11月に放送された「大丸ピーコック劇場」は、時代の主流がやがてTVアニメに移って行くことの予兆だったのかもしれません。
 1964年4月には東京12チャンネルが開局。関東ローカルのこの局が後にテレビ東京として『新世紀エヴァンゲリオン』を筆頭に意欲作を次々と送り出すアニメの先鋭局になるとは予想もできませんでした。開局直後の同局は自社制作よりも安い海外番組などを買いつけて放送することが多かったようですが、その中に1本、『プラハの夢』という番組がありました。チェコスロヴァキア(当時)のアニメ作品を、短編も長編も構わずコマ切れにして女性ナレーターの子供向けナレーションをつけて流すという、今にして思えば乱暴な作りの番組でしたが、ここで触れた東欧作品の豊かなイマジネーション、人形アニメーションなど多彩な表現方法に私の心はとらえられ、深く引きつけられました。ずっと後になって目にした世界のアニメーション作品を紹介する洋書のスチルのいくつもに見覚えがあったのは、この番組のおかげですし、私がアニメーションの中でもことに人形アニメに心惹かれるのは、この時の体験が大きいのです。
 自分の好みの範囲を固定せずに様々な作品にまず触れることで、世界は広がるのです。幸い現在は劇場公開作品だけをとっても、セル(調)アニメ、3DCG、クレイ……と様々な表現の作品が混在する時代を迎えていますので、ことさらに言うことでもないとは思うのですが。

その3へ続く

(07.02.23)