アニメーション思い出がたり[五味洋子]

その3 TVアニメ時代、始まる

 1963(昭和38)年1月、フジテレビ系で『鉄腕アトム』の放送が始まりました。長年アニメーションに憧れ続けた手塚治虫氏が興した虫プロダクションで、自身のマンガを原作に週1回放送の30分番組に仕立てたものです。TV放送のアニメは『アトム』以前にもありますが、やはり『アトム』の登場こそが、TVアニメという新しい歴史の扉を開いたと言えるでしょう。
 私は、TVの『アトム』より以前、よその家で月刊誌『少年』連載中の「鉄腕アトム」のマンガに出会うや否やすっかり魅せられ、翌月から早速『少年』を予約購読するようになっていました。
 余談ですが、私の生まれ育った町は昔も今も1軒の書店もありません。書店ばかりか、駅も映画館もスーパーもなく、本や雑誌を手にするにはバスで離れた市内まで行かなければならないのですが、両親が町で唯一の大企業、日本火薬(現在は日本化薬)に勤めており、社内の購買部で雑誌の月極購読ができたのです。後に発行された光文社の『カッパ・コミクス』は市内に出かけるたびに書店で買ってもらいました。『少年』はその後休刊するまでずっと購読し続けましたが、私は『鉄腕アトム』、3つ違いの弟(富沢雅彦)は『鉄人28号』が一番のひいきでした。

 さて、TVアニメのことを大塚康生さんが「省セルアニメ」と表現しておられるように、『アトム』は製作費を抑え短期間で仕上がるように作画枚数が少ないのですが、それでも当時の自分は、特にちゃちだとも思わずに見ていたような気がします。TVアニメという言葉はまだなく、テレビマンガと呼ばれ、新聞等でテレビ紙芝居と揶揄されているのも知っていましたが、例えば、人物が止め絵のスライドで画面に入ってくるのを見ても、これはそういうものなのだと思って見ていたのでしょう。もっと年長の、芸術的感受性に優れた子供だったらまた別の受け取り方をしたのかも知れませんが。あるいは、当時の虫プロには東映動画から移籍した人材も多く、全体としては枚数が少ないものの、動くべきところは動かしていたため、印象としてはそう悪くなかったのかも知れません。
 今、TVの『鉄腕アトム』を記憶だけで思い返してみると、ストーリーはむしろ手塚氏の原作マンガがまず思い起こされる中で、TV独自のものとして印象に強く残っているのは、アトムを演じた清水マリさんらの声と、高井達雄さんの作曲による主題歌、そして音響の大野松雄さんがつけたユニークな効果音の数々……つまり、アニメとマンガの決定的な違いである、時間の固定(マンガは読者がコマやページを読む速度を自由にコントロールできるが、アニメは全体の長さから各カットまで全てが作り手の管理下にある)、動き(アニメート)、色彩の有無、音(セリフ、音楽、効果音、等)の各要素のうち、取り分けこの「音」の要素が秀でていたと思うのです。
 中でも大野さんが、シンセサイザーもまだない当時、開発されたばかりというテープレコーダーを駆使して作り上げた効果音の数々。キュピキュピというアトムの足音や、敵が登場した時のグワッキーン! という音などは子供同士でアトムごっこをする時にも口にしていたほどです。
 30分番組としてのTVアニメの演出的方法論がまだ確立しておらず、アニメートの技術力も充分とはいえない中で、この音響面での収穫はそれらをカバーするに十二分だったのではないでしょうか。
 そしてこれは、それまでの劇映画的にナチュラルな東映長編の作りとの決定的な違いといえると思います。手塚氏のストーリーマンガを原作にした『鉄腕アトム』のドラマ性こそがアニメを発展させ、やがてはANIMEとして世界に通用するものにまで育てたという見方に対して私は全面的には組しません。なんとなれば東映長編の第1作『白蛇伝』には、ヒロインの愛ゆえの葛藤と、変身美少女の戦いというドラマがすでに存在しているのですから。
 『鉄腕アトム』や『鉄人28号』の持つ、耳に染みつくようなビビッドにマンガ的な「音」こそが極初期のTVアニメを導いたのではないかと、私は思うのです。優れた効果音や声優の存在が、隣の部屋で音だけ聞いていても話が分かる、などと悪口を言われながらも、やがて、その音響面の高さに見合うだけの内実を備えていったのではないかと。

 実はこの頃、『アトム』の放送に先立つ1960年には、久里洋二、柳原良平、真鍋博さんらの「アニメーション三人の会」が発足、草月ホールで上映会を開き、現在につながる日本のアニメ作家の活動が始まっていました。TVで『鉄腕アトム』を始めた手塚氏自身も『アトム』以前に虫プロの第1作として詩情あふれる長編『ある街角の物語』を作っており、一方、マンガ家の横山隆一さんが、おとぎプロを立ち上げて快作『プラス50000年』(1961年、監督は鈴木伸一さん)を発表するなど、日本のアニメシーンに大きな流れが起こっていたのですが、私がそれらを知るのはまだまだ先のことだったのです。

その4へ続く

(07.03.09)