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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第55回 エヴァ雑記「第弐拾弐話 せめて、人間らしく」

 『エヴァ』の次回予告と云えば、ミサトの「この次も、サービスサービスゥ!」のフレーズが印象的だが、実はこのフレーズが使われているのはシリーズ中盤までだ。OAフォーマット版では第拾六話についた第拾七話の予告が、ビデオフォーマット版では第拾七話についた第拾八話の予告が最後だ。TV番組が視聴者にサービスをするのが当たり前だというスタンスならば、わざわざ「サービス」とは云わないだろう。「サービス」と云っているのは「来週もサービスするけれど、その次は分からないよ」という意味でもある。第弐拾壱話に始まる第4部や、ラスト2本の予告では一度も「サービス!」とは云っていない。物語がよりハードになり、もはや、サービスをやっている場合ではなくなっているのだ。観ている側としても、この第弐拾弐話や、レイが爆死する第弐拾参話を「サービス!」と云われても困るだろう。

 「第弐拾弐話 せめて、人間らしく」では「人形」がモチーフとなっており、その言葉や姿が何度も出てくる。アスカの母親は、人形を自分の子供だと思い、父親は、人間と人形の差は紙一重だと云う。そして、その不倫相手の女医は、人間も神を模して作られた人形かもしれないと語る。アスカはレイを機械人形だと云い、レイは自分は人形ではないと応える。また、アスカは彼女が人形でしかないと思っている弐号機に向かって、まるで人間に話すように話しかけてしまう。そして、明らかになる彼女のトラウマ。アスカの母親は、幼い彼女を道連れにして死のうとした事があった。その事から、アスカは母親を忘れる為に、母親の人形ではなくなろうとした。自分で考え、自分で生きる人間になろうと決意した。その想いが現在の彼女を作っているのだろう。レイの事を「昔から大嫌いなのよ」と云っているが、彼女が昔からレイの事を知っているわけがない。昔から嫌いなのはレイではなく、人形のように生きる人間なのだ。それは過去の自分でもある。
 精神に直接攻撃を仕掛ける第15の使徒は、そんなアスカの内面を暴き、精神を犯す。更にレイに助けられてしまって、彼女のプライドはズタズタとなった。しかし、悲しみを知っている彼女には、まだ心がある。どんなに悲しんでも、自分で考えて行動している間は、人形ではないのだ。サブタイトルの「せめて、人間らしく」とはそんな意味なのかもしれない。アスカが精神攻撃を受けるシーンで使われた楽曲は、ヘンデルによって作曲された「メサイア」。イエス・キリストの生涯を題材とした合唱曲であり、聖書から歌詞を採っている。連呼される「ハレルヤ」は「主を褒め讃えよ」の意味。神が人の罪を裁くかのように、第15の使徒はアスカの心を暴いたのだ。

 アスカのシンクロ率は下がり、リツコは弐号機に別パイロットをあてがう事を考える。ミサト、シンジ、アスカの共同生活はギスギスしたものとなり、ミサトは3人で暮らすのも限界ではないかと呟けば、リツコは「楽しかった家族ごっこもこれまで?」と嫌味を云う。生理の痛みはアスカを更に苛つかせる。教室にはシンジ、レイ、アスカの姿はなく、ケンスケは「学校どころじゃないんだな、今や」と独り言つ。それは作り手の言葉でもあるのだろう。ビデオフォーマット版の第弐拾壱話に付いた予告ナレーションに「過酷な現実が、人々の心をばらばらにしていく」というフレーズがある。第2部で一度ピークに達した「人の和」が、第3部を経て、ここから一気に崩壊していくのだ。第4部のザラザラした乾いた質感は、それはそれで心地よい。
 第15使徒の出現を知ったアスカは「使徒? まだ来るの?」と云う。「まだ」というのが面白い。設定的にはあれ程に強い第14使徒を倒したのに、まだ次の使徒が来るのかという意味なのだろうが、彼等が人間関係や自分の事に手一杯で、もう使徒の事など気にしている場合ではないという意味にもとれる。

 ビデオフォーマット版では、内的宇宙に於ける葛藤を中心にアスカの描写が大量に増え、彼女の内面への踏み込みがより深いものとなった。作り手のアスカに対する姿勢は、明らかにサディスティックだ。『DEATH』の最初のバージョンにあった、少しずつ違った人格のアスカが登場する悪夢の様な場面(三石琴乃、林原めぐみ、長沢美樹、山口由里子、岩男潤子がアスカを演じている)も、ここで使われている。
 内的宇宙でシンジへの想いが描写される部分で気になる描写があった。第九話で彼女が襖を閉めた次のカットは、新作画で閉めたポーズのままうなだれる彼女。第拾伍話でシンジとキスした後は、これも新作画で洗面台でうがいをした後の沈んだ表情のアスカ。第九話では隣の部屋に行く事でシンジを拒絶した事を、第拾伍話では遊びで口づけをした事を後悔しているのだろう。その部分で被る彼女の台詞は「何もしない! 私を助けてくれない! 抱きしめてもくれないくせに」。つまり、彼女は第九話で一緒に一夜を過ごした時や、キスをした時に、シンジに積極的なアプローチをしてほしかったのだ。だが、彼は常に受け身だった。唇を重ねた時にも抱きしめてはくれなかった。それも彼女の心を傷つける理由のひとつになったのだ。ビデオフォーマット版の第22話を観てから、第拾伍話のキスシーンを観直すと、随分と違ったものに見えるはずだ。

 「第弐拾壱話 ネルフ、誕生」「第弐拾弐話 せめて、人間らしく」「第弐拾参話 涙」「第弐拾四話 最後のシ者」の4本は、LD&ビデオ化の際に作画リテイクが行われ、新作シーンの追加もなされている。その、手が入れられたバージョンは、現在では「ビデオフォーマット版」と呼称。それぞれOAフォーマット版と区別する為に第21話、第22話、第23話、第24話と話数をカウントしており(同様に劇場公開された「Air」と「まごころを、君に」は、TVの第弐拾伍話、最終話と区別する為に、第25話、第26話とカウントされている)、リリース中のDVDソフトでは、OAフォーマット版とビデオフォーマット版の両方が収録されている(OAフォーマット版もTV放映したものと同じではなく、作画リテイクが入っている話数があるのが複雑だ)。この第22話はシーンの追加によって、最も印象が変わった話数だ。
 ビデオフォーマット版は画も綺麗で、内容も盛り沢山。設定的な説明も増えている。いわば、ファンに対するサービスを加えたバージョンだ。だが、OAフォーマット版の方が無駄がなく、フィルムに「しまり」がある様に感じる。当たり前の話だが、サービスをしている方が、完成度が高いとは限らないのだ。

 前述の別人格のアスカもそうだが、この話には異色の表現が多い。アスカとレイがエレベーターに乗っているカットはほとんど動きがなく、50秒間の沈黙が続く。視聴者に緊張感を与える演出だ。超ロングショットの止め画で、ミサトと日向が会話を続けるカットも異色。この話についた次回予告は、本作の制作に使われたレイアウト1枚をカメラワークで見せるのみ。今までも内的宇宙の描写で前衛的な表現があったが、この話ではドラマにも織り込まれている。こういった通常のアニメの文法から外れた語り口が、やがて第弐拾伍話、最終話に繋がっていく。


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■第56回 エヴァ雑記「第弐拾参話 涙」に続く


(06.06.16)

 
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