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COLUMN
アニメ様の七転八倒[小黒祐一郎]

第26回 美空ひばりと脚本や演出の評価

 例えば、お婆ちゃんが美空ひばりの歌を聞いて、その歌詞に感心して「ひばりちゃんは、いい事を言うよね」と言ったとします。それに対して「いや、歌詞を書いているのは美空ひばりじゃないよ。作詞家だよ」なんて理屈っぽい事を言う人がいますよね。あれ、いないですか? 僕だけですか? まあ、いいです。そういう人がいるという事にして話を進めます。

 作品を評価する時に「脚本が上手い」とか「演出がいい」とか言う事がありますよね。学生時代に友人が、あるアニメ作品について「演出の詰めが甘い」と評した事があって、その言い方が格好いいなと思った。だけど、自分はそういう評価の仕方は苦手なんですよ。「脚本が上手いって何?」とか「演出の詰めってなんだよ!」と思ってしまう。
 話がよくできている場合や、見せ方が上手な場合があったとして、それがどこまで脚本の力なのか、演出の仕事なのかは、外部からはなかなか分からないじゃないですか(いや、内部にいてもよく分からないかも)。前回、どこまでが脚本家の仕事か一線は引きづらいと書きましたが、演出だってよく分からないとこがある。例えば、ある小道具を使って、ひとつの場面を上手く見せたとして、それは本当に演出の仕事なのか。ひょっとしたら、それは脚本に書かれていた事かもしれない。盛り上げようとしているのに、上手く盛り上がっていない話があったとして、それは演出の詰めが甘いのか。ひょっとしたら脚本が上手くいってないのかもしれない(脚本を決定稿にするのも、広い意味での演出の仕事だとすれば、演出の詰めが甘いとも言えますが)。キャラクターの小芝居が効いていたとして「お、いい演出だ」と思ったけれど、実はそれがアニメーターが作画段階で膨らませたもの、なんて事もある。そういう事を考え始めると「脚本が上手い」とか「演出の詰めが甘い」とか安易に言っていいのかな、と思ってしまうんです。我ながら神経質ですね。

 でも、最近はちょっと考え方が変わってきました。つまり、そういう風に作品を論じる時の「脚本」とか「演出」は、具体的な脚本家の仕事、演出家の仕事の事ではなくてもいいのだ。脚本どおりかどうかは別にして、話については「脚本」、ひょっとして脚本に書かれていた事だとしても、あるいは作画のアドリブだったとしても見せ方については「演出」と言うのはアリかなと。演出家の手柄かもしれないけれど、話やセリフがよければ「いい脚本だ」、全てが演出家の仕事かどうかは分からないけれど「いい演出だ」と言っていいんじゃないの。その全てが脚本家なり、演出家なりの手柄だと決めつけたりしなければ。
 つまり、ひばりちゃんの歌ですよ。美空ひばりだって、自分が気に入らない歌は唄わないでしょう。作詞家だって、ひばりに唄ってもらおうと思って作詞したに違いない。何よりも、ひばりが唄ったから、お婆ちゃんの心にその言葉が届いたわけです。だったら「ひばりちゃんは、いい事を言うよね」でいいんじゃないの。脚本や演出を語るときも、そのくらいの大らかな気持ちでいいのかもしれない。厳密にどこまでが誰の仕事かを気にしていると、アニメを観たり語ったりする事が、豊かな行為でなくなってしまうような気がする。だから、誰かが「このアニメは、演出の詰めが甘い」と言っても、それは違うんじゃないの! と突っ込んだりはしないようにします。

 ただ、自分の仕事としては別ですよ。
 僕は、誰が何をやったのかが気になる人なので、やっぱりその辺りを追求したいわけです。

 

■第27回へ続く

(06.03.16)

 
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