アニメ様365日[小黒祐一郎]

第176回 大学には入ったけれど

 1年間の浪人期間を経て、僕は、1984年4月に大学生になった。ここまで書いてきたように、浪人時代にも浴びるようにアニメを観ていた。バイトもしていたし、あろう事か同人誌作りの真似事までしていた。よくもまあ、合格できたものだと思うが、とにかく都内のあまり有名でない私立の大学に入った。文学部哲学科という、就職にも、実生活にも役に立ちそうもない学科だった。今回はサークルの悪口みたいな事を書くので、学校名は伏せておく。
 話は前後するが、当時、早稲田大学に早稲田アニメーション同好会というサークルがあった。そのサークルの初期メンバーには望月智充がおり、当時は原口正宏がいた。彼ら以外にも、大勢の猛者が集っており、驚くくらい充実した研究同人誌を作っていた。後の言葉で言えば「濃い」サークルだった。そこが作った出崎統研究本は、現在に至るまでの全ての関連書籍の中で、もっとも出崎統についての詳しい資料だろうと思う。僕は浪人時代に、早稲田アニメーション同好会の同人誌を読んでおり、自分も大学に入ったら、彼らに負けないくらい濃い活動をしたいと思っていたものだ。僕の偏差値では早稲田には入る事ができなかったが、どの大学にも濃い連中はいるだろう。入った大学のサークルで研究活動をしようと思っていた。この原稿を書いていて気がついてたけれど、当時の僕は「研究」がやりたかった。
 ところが、僕が入った大学には、なんとアニメ研が存在しなかった。近しいサークルとして、SF研究会があった。「うちはアニメもやっているよ」とサークルの先輩に言われた事もあり、SF研究会に入ってしまった。SFも嫌いではなかったし、そこそこ小説も読んでいたので、SF研究会も悪くないと思ったのだ。ところがそのサークルはヌルかった。アニメについては専門でないのだから、アニメにヌルいのは仕方ないにしても、SFに関してもヌルかった。いや、先輩達は、僕よりもSFに対して造詣が深かったのだろうし、情熱もあったのかもしれない。見えないところで、濃い活動をしていたのかもしれない。だが、僕の目には熱心に研究をしている風には見えなかったし、一所懸命に創作をやっているようにも見えなかった。単なる仲良しサークルだった。アニメにしてもSFにしても、趣味でやる事なのだから、仲良しサークルであっても構わないのだが、僕は馴染めなかった。今でもあまり変わらないが、当時の僕は、時間をかけてネチネチと調べたり、手間をかけて何かを作っていくのが好きだった。それがとても価値がある事だと思っていた。自分独りでやるのには限界がある。大学に入って仲間が増えたら、早稲田アニメーション同好会のような、スケールの大きな活動ができるのではないかと思っていたが、それは叶わなかった。SF研究会は、最初の1年で辞めてしまった。
 サークルがつまらなかった事だけが理由ではないけれど、僕はあまり学校に行かない劣等学生になった。本を読んだり、ビデオを観たりするのには熱心だったが、勉強にはあまり興味が持てなかった(通っていた大学で、映画史家の四方田犬彦が外国語の授業をもっており、それは刺激的だった。外国語と関係ない、映画や芸術についての話が面白かった)。大学生になっても、東映動画のアルバイトは続けていたし、同人誌活動も続けていた。友達が雑誌ライターの卵になり、その前後に僕は、ライターの池田憲章と知り合いになった。ジワジワとアニメマスコミが身近なものになっていった。大学在学中にVHDのビデオマガジン「アニメビジョン」で構成を担当するようになった。「アニメージュ」に関しては、1986年に編集部に出入りするようになり、1987年には1人で記事を担当するようなった。
 一時期は東映のバイト、アニメビジョン、アニメージュを掛け持ちしていた。アニメビジョンやアニメージュの仕事は、熱中してやった。アニメビジョンの仕事は、急に呼び出される事が多かったので、ポケベルを持たされた。当時のポケベルは、ビデオのリモコンくらいある巨大なものだった。大学で授業を受けている時に、ポケベルで呼び出されて、打ち合わせに走るような事もあった。朝までアニメージュ編集部で仕事をして、徹夜明けで東映に行く事もあった。結局、大学は卒業できなかった。後になって、ちゃんと卒業しておけばよかったと思ったが、当時はアニメの仕事が面白すぎで、学校どころではなかった。

第177回へつづく

(09.07.28)