アニメ様365日[小黒祐一郎]

第2回 「マンガ少年」

 アニメージュが創刊されるのが1978年。「月刊OUT」が創刊されるのが1977年。その前に「月刊マンガ少年」があった。
 「マンガ少年」が創刊されたのは1976年夏。僕が小学6年生の時だ。創刊号を店頭で見つけた時の事はよく覚えている。それまで知っていたどの漫画雑誌とも比較にならないくらいマニアックな雑誌だった。初期の連載タイトルを並べると、手塚治虫の「火の鳥」、桂真佐喜と石川賢の「聖魔伝」、松本零士の「ミライザーバン」、竹宮恵子の「地球へ…」、石森章太郎の「サイボーグ009」、永島慎二の「少年期たち」、ジョージ秋山の「戦えナム」、吾妻ひでおの「美美」。さらに新人作家として、ますむらひろし、高橋葉介達が活躍。読み切りも充実。SFマンガが多いのが嬉しかった。読み物連載としては、名セリフをきっかけにして古今東西のマンガを紹介しまくる、みなもと太郎の「お楽しみはこれもなのじゃ」。この連載は傑作で、僕は随分読み込んだ。
 その「マンガ少年」でアニメ特集が連続して組まれていた。最初が1977年1月号(発売は1976年12月6日)。特集タイトルは「特集 テレビアニメ この素晴らしい世界」で1色9ページの記事。若者の娯楽としてアニメを取り上げたものを、僕が目にしたのはこれが最初だった。最初の見開きは「女の子はくびったけ!! その人気の秘密」で、女子中・高校生に『海のトリトン』が人気を集めているというもの。続けて声優を取り上げた記事、過去のヒット作を取り上げた記事と続き、最後の見開きが「宇宙戦艦ヤマト そのすべて」。『宇宙戦艦ヤマト』について、スタッフに恵まれた作品だと紹介しつつ「しかしテレビシリーズのワクから脱しきれたわけではなく、予算と時間の余裕というアニメにはなくてはならぬものが、欠けていたようだ」と辛口の目線が入っているのが凄い。その後で「残念にも、画面にはゴミやキズがあらわれていて、ムードもへったくれもなくなってしまう所が、大変おしかったが(略)」とあるので、そういった制作的なアラについて言っているのだろう。この『宇宙戦艦ヤマト』の記事には、松本零士直筆絵コンテ、デスラーの原画と思しいものも掲載されているマニアックさ。読み返すと、記事の書き手が、この時すでにアニメの質の低下を憂いていたり、『トリトン』ファンの女の子達がキャラクターにだけ興味があるらしいのに対してやや否定的であったりするのが面白い。脚本家の辻真先が、この特集でパイロットフィルムについてのコラムを書いているのにも注目したい。後に彼は、アニメの各種出版物でも活躍するのだが、この時にすでに業界とファンの橋渡し役となっているのだ。クレジットでは、この特集を構成したのは、グループピピというチームになっており、協力に「季刊ファントーシュ」の広瀬和好の名前がある。「季刊ファントーシュ」は1975年に創刊された日本初のアニメ誌だが、僕がその存在を知るのは後の事だ。
 「マンガ少年」は同1977年5月号で「テレビアニメこのすばらしい世界PART‐II」を掲載。今度は『宇宙戦艦ヤマト』のみの特集だ。ここから構成を広瀬和好が担当している。8月号に第3弾が掲載され、11月号から「アニメーションワールド」のタイトルで連載となる。個々の記事の情報量が豊富で、僕はかなり刺激を受けた。1977年夏に劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が公開されるのだが、その情報を得たのも「マンガ少年」だった。
 それまで子供向けの「テレビまんが」だと思っていたものを、若者の娯楽である「アニメ」として観るきっかけになったのが「マンガ少年」の一連の記事だった。前回、『魔女っ子メグちゃん』で初めてスタッフを意識した事を書いたけれど、すでにその時に「マンガ少年」の記事を読んでいたはずだ。

第3回へつづく

(08.11.05)