色彩設計おぼえがき[辻田邦夫]

第144回 昔々……83 1995年その3 衝撃の3月(前編) ふたたびのマニラ

この秋になって、僕らの少年時代〜青春時代に僕らを魅了し、少なからず影響を受けた方々の訃報が相次ぎまして、さらには先日、あの『宇宙戦艦ヤマト』の西崎プロデューサーの事故死の報まで……。なんですかねえ、なんとも寂しい気持ちでいっぱいです。
そんな西崎氏、改めて氏の経歴を目にして驚いたのですが、あの僕らが熱狂したTVシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』の製作当時、氏はまだ40代そこそこ。そうか、僕が『さらば宇宙戦艦ヤマト』の公開初日、新宿の映画館に徹夜で並んだあの日にお見かけしたご本人は、今の僕よりも若かったんですね! そう気がついて、なんかちょっと鳥肌でありました。
僕は西崎氏みたいにはなれないけれど、今の少年少女たちみんなが見てくれる作品に、1本でも多くいい仕事で一所懸命参加していきたい、そう思うのであります。

さてさて。
劇場版『DRAGON BALL Z 復活のフュージョン!! 悟空とベジータ』の作業も終わった1995年3月はじめ、僕はまたもジュラルミンのトランク持って未明の大泉スタジオから成田空港へ。ふたたびフィリピン・マニラのEEI-TOEIに出張でありました。今回は2週間。前回は視察&レポートという意味合いが強かったのですが、今回は実際に彼らと一緒に仕事をして、その上でいろいろ指導していくということでありました。

前回と大きく違ったのは宿泊場所。今回はホテルではなくて、現地に長期赴任中の日本人スタッフ用に借り上げてる家に僕も寝泊まりとなりました。EEI-TOEIのスタジオの近くにかつて在比米軍のための住宅があった一角があって、その中の一軒を借り上げているのです。住宅地に出入りできる道路には自動小銃で武装した警備員が24時間詰めているゲートがあったりして、さすがにこの中は治安がよい。住んでる人たちもみなお金持ちなフンイキでありました。
マニラでの毎日は、朝起きて、あまりお湯のでないシャワーで目を覚まして、トコトコ歩いて10時にスタジオへ。朝食はスタジオへの道の途中、道ばたで営業してるハンバーガーの屋台でチーズバーガーとコーラを買ってスタジオで食べる。昼と夜はスタジオのスタッフと連れだって近くの食堂で食事。で、夜は8〜9時くらいまで仕事して帰宿。そんな毎日が続きます。前回のようにホテルまで迎えにこられるようなこともなく、自分のペースで動けるのはとっても気楽でありました。
実は今回は僕の他にもう一人随行者がおりました。某外注プロダクションの動画マンのMくん。動画チェッカーとして3ヶ月赴任することになっていて、その彼を僕が連れていく、という段取りになっていたのです。そしてそのMくんと一緒にスタッフ・ハウス(借りている一軒家をそう呼んでいました)に寝泊まりです。そのスタッフ・ハウスにはもうすでに1人滞在中。大先輩の作画監督・木野達兒さんです。僕やMくんは、そんな木野さんにすっかりお世話になっちゃいました。

当時、東映動画はEEI-TOEIでの動画マンの育成に力を入れていました。順調な仕上げ部門に加えて、動画部門も大きな規模に育て、動画仕上げ一環で作業をさせようという企てです。つまり、原画をマニラのスタジオに送ればちゃんとセルになって東京に帰ってくる、というシステムを強化していこうということ。彩色の作業量は安定してかなりの量を捌けるようになっているのに対して、まだまだ動画はその域に達しておらず、動画の上がり待ちで彩色が一時お休み、なんてこともしばしば。なので、動画マンの育成と質・量の安定が急務でありました。さらにはマニラのスタジオで背景スタッフも育成中。そしてさらにさらに、撮影台までも1台準備中。マニラで撮影までやって、原画を送ればフィルムになって帰ってくるシステム、の構築を目指しておりました。
で、その動画マン育成のために木野さんです。実は木野さん英語が堪能で、現地のスタッフとのコミュニケーションもまったく障害なし。とりわけ、動画のニュアンスとか教えるのにはやはり言葉が重要ですからねえ。もうね、素晴らしかったです! で、同時にうらやましかった。動画を憶えようとしている「生徒」たちは、なんかね生き生きしてるっていうか、勉強したい! 憶えたい! って意欲がみなぎっていたのですね。確かになんにでも「向き不向き」はあるものなので、そんな生徒たちの中にもなかなか上達の厳しい人もいたようですが、それでも一所懸命な姿勢はいいなあ、と思いました。

一方、僕らの仕上げはどうなんだろうか? と見回すと、確かに真剣に取り組んでいる人は多いんだけど、やはり「こんなのは、ほら、チョイチョイとこんな感じでいいのサ」的なスタッフも数名いる。前回と違って長くいて見ていると、だんだんそういう点が見えてきます。でもそういう連中はヘンな自信とプライドが強く、いくら僕が注意して改善させようとしてもまるでダメでした。本当は特殊技能であるはずのトレスや彩色ではあるんだけど、反面「誰にでもある程度はできる」技能でもあることは確か。やってる方はそれがわかっているし、やはり「描く」のと「塗る」のではなかなか根底にある意欲のベクトルが違ってるみたいです。
それでも、そんな仕上げをある意味束ねてくれていたのが「検査」のチームでありました。彼女らは(圧倒的に女性が多かった)トレスや彩色の中から引っ張り上げられたメンバーたちで、彩色上がりの仕上げ検査だけではなく、トレス彩色のスタッフに上がりチェックの中から技術的な指導をしてくれたり、僕らが東京で入れた色指定の不備な部分の整合性をとってくれたり、あるいは直接東京に問い合わせてくれたり。しかも検査とリテイク処理は、東京へ向けての便が出るまでの時間との戦い。ホントに頭の下がる仕事っぷりでありました。
そんな彼女たちに、たくさんの勇気と、たくさんの色指定上の改善点についての厳しい意見をもらって帰国の途についた僕です(苦笑)。

そして、その数日後。再び成田空港の出発ロビーに僕はいました。なんと、今度は韓国・ソウルへ向けての出国であります。

第145回へつづく

(10.11.09)