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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第98回 「海モモ」での実験4

 大人になる事が子供の「夢」として機能しない1990年代の夢を語るということは、とりもなおさず「夢」が変質した、1990年代の社会状況を描くということにもなる。
 そう、僕は考えた。
 魔女っ子もののアニメに、当時の社会性を強く出していいのかどうか、少しは迷ったのだが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品自体が、前作の「空モモ」の時から、いわゆる東映動画系のホームドラマ的メルヘン普通の魔女っ子ものとは……その時はさしてこちらが意識していなかったものの……一線を画した作品だった。
 後から思い返してみると、「空モモ」も当時の魔女っ子ものとしては、ニュー・ウェーブだったのである。
 だとしたら、「海モモ」も、新しい何かを持ち込んでいいはずである。
 むしろ、それが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の作品らしさなのだ……と、思った。
 しかし、どんな社会性を盛り込むかは、いろいろ考えた。
 少なくとも、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、子供向けのアニメである。
 社会性が、露骨に表面に出るような作品では困る。
 子供が見て楽しく面白くなければならない。
 それでいて、その子供達が、大きくなって大人になった時に、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』で見た内容が、子供の頃の時代の社会性を反映していたと気がつくような作品にしたかった。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品は、製作者が、海外で売る事も考えていたから、その社会性は、日本だけでなく海外でも通用するものでなければならない。
 僕は、僕自身が子供の頃不思議に思って、それが現代にいたっても答えのでないものを思い出した。
 それが、宗教のことだった。
 宗教が、人間の見る「夢」のひとつだと言えば、とんでもないことになるだろうから、ひとまずそれはおいておく。
 それは子供の考える事だから……と、うやむやにしておく。
 子供の僕としては、世界には、いろいろな宗教があるが、なぜ、それが元で戦争や迫害が起こるのかが素朴な疑問としてあった。
 子供の頃に習った十字軍とイスラムの戦いにしても、本来、人間が幸福になるための宗教が、なぜ人を不幸にする戦争をするのかが分からなかった。
 まあ、その後、少しは勉強して、宗教戦争にはいろいろ利害関係などもからまって、宗教というものが複雑だということも理解できるようになったが、子供の頃の僕には不思議でしょうがなかったのだ。
 「海モモ」の頃には、中東戦争があった。
 子供はこの戦争をどう思うのだろう。
 石油をめぐる利害関係の戦争だとしても、根っこには宗教や民族の問題がある。
 で、子供っぽく大ざっぱに考えれば、民族といっても、人類という動物には変わりない。
 キリスト教も、イスラム教も、凄まじく大ざっぱに言えば、歴史をたどれば元は同じである。
 それが、なぜ、戦争しなければならないのか?
 宗教問題について疑問を提示するのは、少なくともエンターテインメントとしてはやらないほうがいい……つまり、やばいテーマだった。
 しかし、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』なら、かすってみてもいいかなと思った。
 それが、46話「間違いだらけの神様」で、宗教戦争をしていたふたつの島が、拝んでいた神様が同じである事に気がついて戦争を止めるエピソードである。
 このエピソードは、ドタバタで大ざっぱでテンポが早く、それでいてテーマを薄ぼんやりと提示できるような脚本を書けるだろうということで、前の「空モモ」のレギュラー脚本家だった土屋斗紀雄氏に頼んで書いてもらった。
 土屋氏は前の「空モモ」で、核戦争の勃発をモモが防ぐ「間違いだらけの大作戦」のエピソードを書いてもらった人で、海モモの時には他の仕事が忙しく、無理を言って書いてもらった。
 土屋氏は、「空モモ」での直しの多さに懲りていたのか……「直しは1回だけね」という条件つきで、書いてくれた。
 土屋氏が書いた「海モモ」は、「間違いだらけの大作戦」1本だけだが、流石にこのエピソードをよく理解してくれていて、脚本の直しは条件とおり2稿ですんだ。
 直した部分は、ふたつの島の人々が、同じ神様を拝んでいるという事を明解に分からせるシーンだった。
 余談だが「空モモ」から10年経っていて、脚本を書くテクニックが上達したことを差し引いても、土屋氏の他、「空モモ」を書いていた人達は他の仕事が忙しく、「海モモ」を書いた本数は少ないが、その代わり、直しはほとんどなかった。
 「空モモ」を書いていた脚本家の人達は、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の世界に向いていた個性派だったと今でも思う。
 宗教を扱った「間違いだらけの神様」はさりげなく放送され、誰からも苦情は出なかった。
 だが、「空モモ」には、宗教を扱ったエピソードが、もう1本あった。
 新興宗教を素材にした「しあわせワッショイ」である。
 新興宗教にはまる危うさをテーマにしたエピソードだが、当時の現実に結びつく可能性もあるだけに、慎重を期した。
 できるだけ、馬鹿馬鹿しいコメディとして見る事ができるよう、宗教団体を「唄う団体」にして、そのテーマ曲「いざや夢見る共同組合」を、わざわざ、岡崎律子さんに作曲していただいた。
 ロマンチックでそのくせ、元気の出る歌で、ミュージカル「オペラ座の怪人」「キャッツ」の作曲者、アンドリュー・ロイド・ウェーバーのミュージカル「アスペクト・ラブ」のテーマ曲からインスパイアされた応援歌のような曲のようであって、実は新興宗教団体のPR曲という、訳の分からない難しい注文だった。
 さらに、その歌に対立する歌として、おちゃらけた「ええだば音頭」を僕が作詞して岡崎さんが作曲した。
 音頭を合唱したのは、声優・脚本家・監督・南極二郎氏らをひっかき集めた「ええだばコーラス隊」で、もちろん僕も混じっていた。
 これらの曲は、おそらく岡崎さんのレパートリーからかけ離れた曲だったろうに、驚くほどおもしろい曲を作ってくれた。
 おそらく、『ミンキーモモ』のCD「歌うフェアリーテール」以外で、こんな変わった岡崎律子作曲の歌は、もう聞けないだろう。
 岡崎律子さんは、その他にも本来の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』らしい曲をいくつも作ってくれ、『ミンキーモモ』には欠かせない人だった。
 「海モモ」の時には、誰が聞いても岡崎メロディと分かる作風が確立し、その後全開し、さらに前進すると誰からも期待されていただろうに、2004年に若くして亡くなられた。
 お会いした事もあるが、『モモ』のCDドラマ「雪がやんだら」のテーマ曲「四月の雪」のように清楚な感じのおとなしい印象の人だった。
 「海モモ」を思い出す時、いつも岡崎さんの曲も同時に思い出してしまう。
 で、「しあわせワッショイ」は、「いざや夢見る協同組合」と「ええだば音頭」でサンドイッチされて、馬鹿馬鹿しいコメディのようにみえるが、新興宗教の教祖さまとミンキーモモの「幸せ」についての問答と、「夢見る共同組合」にはまる人達がテーマである。
 僕にとっては、かなり実験的なエピソードだった。
 そして、その後、1995年、地下鉄サリン事件が起きた。
 この事件の関する事は、10年以上前とはいえ、誰でも知っているだろう。
 今、「しあわせワッショイ」のようなエピソードは、とてもアニメやドラマで、少なくとも僕は、作れるとは思えない。
 さて、「海モモ」についてのエピソードはつきない。
 理由はどうやら、その頃、僕が、メモのような簡単な日記をつけていたかららしい。
 日記を読むと、その頃の思い出があふれ出てくるのである。
 もうしばらく、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「海モモ」エピソードにお付き合いください。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 なんだかんだといっても、それでも、あなたは、脚本家として仕事を続けようと決めたとしよう。
 今、あなたは、何かの脚本を書き終えたばかりだ。
 さあ、仕事は終わった。
 締め切りにも間に合った。
 風呂にでも入って寝ようか……。
 それで、眠れる人はいい。
 だが、普通は、書き終えた興奮状態で、なかなか寝つかれない場合が多いようだ。
 脚本の終わりは、その内容も高揚しているクライマックスの後だから、あなたの気分も高揚している。
 頭も緊張から、解き放されていない。
 脚本家の書くという仕事は、頭と、パソコンの場合、指は使うが、運動しているわけではないから、体自体は疲れていない。
 人にもよるが、TVアニメのような30分ものの脚本は、書き始めたら一気に最後まで書いてしまう人が多いようだ。
 途中で、止めて1日でも開いてしまうとテンションが落ちてしまい、次を書き始める気力が落ちてしまう。
 だから、ろくに食事もせずに、煙草とコーヒーで、机にほとんど座りっぱなしで一気に書いてしまう。
 だから、ちっとも体は疲れていない。
 少なくとも僕は、そういうタイプだ。
 若い頃は、徹夜など気にせず書いてしまう。
 そして書き終えて、眠らなければいけないと思えば思うほど、眠れなくなる。
 書き終えた脚本の本読みが次の日にあるとか、次の日、他の脚本を書かなければならない時は、なおさら眠らなければいけないとあせる。
 あせればあせるほど、眠れなくなる。
 気分転換に誰かと話そうとしても、脚本を書き終えた時は、深夜か早朝が多い。
 電話するにしても、話し相手が迷惑である。
 仮に話し相手が見つかっても、あなたは書き終えた時の興奮が残っているから、脚本とは関係ないにしても、訳の分からない事を長電話して、かえって眠れなくなってしまう。
 結局、酒の飲める人は、一杯の寝酒でなんとか寝ようとする。
 だが、僕の長年の経験によると、まず酒では寝られない。
 一杯の寝酒程度で眠れる人は、酒など飲まなくとも眠れる人である。
 本来、酒に含まれるアルコールはダウナー系の薬物……気分を落ち着かせる薬物……なのだが、興奮している時に飲むとかえって気分が高揚する。
 酔っぱらった人が、暴れたり泣きだしたりするのを思い浮かべてほしい。
 街に出て、知りあいと飲んだりして相手がいると、そういう症状が人にも分かるが、だいたい、ものを書き終えた後の酒は、1人で部屋の中で飲む酒が多い。
 神経の興奮している人が、眠れるまで飲むとなると、知らず知らずのうちに、1杯が2杯、2杯が3杯……やっと眠れる状態になった時は、飲み過ぎの泥酔状態の場合が多い。
 アルコールは煙草と同じで、強い依存性のある薬物である。
 脚本を書いた後に、アルコールで気分を落ち着かせたり眠ろうとする生活を続けていると、数年で確実にアルコール依存症になる。
 そうなるとものを書き終えたあとであろうとなかろうと、アルコールが手放せなくなる。
 困るのは、初期のアルコール依存気味の時は、もともとアルコールがダウナー系の薬物だけに、ものを書いている時の興奮状態を抑えて、冷静にものを書けるような気がしてしまうのだ。
 すると、酒をちびりちびり飲みながら書くのが、習慣になってしまう。
 基本的に1人で書いているから、誰の目も気にせず飲みながら書く事ができる。
 しかし、それも長くは続かない。
 酒を飲んで精神を落ち着かせて書くのと、酒を飲んで酔っぱらって書くのは違う。
 酔っぱらって書くものは、後で冷静に読み返すと使いものにならない。
 精神を落ち着かせる酒と、酔っぱらう酒はほんの紙一重である。
 その紙一重で、ある日、アルコール依存症になっている自分に気がつく。
 アルコール依存症は、一生治らない病気である。
 依存症自体では、死ぬ事はないかもしれないが、アルコールが体を痛めつけ、精神状態を悪くして、結局、肝臓やら心臓やら脳障害の病気……事故や自殺など他の理由で遅かれ早かれ死んでしまう。
 その前に、家族や他人の前で酔っぱらい続け、ひんしゅくを買い、社会的に抹殺される場合も多い。
 アルコール依存症は断酒して、依存の進行を抑えるしかない病気である。
 アルコール依存については、専門家や病気の経験者が大勢いるので、これ以上詳しい話は差し控えるが、脚本家にとって、眠れないから飲むという酒は、アルコール依存症の最初の一歩である。
 眠るための酒は止めておいた方がいい。
 では、どうしたら脚本を書き終わった後の興奮を抑えて眠る事ができるか……それを考えてみよう。

   つづく
 


■第99回へ続く

(07.05.09)

 
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