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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第95回 「海モモ」での実験1

 『ミンキーモモ』のCDドラマ「雪がやんだら」は、アニメでは表現しきれないドラマだという他にも、いろいろ実験をした作品だった。
 大人に変身したモモの気持ちと、目の見えない画家の気持ちが、交互に語られるのだが、ドラマで起こるひとつひとつの出来事に対して、当然、互いの受け取る気持ちは違っているはずである。
 モモの本質は、姿は大人であっても、恋愛感情はほとんど未経験の少女である。
 一方、画家は青年とはいえ、恋愛に対しては、モモよりははるかに大人である。
 この違いをどうやって表現するか……そこで、当時、20代前半で、恋愛経験がさほど豊富ではなさそうな(違っていたらご免なさい)面出明美さんに、モモの気持ちを語る部分を書いてもらい、画家の気持ちの部分を僕が書く事にして、ひとつのエピソードに関して、モモがこう思っている時、画家はこう思っていた……といった具合に、それぞれが書いた原稿をキャッチボールをするように少しづつ互いに受け渡しして書いていった。
 そして、できあがった脚本に統一感が出るように、さらに僕が全体に直しを入れた。
 同時進行で、音楽や歌も、大月氏のプロデュースによって、岡崎律子さんの歌をメインにして、基本になるストーリーに呼応するように作られていった。
 今から考えると随分手間がかかるやり方である。
 オーディオ・ドラマならではの『ミンキーモモ』を作ろうと大月氏と最初の打ち合わせをしてから完成するまで、半年が経っていた。
 ある意味で、大月氏のミンキーモモに対する愛着とねばりが、「雪がやんだら」を完成させてくれたといえるだろう。
 主題歌「四月の雪」とともに、僕の書いたオーディオドラマの中でも格別に強い印象が残っている作品である。
 実験といえば、視聴者はあまり気がつかないかも知れないが、アニメの「海モモ」も、『アイドル天使ようこそようこ』とは別の意味で、様々な実験をしている。
 20世紀終盤における夢とは何か――時代性と脚本家の質もあるだろうが、それが描きにくくなっている事も確かだと思ったので、ミンキーモモの地球上のパパとママの設定を、古代に夢をはせる考古学者のパパと、夢見がちな小説家志望のママにし、ミンキーモモの住まいを何らかの夢を追いかけて旅をする人が訪れるだろうホテルにしたのも、夢というものを描きやすくするためだった。
 しかし、その設定を上手く利用できたストーリーは、ほとんどなかったといっていい。
 その代わり、変わったストーリーを書いてくる人がいた。
 その1人が菊池有起さんという脚本家である。
 この人の書くものは、観念的というか、感覚的というか、スピリチュアル系というか、ストーリーだけ聞くとなるほどと思いがちだが、よく考えると、小説としては成立してもアニメになりそうにないものが多かった。
 例えば、7話に「雪の中のコンサート」というエピソードがあって、名ピアニストが作曲した恋人に捧げる名ピアノ曲が出てくる。
 その曲をミンキーモモが演奏するのである。
 画がないCDドラマだからこそ素敵な絵画の存在を表現できた「雪がやんだら」と逆で、アニメには音と画がある。
 世に知られた既成の名ピアノ曲ならともかく、「雪の中のコンサート」に出てくるのは、エピソードの中の作曲家が作った架空の名曲である。
 小説などの文字では素晴らしい曲と書けても、音楽として聞こえてきたとき、視聴者が、その曲をいい曲だと思わなければ白けてしまう。
 このエピソードは、その曲が流れなければ成立しないストーリーなのだ。
 この話は無理だ……。
 いったんは没にしかけたが、魔がさしたというか、僕はふと思ったのである。
 もしも、誰もがいいと感じられる曲ができれば、このストーリーは成立する。
 実験してみようかと思った。
 この作品がうまくいくかどうかの全ては、曲の出来次第である。
 その代わりといってはなんだが、ドラマ部分は、何回か直してかっちりしたものにした。
 『ミンキーモモ』の監督は、挿入歌のいくつかを作詞もしている湯山氏である。音楽に対しては当然、鈍感であるはずはない。
 だから、この脚本には戸惑ったというか困ったと思う。
 結局は、『ミンキーモモ』のBGMの作曲や歌の編曲をしている、長谷川智樹氏の作るピアノ曲の出来次第ということになる。
 映画やアニメの曲には名曲が星の数ほどあるが、それは作曲された後の結果論で、最初からストーリーの設定で、万人にとって名曲でなければならないというのは、めったにないだろう。
 しかも、その曲は、耳の肥えた音楽通がではなく、『ミンキーモモ』を見る一般の視聴者がいいなと思うピアノ曲である。
 作曲家の個性を強調するというより、一般受けする俗っぽさ(ポピュラー性)も要求される。
 長谷川氏がこの要求に悩んだか苦しんだか、それとも喜んだか楽しんだかどうかは知らない。
 ともかく、その曲「愛しのマーシカ」はでき上がり、内心ひやひやしていた僕自身は、ほっとし、スタッフの評判もよかった。
 おかげで、「雪の中のコンサート」というエピソード全体の視聴者の受けも、「海モモ」前半の中では、群を抜いていた。
 この作品のよさは、ほとんど長谷川智樹氏の作曲によるといっていいと思う。「愛しのマーシカ」のテープを聞いて喜んでいたのは、脚本家の菊池さんも同じだが、作品の出来が曲次第で、天と地の差が出ただろう事を分かっていたかどうかは定かではない。
 菊池さんは、その後もアニメ化の難しい脚本を書いてきた。荒野に立てられた何本かの旗の風にたなびく音が人の精神を癒すなどというエピソードがあったが、流石にそれは止めてもらった。
 旗のたなびく様子とその音が癒しになるなど、どうやったらアニメで表現できるのだろう。
 感覚的には分からなくもないのだが、人に理解できるように表現するなら、それは小説や詩など文章の世界しかないだろう。
 流石の僕も、そのエピソードをアニメで実験する勇気はなかった。
 菊池さんは、感性のある人だとは思うが、アニメシナリオより他の文章表現が向いている人だったのかもしれない。
 他の脚本家にも、アニメになりそうもないストーリーを、本人がそれと気がつかずに書いてくる人がいた。
 名作ファンタジーを書くベストセラー作家のエピソード――これなど、その作家の書いた作品の内容がメインになるストーリーだった。
 だが、ベストセラーになるファンタジー小説の内容がどんなものか、表現できるわけがない。
 そんなものを考えついたら、『ミンキーモモ』のエピソードになどせずに、そのまま小説にして出版すればいいのである。
 『ミンキーモモ』の視聴者が、こんな小説、ベストセラーになる訳ないと思ったら、それで終わりである。
 結局、ベストセラー作家という設定だけを生かして、締め切り間近になって、編集者から逃げ回るドタバタ劇、10話「眠らせてお願い!」というエピソードにして、その作家の書いている小説の内容には触れなかった。裏設定として『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の第1作目「空モモ」の話を小説化していることにした。
 ちなみに「海モモ」のシリーズが終わりに近づいた頃、完成したその小説を原作にしたフェナリナーサとミンキーモモの映画を作るエピソードがある。
 「眠らせてお願い!」も、ある種の実験作で、ベストセラー作家は、編集者に追われている自分を、眠っている時に見る夢だと思い込んでしまい、夢ならなんでもできるわと、崖から飛び降りてしまう……つまり、眠っている時に見る夢と、『ミンキーモモ』のテーマの「人の持つ夢」をごっちゃにしてしまうエピソードで、ミンキーモモ本来のテーマからすればおきて破りの実験作だった。
 余談だが、作家を追いかける編集者の名前が「オーノー」と「コシー」となっているが、これは『ミンキーモモ』のプロデューサーの大野氏と堀越氏の名前から取っている事を知る人は少ないだろう。
 さらに、実験作と思える作品はいくつもある。
 ミンキーモモの日常……何も起こらない話である。
 事件らしい事件は何も起こらない……そういう『ミンキーモモ』を作りたい。
 これは、かねてから監督の湯山氏も僕も考えていた事だった。
 僕も含めて、何人かの脚本家が挑戦したが、どうしても事件が起きてしまう。
 没にしたプロットだけで10本を越えた。
 だが、考えてみれば、プロットとはあらすじのようなもの。筋があるということは、何かが起こるから筋ができるのである。
 何も起こらないという事は、筋がいらないということであり、プロットが書けるようなエピソードは、何かが起こるから書けるのである。
 つまり、何も起こらない話には、プロットはいらないということになる。
 「自分がやる」と言って、果敢に挑戦したものの、数ヶ月かかってとうとうノイローゼ気味になってしまった佐藤茂氏の35話「いつもどこかで」は、ともかく1人で書き上げたがんばりもあってアニメ化されたが、結局、小さな事件があり「いつもどこかで、何かが起こっている」というエピソードになってしまった。
 何も起こらないという意味では、モモがキャンプに行くエピソードというだけの注文で、滝花幸代さんに書いてもらった28話「サバイバルでいこう」は、脚本上では何も起こっていないのだが、演出、絵コンテの加戸誉夫氏のおかげで、ミンキーモモの内面で大切な事が起こっているようなエピソードになった。
 加戸氏は、「海モモ」のポイントになりそうなエピソードにはしばしば名前が出てくる、湯山監督の片腕的存在だったと思うが、演出、絵コンテについては、僕の分野ではないので、詳しく説明するのは避けたいと思う。
 何も起こらない『ミンキーモモ』のエピソードを作る事は、『ミンキーモモ』の脚本にとって、なんだかトラウマのようになってしまい、シリーズ終了後に作られたOVAの『夢にかける橋』にも、若干、影響してるような気もする。
 それはともかく魔女っ子アニメとしての『ミンキーモモ』の実験は、後半になるにつれどんどん多くなった。


   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 ともかく、本読みではいろいろな意見が出てくる。
 それぞれの立場の人が、作品に参加したいと思うのは当然といえば当然である。
 脚本は作品の入り口だから、様々な意見が飛びかう。
 だが、それをいちいち聞いていたのでは、自己のオリジナリティを見失ってしまう。
 基本的には、スポンサー関係のいない本読みでは、シリーズ構成と監督だけを相手にしていればいい。
 もちろん、他の人を無視しているような態度をとってはいけない。
 聞いているような振りだけは、礼儀としてしておこう。
 僕は、そこいらの態度が悪いようで、どうでもいい意見や、どうでもいい人は無視する姿勢が相手に見えて、愛想が悪いというか、図々しいというか、本読みで反感を買われる事が多いようである。
 あんまり、つまらないと眠っちゃう事もあるらしく、監督に机の下から足をけられて、目を覚ました事もある。
 そんな僕の真似はくれぐれもしないようにご忠告しておく。
 だが、最近、いろいろな意見が出てくるだけまし、という気もしている。
 なんの意見も出てこない時もあるのだ。
 だが、それを、自分の書いた脚本がみんなの納得を得たと思って安心していると、ひどい目にあう事があるから注意しよう。
 本読みなんてどうでもいい。
 義務で出席しているんだという人もいるのである。
 特に、くせのある監督が黙っている時は注意しよう。
 脚本なんかは、そこそこでいい。どうせ、絵コンテで思い通りに変えちゃうんだから……つまり、脚本家を無視した本読みもあるのである。
 そうなったら、脚本家の地位も存在もあったものではない。
 放映された作品を見てびっくり仰天、脚本がまったく変えられている場合もあるのである。
 それでいながら、脚本には自分の名前が出ている。
 そんな時、あなたはどうするか……。
 仮に、前もってアフレコに出席しても、絵コンテで無茶苦茶に脚本を変えられたら、台詞直しだけではどうにもならない。
 絵コンテでチェックしようにも、時間はないし、それは監督の仕事だからと嫌がられる。
 もともと絵コンテチェックは、脚本家の権限外である。
 嫌がられて当然とも言える。
 昔なら、脚本を変えられた時、「これは私の作品ではないから、私の名前を消してくれ」と言えるだろうが、今は、脚本の二次使用の権利が認められているから、脚本タイトルに名前があれば、ビデオやDVDになった時、脚本の使用料が、わずかだが貰える事になっている。
 自分の脚本がどんなに変えられても、名前さえ載っていれば使用料が入ってくる。
 しかし、自分が書いた憶えのないものに、自分の名前が載っていていいのだろうか。
 脚本が変えられた作品の出来が悪ければ、脚本が悪いからということになってしまう。
 その脚本家の評価まで下がってしまう。
 大袈裟に言って、無実の罪である。
 演出や絵コンテが勝手に脚本を変えやがってと、わめいても後の祭りである。
 しかしながら……と、あなたは考える。
 名前が出ていれば、使用料も入ってくる。
 自分の脚本名を消せとわめけば、いろいろ角が立つ。
 あいつはうるさい脚本家だと噂され仕事がこなくなるかもしれない。
 あなたは、こんな時どっちを選ぶだろう。
 名前を消すか残すか……。
 本来、決定稿になった脚本は、変えてはいけない事になっている。
 だから、法的には、絵コンテで脚本を変えた方が悪い。
 非常識である。
 しかし、現実にはそういう事が起こることもままあるのである。
 もともと脚本を軽視しているから、相手は悪いとも思っていない場合もある。
 そうなったら、あなたはどうするか……。
 大袈裟に言わなくても、脚本家としての自己存在が問われているのである。
 その答えを、僕は言えない。
 脚本家それぞれの自分の仕事に対する姿勢を、とやかく言えはしない。
 それでもあなたは、こんな場合、どうするだろう?

   つづく
 


■第96回へ続く

(07.04.18)

 
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