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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第90回 「海モモ」募集プロットのアニメ化

 はっきり言ってしまえば、募集したプロットの中に1990年代ならではの夢と希望を描いたものはなかった。
 だからといって、「アニメージュ」の編集部や『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に関わっていた人達に余計な手間をかけてもらった募集だけに、「アニメ化に該当する作品はありませんでした」では申し訳ない。
 少なくとも1本か2本は、アニメ化できるプロットが欲しかった。
 そこで、僕は選考の基準を変える事にした。
 すでに僕自身がいろいろな『魔法のプリンセス ミンキーモモ』用のエピソードを持っていたが、それ以外の僕が思いつかなかったエピソードなら、別に1990年代らしい夢と希望を描いたものでなくてもいいという事にしたのだ。
 その基準で選ぶと、3本のプロットが残った。
 その内の1本は、ごく普通の日常的な出来事を描こうとしたプロットで、とても『魔法のプリンセス ミンキーモモ』としてのアニメ化は無理だった。
 しかし、日常のささいな事をテーマにしたプロットは、魔法を使う大袈裟なエピソードが多かった応募作の中で逆に目立っていた。
 僕はアニメ化できない事を前提にして、まず、その作品を入選作にした。
 続いて、国際救助隊「サンダーバード」をパロディにした「出動! おたすけ隊」を選んだ。
 趣味で救助隊をやっている私設「サンダーバード」のエピソードである
 僕個人としては、元ネタのあるパロディをわざわざ募集してまで選ぶのは、どうかな……? とも思ったが、アニメになりやすいプロットである事も確かだった。
 文章を読むと、プロットだけでなく脚本も書けそうな実力もありそうだった。
 そもそも、この募集は、プロットだけで収まらず脚本まで書ける人を探す意味も持っていたから、プロットがパロディであっても、書いた本人が脚本を書けるならそれに越した事はなかった。
 そこで、このプロットを入選作にして本人に会ったが、「脚本も書いてみたい」と、やる気満々だった。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の脚本として成立するまでには、紆余曲折があったが、こちら側からのいろいろな注文があったにも関わらず、最後まで人の手を借りずに1人で脚本を完成させ、アフレコまで立ち合った。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に限らず、僕がシリーズ構成をした作品は、脚本タイトルに僕の名前が出ていなくても、手を加えたり直したりした脚本は少なくない。
 脚本タイトルに並びで僕の名前が出ている作品は、かなりの部分を僕が書き直している。
 だが、「出動! おたすけ隊」は、プロットを書いた本人が最後まで1人で脚本を書き上げた。
 立派だったと思う。
 ただ、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』――一般に言われる「海モモ」――の52話として「出動! お助け隊」が放映されたあと、パソコン通信などでやっかみ半分やひやかしの批判があったためか、本人が以下の内容の発言をした。「自分が書きたかったのは、ああいう作品ではなかった。ミンキーモモの脚本は、自由に書けそうに見えるが、自分の思い通り自由に書けなかった」
 この発言に、僕を含めてかなりのスタッフががっかりさせられた。
 多数の応募作の中から選ばれ、本人が脚本まで1人で書いた作品である。
 それなりに、スタッフが気を遣ってアニメ化している。
 批判など気にせず、もっと、自信を持った発言をしてほしかった。
 アフレコの時には、本人はにこにこ満足そうだった。
 少なくとも傍目からはそう見えていただけにあの発言は残念だった。
 もしも本人が、脚本家を目指している人なら「出動! お助け隊」が、いいきっかけになっただろうと今でも思う。
 「出動! おたすけ隊」は、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の作品群の中でも、決して悪い出来ではなかった。
 あの作品の脚本を書いた人が、今何をしているのかは知らないが、もしもどこかでペンネームでも使ってアニメの脚本を書いていてくれたら、こんなうれしい事はないし、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のプロット募集も意味があった事になる。
 入選の残るひとつは、「ふしぎなふしぎな映画館」という題名でアニメ化された。
 それは閉館される映画館を舞台にしたプロットだった。
 閉館される映画館といえば、イタリア映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」がすぐ思い出される。
 プロットの作者が、「ニュー・シネマ・パラダイス」を意識したかどうかは知らないが、閉館される映画館で生まれ育った少年に起こるシュールな出来事を描いたものだった。
 このプロットを、脚本にするのはとても難しそうなので、本人の了解を得て、存在自体がシュール(?)な脚本家、北条千夏さんに脚本を書いてもらう事にした。
 この起用はうまくいったようで、ちょっと奇妙で異色な脚本ができあがった。
 出来がいいとも悪いともいえない問答無用な脚本だった。
 プロットを書いた人の名は、北条千夏さんと共作という形で脚本タイトルに出した。
 結局、プロットの一般募集の中からふたつの作品が『魔法のプリンセス ミンキーモモ』としてアニメ化されたわけだが、それが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品全体から見て、よかったのか悪かったのかは、いまだに分からない。
 ただ、作品を選考した面出明美さんと北条千夏さんには、自分の脚本家としての実力を知るのに役立ったと僕は思いたいし、僕自身は、募集に「アニメージュ」というアニメ好きが読む雑誌の紙面を借りただけに、少なくとも当時のアニメファンの夢や希望に対する思いの全体像はおぼろげながら見えた気がした。
 ともかくオリジナリティが少なく驚くほど画一化している。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「海モモ」は1991年10月から1992年12月までの作品である。
 OVAを入れれば1993年までという事になる。
 このままいったら21世紀はどうなってしまうのか?
 21世紀の夢や希望は、どんなふうになってしまうのか?
 何となく、ゆううつな気分にさせられたのを今でも憶えている。
 そして、ずるずると21世紀になってもう7年も経ってしまった。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の2部、「海モモ」の結末は、けっして明るいとはいえない。
 企画だけは毎年のように見え隠れしている21世紀の『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の3部があるとしたら、その結末はもっと暗くなるのだろうか……?
 僕個人は、「海モモ」をはじめた時から、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は2部では終わらないと思っていた。
 3部作になる事を意識していた。
 だから、海モモと空モモが共演するエピソードを作り、空モモと海モモとのつながりを強調した。
 今のところ、3作目のラストはすでにできていて、ほんの一部の人は知っているが秘密にしてもらっている。
 お伽話の結末は、ハッピーエンドが似合っている。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の2部、海モモは、20世紀末の現実や社会を背景にしたエピソードが多かった。
 必然的にテーマは後半、重くなっていった。
 それでも、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』はお伽話である事には違いない。
 もし、僕が生きている間に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の3部が実現したら、強引でも構わないからハッピーエンドに持っていくつもりである。
 それが、どんなハッピーエンドであるかは今は言えないけれど……。
 それはともかくとして『アイドル天使 ようこそようこ』から『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の海モモ編まで、シリーズ構成としての僕は、脚本に対して常識はずれの作り方をしてきたようである。
 想像以上に疲れもしたが、それを許してくれた土壌があったからできた事だ。
 今のアニメの脚本作りや本読みはもっと事務的になって、シリーズ構成や脚本家の気まぐれや勝手は許されなくなっているという。
 そういう意味で、『アイドル天使 ようこそようこ』や『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の「海モモ」のような脚本はもう二度と現れないかもしれない。
 ところで、海モモについては、脚本以外にも語りたい事が多い。
 それは、次回以降にお話しようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 本読みに参加するスタッフが多くなると、脚本作りはややこしくなる一方である。
 特にコミックや小説の原作のあるアニメ全盛で、オリジナル脚本のアニメが少ない現在では、下手に脚本家のオリジナリティを出すと、否定される場合が多い。
 本読みに参加するスタッフが、それぞれ原作を読んで、それぞれのイメージを頭に描いている。
 それぞれのイメージと違う事が脚本に書いてあれば、それぞれの意見や注文が飛び交うのは当然である。
 それを避ける手はひとつだけだ。
 原作どおりに脚本を書くことである。
 脚本に対して文句が出ても、「原作はこうなっていますから……そのとおりにしました」で、逃げる事ができる。
 スタッフも、原作がある以上、オリジナリティのない脚本でもしょうがないということになる。
 原作者が、原作どおりでないと駄目だと言ってくる場合もある。
 「原作と映像は別物ですから、どう料理していただいても構いません」と度量の大きい事を言う原作者も多いが、実際に原作を変えられると内心はおだやかではない。
 特に、原作を変えるとうるさいのは原作の編集者である。
 原作を原作者以上に自分の作品だと思っている編集者が多い。
 事実、コミックや小説には編集者の意見や注文が大きくものを言っている作品も少なくない。
 僕自身、小説などを書く時は、いちばん最初の読者である編集者の意見を大事にしている。
 原作どおりに脚本を書いておけば、本読みは無難に終わるだろうが、そこに脚本家のオリジナリティは、ほとんどない。
 誰が脚本を書いても同じということになる。
 あなたがそれでよければ、それでいい。
 今のように原作のあるアニメ全盛の時代なら、それでも十分、食べて行けるだろう。
 だが、それに慣れてしまうと、オリジナルの脚本が必要な時、それを書けない脚本家になってしまう。
 いや、脚本らしきものは書けるが、脚本を創造できない脚本家になる危険性がある。
 少なくとも、脚本家になりたての頃は、オリジナリティを要求される作品を、苦しくとも望んで書くべきだと、僕は思う。
 それにしても、ある程度売れる保証があるとはいえ、原作つきのアニメの多さは何とかならないものだろうか?
 オリジナリティのある脚本家を、どんどん少なくしているような気がしてならない。

   つづく
 


■第91回へ続く

(07.03.07)

 
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