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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第84回 『ようこそようこ』と『ミンキーモモ』の間に……

 僕が退院した後も、『アイドル天使ようこそようこ』のアフレコは続いていた。
 しかし、脚本の作業は終わっていたし、『アイドル天使ようこそようこ』が、どんな作品であるか、監督のアミノテツロ氏や、音響スタッフの方達は熟知しているようだったから、アフレコ現場で僕が何も口を出すこともなく、ただ、予告編を渡すだけだった。
 僕はといえば退院後は、まず、「戦国魔神ゴーショーグン」の番外編小説……ルネッサンスを舞台にした「美しき黄昏のパバーヌ」……を書き上げなければならなかったし、「永遠のフィレーナ」という小説の続編も続いていた。「永遠のフィレーナ」は、入院前に、徳間書店関係でOVAが決定していて、全52本の予定だったが、どういうわけか、その1話の脚本ができ上がらないうちに、52本が12本の予定になり、なにやら知らぬうちに、小説9巻の内の最初の3巻分……6本の予定に、縮小されていた。
 この脚本は、他の方に脚色していただく予定だったが、1稿がトラブって結局、僕が1回目の脚本を書くことになってしまった。「永遠のフィレーナ」がアニメ化されたことを、今知る人は少ないと思うが、一応6本のビデオとレーザーディスクも作られたようだ。
 作られたようだ……という他人事のような書き方をしたのは、アニメのあまりの出来のひどさにうんざりして、1、2巻は完成品を見たものの、残りの4本はアフレコ用の色の入っていない線画だけのビデオしか見ていないからだ。
 アフレコで台詞をいじっても、どうにもならない出来だったのである。
 脚本完成の時点では、評判は悪くなかった。
 どこが、どう間違ったのかしらないが、1話目から、音響監督の松浦典良氏がどうやって音を入れたらいいのか頭を抱えるひどい出来だったのだ。
 背景・美術・動きもめちゃくちゃ……どこをどうしたら、こんなアニメが作れるのか見当もつかないひどさだった。
 アフレコ前のフィルムを見た時、誰もがそれを感じたようだが、フィルムに描かれていたものは、ほとんど監督も制作管理も不在の作品なのだ。
 驚いたことに、そんなアニメができ上がった責任をとる人が誰もいなかった。
 企画当時、スタジオP(某プロダクションの頭文字である)というアニメ制作会社が作るはずで、そこの社長が企画会議に出席していたのだが、いつの間にか、「この作品はうちが受けおったのではなく、Pプロジェクトという子会社が作ったのでうちとは関係ない」という訳の分からない理由で逃げていた。
 どうやら、スタジオPは制作費だけは受け取って、作らなければならないアニメは、外国に丸投げしてしまったらしいことは分かった。
 制作費を出した会社も、まさかこんなアニメができるとは思いもせず、アニメ制作状況を監督・把握せず、アニメ会社に任せっぱなしにしていたことも原因のひとつだろうが、普通は、制作費を出した側がとやかく言わなくても、受け負った側に普通の良心と責任があれば、そんなひどいアニメはでき上がらないはずである。
 制作費を出した側は「ひどい出来だね」と怒りてんてこ舞いはするものの、もう転がり始めたものを止める立場にいる人はいない。
 アニメを作ったことになっているPプロジェクトは、「次回からはよくなりますから」という言い訳を繰り返すだけである。
 現実は、よくなるどころか悪くなる一方だった。
 結局、原作者がアニメを作り直せと言うしかなくなった。
 原作者は僕である。
 そんなことは言いたくないし、少しぐらいの出来の悪さは我慢するつもりだった。
 しかし、アニメの出来は、そんな気持ちを通り過ぎて、人様に見せる出来ではなかった。
 結局、30分の1話を、数百カット直す事になった。
 そんなに直すぐらいなら、新しく作り直した方がましなぐらいだ。
 発売は、予定より1ヶ月遅れた。
 直しの費用をどこが出したのか、よくは知らない。
 「予算がやたらかかった」というぼやきを制作費を出した側から聞いたし、全6話分の制作費は、すでにアニメ制作会社に渡してあったというから、制作費を出した会社は、悪く言えば詐欺にあったようなものである。
 結果は、もとがどうしようもないアニメは、どんなにカットを直してもよくならない事が分かっただけの作品だった。
 1990年代に、こんなひどいアニメを作ることができるという見本にはなる作品……そういう意味では、時々レンタル店の棚に見かける事もあるから、珍品と言う意味でご覧になるのも一興かもしれない。
 1話が、そんな具合だから2話から6話までの出来はおして知るべしである。
 お金を出した側は、1話のアフレコ前のフイルムを見た時から心労が続き、アニメ制作会社との間の交渉に苦労を重ねたが、残ったのは脱力感だけだった気がする。
 アニメ制作会社は、当てにならない。信用できない。任せておけない……という気分が、お金を出した会社側にまん延したに違いないとは思う。
 その後、その会社から、自分の兄弟会社のようなアニメ制作の会社が生まれた。
 そのアニメ会社は、今、現在、日本でいちばんヒットしているアニメを作っている。
 今は親会社からも、独立した形で、アニメを制作しているようである。
 アニメのクオリティも、日本一と言っていいほど高い。
 アニメ『永遠のフィレーナ』での経験が少しでも教訓になったのかどうかは知らない。
 その会社のプロデューサーの名は、『永遠のフィレーナ』には出てこなかったと思うが、横目で見ていたことは確かだろう。
 そもそも、小説「永遠のフィレーナ」の1巻をアニメージュに連載したのは、そのプロデューサーが関わっていた。
 アニメ『永遠のフィレーナ』にお金を出した出版社は、『戦国魔神ゴーショーグン』の『時の異邦人』も製作している。『時の異邦人』には、そのプロデューサー、鈴木敏夫氏の名がある。『時の異邦人』も、未完成の状態で試写会をしなければならなかった前例がある。
 アニメ会社の制作が遅れ、予定の期日までに完成品を納品できなかったからである。
 だから、自分の目の届くところで、アニメを作ろうとするのは当然だと思う。
 僕はスタジオジブリの作品を、劇場公開されたものは見逃した事がないはずである。
 宮崎駿作品というわけではなく、鈴木敏夫プロデュース作品として、見逃せないのである。
 「永遠のフィレーナ」は、アニメと同時期、ファミコンのゲーム化も企画された。
 アニメとリンクして発売する予定だった。
 僕は監修として、ゲーム作りに参加した。
 だが、ここでは、ゲーム時間というのがある事を知った。
 ゲーム時間というのは、ゲームを作る人の間では、完成の時期が当てにならないということだ。
 半年や1年遅れても、当たり前という時間感覚だ。
 その時間感覚を知っていたから、その後、「ポケットモンスター」のゲームとリンクしていたアニメ版『ポケットモンスター』で、ゲームの2作目が1年以上遅れたために使えるポケモンキャラクターが足りなくなった時も、当時『ポケモン』アニメのシリーズ構成をしていた僕は、さしてあわてなかった。
 ゲームの完成は遅れるものだという事を、「永遠のフィレーナ」で身にしみて感じていたからだ。
 ただ、映画の2作目にオリジナルで作ったポケモンキャラクター・ルギアが、ゲームの2作目のオープニングに出てきたのにはびっくりした。
 ルギアに関して言えば、ゲームより映画の方が先だったのである。
 「永遠のフィレーナ」のゲームは、何やかにやと遅れて、一時は本当に完成する事すら怪しいと思えた。
 それでも、各方面の努力もあって、完成はした。
 だが、当然の事だが、ただでさえ遅れたアニメの発売とはリンクできなかった。
 全9巻の小説の後半にさしかかった巻とアニメとゲームは、時期的には、てんでばらばらに発売された。
 これでは、小説、アニメ、ゲームの同時発売などという当初もくろんだ相互PR効果は、望むべくもなかった。
 なにもかも、「永遠のフィレーナ」はうまくいかなかった。
 そんなわけで、この頃の僕は疲れ果てていた。
 入院中よりもくたびれたといっていい。
 こんな時は酒の一杯も飲みたい気分だが、入院していた頃の知り合いが退院後にまた酒を飲み、次々と死んでいたから、明日は我が身で、飲む気にはなれなかった。
 アニメとゲームがなければ、すんなりと書き進めたはずなのにと、「永遠のフィレーナ」の小説を書くことも、いささか嫌気がさしていた。
 そんな時、「アニメとゲームはなかった方がよかったですね」とあっさり言って、「小説だけは続けましょう」と励ましてくれたのが、編集担当の吉田氏だった。
 この人がいなければ、「永遠のフィレーナ」は全9巻完結まで行きつかなかっただろうと、今でも感謝している。
 しかし、アニメは、『永遠のフィレーナ』で懲りていた。
 『アイドル天使ようこそようこ』で、かなり常識外れのことをやったから、これで充分という気もしていた。
 だが、『アイドル天使ようこそようこ』の最終回のアフレコが、近づいたある日、アフレコスタジオに、葦プロダクションの社長がやってきた。「実はまた『ミンキーモモ』をやるんだけれど、体の調子はどう?」
 もう企画自体は、通っているという。
 他の作品なら断っていたかもしれない。
 だが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』なら話は別である。
 前の『ミンキーモモ』から10年が経っていたが、監督も前作の湯山邦彦氏だという。
 エピソードはいくつもあったし、断る理由は何もなかった。「『ミンキーモモ』なら、僕がやります」
 僕は、即座にそう答えていた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 自分なりのキャラクターを持てたら、状況や事件を考え、キャラクターに自由に動いてもらう。
 自然にクライマックスがきて、終わりがくる。
 後は、上映や放映される時間にあわせて、余計なところを削ったり飛ばしてつなげたりすればいい。
 30分アニメの場合、動きを細かく脚本に書き込む必要のない場合、普通ペラ(200字詰め原稿用紙)で65枚から75枚程度である。
 今は、ほとんどパソコンのワープロソフトで書く人が多いから、字数で換算するのもいい。
 脚本家の中には、縦20字で700行書いて、わざわざペラ70枚分と書いている人もいるが、そこまで丁寧にすることはない。
 縦30字でも、縦35字でも、だいたい、14000字前後が目安である。
 余計なところを削るためには、もとの脚本が、実際の時間より少し多めな方がいい。
 僕の経験では、ペラで100枚を越える脚本を書く人もたまにいる。つまり20000字である。
 それを、14000字前後まで、削るのだ。
 脚本家を長くやっていると、字数で数えるより体内時間で、30分アニメ(CMも計算すると23分から24分)の分量が分かってくる。
 僕自身は、今は、枚数や字数より、自分の体内時間で枚数を決めている……というより決まってしまう。
 脚本事情を知らない人から、よく、何枚ぐらい書くんですか、と聞かれるが、その時は「体内時間で、30分ぐらいと思える枚数」などと、訳の分からない言い方をするが、普通は、ペラで70枚弱だろう。
 実写の世界では、ペラ2枚が1分……つまり30秒がペラ1枚である、という目安がある。
 1時間もので120枚前後、2時間で、240枚ということになる。
 アニメの方が長いのは、実写よりテンポが速いのと、アニメならではの世界を説明するために、ト書きで説明する部分がどうしても増えてしまうからである。
 ちなみに、僕はシリーズ構成として予告編を書く場合が多いが、30秒の予告の場合、予告を読む声優さんが目一杯しゃべりまくって、ペラ1枚(200字)が限度である。15秒の予告では100字以内、ということになる。
 僕が少し多めに書くのは、演出や絵コンテで削ってもらう余地を残しておくためである。
 脚本が少なめだと、そこを埋めるために、余計な動きや演出、時によっては脚本にない場面が、増えることになる。
 しかし、脚本を削らなければならないとなると、余計な演出や動きを絵コンテで増やしたがる演出過多を抑えることができる。
 例えばアクション好きの演出家の場合、脚本に書かれたシーンを削ってまで、戦闘シーンを増やす場合もある。
 そのために、脚本のストーリーやキャラクターの性格まで分からなくなることがある。
 余計なシーンを勝手に増やされるより、余計な部分を最初から書いておき、それを削ってもらったり凝縮してもらった方が、脚本の本来の姿に近くなる場合が多い。
 僕の場合、正直言って、演出や絵コンテをあまり信用してはいない。
 信頼できる演出家や絵コンテマンは限られる。
 全体を監督する人次第なのだが、僕の場合、運がいいのか、脚本を変えることを趣味にしているような監督と出会うことは、ほとんどなかった。
 だが、監督や演出、絵コンテによって脚本を変えられることは、この世界では当たり前のようにあると聞く。
 脚本を変えられても仕方がない出来のものを書く人も多いし、書いたら後は勝手にやってくれという脚本家も多い。
 同時に脚本を好き勝手に変える癖のある監督も少なくないし、脚本をでき上がるアニメのたたき台としてしか考えていない監督も多いという。
 どっちもどっちで困ったものだが、それだけアニメの脚本に出来のいいものが少ないことも確かである。
 実写のドラマや映画では、台詞を一言一句変えるな……と、役者の本読みに立ち会う脚本家もいるという。
 確かにそんな脚本家の作品は、見る人の好き嫌いもあるだろうが、脚本としての出来がいいことだけは認めないわけにはいかない場合がほとんどである。
 ここまで読んできている人は、すでに何本か、映像化された脚本を書いている人のはずである。
 脚本の枚数については、30分の上映時間に、1時間や2時間もかかるシナリオを書く人もいないだろうし、常識的な目安でいいと思う。
 ただし、監督に脚本家の意向を明確に伝えたい部分がある時は、枚数など気にせずにト書きにしつこいぐらい書き込んでおいたほうがいい。

   つづく
 


■第85回へ続く

(07.01.24)

 
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