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第53回 なんでもありの『ミンキーモモ』、しかし……
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の脚本方針は、8話の「婦人警官ってつらいのネ」以降、やりたいエピソードはなんでもやっちゃえになった。
だから、僕のシリーズ構成も、各脚本家に「こんな話はどう?」と簡単な概略を話す程度の、簡単なものだった。
僕が注意したのは、各脚本家の書くエピソードがだぶらない事。
それと、1話1話を見た視聴者に、次にどんな話がくるか予想がつかないようにしたかった。
パターンの似たタイプの作品が続くのを極力避け、毎回見るたびに違う、バラエティに富んだエピソードを並べる事に腐心した。
さらに、エピソードを1本見ただけでは、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』がどういうアニメか分からないようにしたかった。
毎回、何が出てくるか分からないびっくり箱のような作品にしたかったのだ。
ミンキーモモとその変身シーン。そして、おなじみのレギュラーが毎回出てくる以外は、各話の共通点は何もないように心がけた。
それが割とうまくいったのは、僕が選んだ脚本家の方々が、色々な映画や当時の時代の世相を、よく勉強していてくれたからだ。
喫茶店の片隅でそれぞれのライターと、こそこそと、次の話は「あの映画をひねったエピソードでいこうよ」とか「実際に起こったあの事件を題材にした話でいこうよ」等と話し合うだけで、脚本ができてきた。
もちろん、僕が「フィナリナーサからきた少年」で考えたエピソードを書いてもらった事もある。
だが、総じて各脚本家が考えたエピソードで、充分間に合った。
不思議とエピソードが似る事も少なかった。
それだけ、それぞれの脚本家が個性的でバラエティに富んでいた、という事だろう。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』全体の一貫したテーマは何も話さなかった。
脚本家の方達が、脚本の打ち合わせで、同時に出会う事もほとんどなかった。
それぞれの脚本家が書く個性的なエピソードが、モザイクのように交じり合って、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の全体像が浮かび上がってくるように構成した。
うれしい事に、総監督の湯山邦彦氏が全体を見る各話の演出、絵コンテ、作画の方々も、次第にそれぞれの個性を出してくれて、悪く言えば各話各話はバラバラだが、それぞれが違う感触を持ち、モザイクの各部分として、まとまると『魔法のプリンセス ミンキーモモ』全体が見えてくるようになりそうだった。
演出、絵コンテ、作画等のスタッフも、若くてやる気満々の人たちが、自分の持ち味を充分に発揮してくれたようだった。
この人たちの起用は、予算の都合で、安くて若い人を使うという制作上の事情もあるだろうが、プロデューサーや総監督の決断によるところも多いと思う。
なぜなら、他の有名動画会社では作画枚数が3000枚を越えると、会社から苦情が出るという時代に、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』では、その制限を越えても、誰も文句を言わなかったという……つまり、プロデューサーが、作画枚数には目をつぶっていたか、関心を示さなかった事になる。
ようするに、若手のやる気に任していたのである。
それどころか、例えば36話「大いなる遺産」――脚本金春智子さん、演出石田昌平氏、作画監督わたなべひろし氏――の場合、そのまま作れば、動き的には余り派手ではなく、枚数的にも、それほど多くはかからないはずの作品だった。
だが、総監督の湯山邦彦氏は「この話で、5000枚使えたら偉い」とわたなべ氏達を挑発し、その通り、少ない枚数で済む話を、枚数をかけて至る所で動かし、動画的にも魅力的な作品にしたというエピソードが、残っている。
30分のTVアニメに3000枚以上使うと、プロデューサーの首が飛ぶという現代では、信じられない話である。
もっともデジタル全盛の現代アニメでは、単純に比較できないかもしれないが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の空モモは、確かに、当時の他のアニメと比べて、よく動いている部類である事は確かだろう。
ともかく、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の空モモ編は、脚本も作画も演出も、それぞれの作家達が、好きなように作れる自由さがあった。
だから、各話各話の出来は、バラエティに富んでいて、ファンにも、それぞれのお好みの作品ができ、まるで、より取り見取りのデパートの地下の食品街のような様相になってきた。
それは、最初からこちらが期待したものだった。
つまり、各話各話の味覚は違うのだが、まとめて見れば、視聴者に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のテーマが分かるように作ろうとしたのだ。
だが、いくらデパートの地下の食品街といっても、それぞれのデパートには、それなりの違いがある。
東急と西武と伊勢丹と三越のデパ地下食品街は、やっぱり雰囲気が違う。
同じように、いくら何でもありの『魔法のプリンセス ミンキーモモ』でも、ミンキーモモデパートであるという感触が必要である。
バラバラなものを並べたようなモザイクも、上からニスのようなものを塗って統一感を感じさせる微妙なコーティングが必要になる。
そのコーティングが、僕がシリーズ構成する場合、台詞と予告編になる。
アドリブ満載のアフレコだが、それでも、一定の決まりのようなものがある。
それが、誰が言い出したかは知らないがモモ文法とか首藤節とか言われる台詞まわしである。
僕の脚本は、読んだだけでは面白さが分からなくても、実際に会話になって聞いてみるとおかしさが分かる変な脚本だ、と昔はよく言われた。
その脚本の台詞の特長を、土屋斗紀雄氏や戸田博史氏は、かなり意識して書いて身につけてくれた。
アフレコまで来て、研究してくれたようだ。
編集をやっている山崎昌三氏こと谷本敬次氏も気がつかないはずがない。
不思議な事に、筒井ともみさんと金春智子さんの台詞まわしは、こちらが手を加えなくても、微細な直しでそのまま使えた。
お2人が本来持っていた資質なのか、僕の脚本を読んだり、放映されている作品を見て、自然に身につけてしまったのか……。未だに不思議である。
後で思い返すと『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の空モモ版は、シリーズ構成として、一番、脚本に苦労しなかった作品だった。
予告すら書かずシリーズ構成らしい事は何もしなかったように見える『ポケットモンスター』ですら、脚本の他で色々苦労させられた。
ちなみに、シリーズ構成として、一番大変だったのは、皮肉にも『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の海モモだった。
理由は簡単である。『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の海モモ版を書ける資質の新しい脚本家がなかなかいなくて、探すのに苦労したからだ。
脚本に僕のタイトルを出さない場合が多いが、うんざりするほど脚本を直した。
話を空モモ版にもどそう。
脚本上でも、アフレコ台本上でも、特長となる台詞回しはほとんど書き込まれてはいるが、最終的なチェックは必要である。
そのためにも、アフレコには、必ず出ていく事にしていた。
8話を越えた頃になると小山茉美さんを筆頭にレギュラー声優の方達は、完全に役になり切って、すでにひとつの世界を作り上げていた。
何を言っても、「えーだば、えーだば」の世界である。
ゲスト役で来た声優さんたちは、その世界に戸惑って、あきれて帰っていくのが常だったという。
それだけ確立した世界を作り上げていた声優さんたちは、毎回変わるバラエティに富んだエピソードを、軽くこなしていった。
さらに、僕がアフレコ現場に来て、これもアドリブ風に書く予告編を、小山茉美さんが大人のモモとして語り、それでもう一度、この作品が『魔法のプリンセス ミンキーモモ』である事を確認できるようにした。
何でもありのミンキーモモを、さらに予告でコーティングしたのである。
ミンキーモモの予告は、別に遊びで書いていたわけではない。
『戦国魔神 ゴーショーグン』の時もそうだったが、予告を単なる予告でなく作品の一部として機能させたかったのだ。
こうして中盤を迎えた『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、脚本も絶好調だった。
各脚本家が書きたい放題の事を書いていたといっていい。
ただ、タブーとして、モモが作曲家や画家や詩人などの芸術家になる話は、止めていただいた。
なぜなら、視聴者が納得できる名曲や名画を、モモが作れる自信がないのだ。
視聴者の誰もが名曲名画と思える作品を、作者である我々が作れるはずがないからだ。
視聴者がモモが作る名曲や名画を素晴らしいと感じてくれなければ、そこで視聴者は白けてしまう。
これは、別に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に限った事ではない。
アニメだけでなく映画全般に言える事である。
芸術家を描く時には、実在の芸術家を描くのはその人の実際の作品があるからいいが、架空の芸術家を登場させるのは止めておいたほうがいい。
その人物の作る作品が視聴者を納得させる作品でなければ、たちまちその場で観客は白けてしまう。
視聴者の共感を得られなければ、いくら作り手の僕たちが、名画だ、名曲だと言っても説得力がない。
視覚と聴覚に訴えかけるアニメや映画に、架空に存在する名画、名曲は、表現不可能である。
それと、できるだけ海の波や水の流れ、激しく燃える炎の出るシーンも避けてもらった。
海や水、激しく燃える炎は、アニメや特撮では、どうしても嘘に見えてしまう。
最初から、嘘だと分かっているアニメでも、違和感が出る。
アニメで爆発シーンは許せるが、炎の燃え上がるシーンは、なぜか嘘っぽい。
ようするに、自然が動いている様子を見せる描写は、1秒24コマのフルアニメーションでも難しいのに、1秒数枚のリミテッドアニメでは、表現不能である。
今、最前線のCGでも、海の動きや川の流れは、どこか変である。
さらに言えば、自然の動きや自然に動く生き物を描けるアニメーターがほとんどいない。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』空モモ版は、背景としての自然は出てくるが、その動きが要(かなめ)やテーマになるエピソードは極力避けてもらった。
何でもありとはいっても、かなりの制限はあったのである。
それでも、空モモ版の脚本が、中盤から後半にかけて粒ぞろいだったのは、ファンタジーやアクションやコメディタッチとはいえ、結局、人間中心のエピソードが多かったからだと思う。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』空モモ版の脚本家は、魔女っ子ものとは言いながら、少なくとも人間を描こうとする意欲のある、大人達だったのである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
さあ、あなたの中に、書きたいもののあらすじがある。
登場人物も決めた。
だが、書き出す前に、登場人物について、考えてみよう。
あなたは、自分を主役に考えていないか?
だとしたら、それは止めておく事だ。
あなた自身の自己満足の主人公になりがちだからだ。
映画は、小説でもエッセイでも評論でもない。
目で見えて、耳で聞こえる範囲で、表現するものだ。
あなたは、自分の姿は、鏡でしか見る事ができない。
自分の言いたい事を、直接、声に出して言う事も少ないだろう。
自分のやりたい事を、いきなり直接行動する事もないだろう。
実は、映画で描写するのが、一番難しいのは自分自身なのである。
そんな難しい事は、実験映画ならともかく、普通の脚本で最初に挑戦するのは止めておこう。
あなたは、脚本というカメラで、自分の描きたいものを写すのである。
自分の顔を撮ったって、あなたの内面が写るわけではない。
免許証かパスポートの写真になるのが、関の山である。
やはりカメラで撮るなら、他人様だろう。
他人様だって、自分の言いたい事を本当に人に簡単に言ったり、やりたい事をすぐ行動に移したりしないだろう。
しかし、あなたには、他人の言動は、よく見え、よく聞こえるだろう。
よく観察すれば、その人の言外に言いたい事が類推できるし、行動を見ていれば、やりたい事の想像はつく。
自分を描くより、他人を描く事の方が、より人間というものを描きやすいのである。
だから……。
主人公は、あなたのよく知っている友人知人を、モデルにしよう。
親戚でも兄弟でも両親でもいい。
あなたが一番よく知っている人が望ましい。
そして……。
あなたの考えているストーリーが、SFであろうと、時代劇であろうと、サスペンスであろうと、ホラーであろうと、純愛ものであろうと、モデルにした人が、その状況になった時に、どう行動するか、何を喋るかを想像してみよう。
そして、あなたの頭の中で、モデルにした人を動かしてみるのだ。
都合よく動いてくれるだろうか?
ぎくしゃくしているのなら、あなたの考えたあらすじがおかしいか、あなたのモデルにした人への観察力が足りないかのどちらかだ。
僕が色々な人と付き合おうといったのは、その観察力を養うためだ。
あなた自身の身勝手な観察力でもかまわない。
その人が、どういう人か、自分なりに分かっていればいい。
そうすれば、モデルにした人は動いてくれる。
できるだけ、多くの異性と付き合えと言ったのも、あなたの考えた脚本のあらすじが、同性だけで成立するはずがなく、必ず、異性が登場してくるだろうからだ。
その異性が、あなたの頭の中だけで考えた、よくあるパターンの異性だったら、あなたの主人公だって、パターン通りの付き合い方しかできなくなる。
あなたと同性の主人公が、もしあなたの思い通り生き生きと動いたとしても、異性に会った途端、パターンになってぎくしゃくして生き生きと動けなくなってしまうのでは、どうにもならない。
いずれにしろ、あなたの中に脚本のストーリーができたら、主人公だけではなく、登場人物に、該当する実在するモデルを当てはめてみよう。
すると、流れるように登場人物が動き出すはずだ。
つづく
■第54回へ続く
(06.06.14)
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