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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第49回 『ミンキーモモ』放映開始

 『ミンキーモモ』の脚本家が決まる間も、製作準備は着々と続き、色々な事が、決まっていった。
 スポンサー側から注文のあったものの中で、最も比重の高かったのが、魔法のペンダントとバトンだった、
 つまり、ペンダントとバトンを効果的に使う魔法を出せ……ということだ。
 当時、大人になりたくない子供たちが、急増していた。
 「大人になりたくない。このまま子供でいたい」とは、大なり小なり、誰もが子供の時に持つ気持ちだ。
 しかし、それは、子供の一時期の通過儀礼のようなもので、成長していくうちに次第に消えていくのが普通 だ。
 早く大人になって、親許から離れ、自分の力で食べていかなければならないのが、昔の普通 の子供の、当たり前の考え方だったからだ。
 親離れして、自立して生活するのが、子供として当然の事だった。
 大人になったら、今まで育ててくれた親の生活の面倒を見ようとする考えの子供も、当たり前のように多かった。
 大人になるという事は、一人前の人間になるという事でもあった。
 だが、高度成長した日本の中……暮らし自体が豊かになった子供たちが、大人のあくせく働いている姿、家庭内での疲れ切った姿、社会に対する愚痴の多い姿を見るにつけて、大人になっても、ろくな事はないなと考えるようになった。
 生活が豊かになると、働かなくても、親がかりの子供のままでいられる。
 子供から見る大人の世界は、生活にあくせくして、えらく汚い物に見えてくる。
 そこに、子供は純真だとか、汚れを知らないとか、かわいいとか、いたいけなとか、勝手に大人が過去の子供だった自分を、過大に評価したノスタルジックな価値観で、子供を見る傾向が加わるから、なおさら子供は子供のままでいたがる。
 豊かな生活を維持するために、少子化、核家族化も進んでくるから、ますます子供を可愛がる。
 自分の子供を社会の勝ち組にしたいから、勉強勉強とうるさく言い始める。
 受験地獄などと言うが、これは、親が子供をかわいがるあまり、無理やり社会の勝ち組にさせるため、他の子供と競争させているとしか思えない。
 人間社会、または金銭社会における、勝ち組・負け組以外の価値観があるのを、親たちが忘れてしまっている。
 現代はさらに、その傾向が強くなっているようだ。
 もし自分の家庭が食べるのに困るような状態だったら、子供に勉強しろなどと言っていられないはずである。
 親が子供を大切にするのは当たり前だが、甘えさせることが過ぎると子供は増長する。
 このまま子供でいたいと考える子が増えても、不思議ではない。
 しかも、よい大学を出たところで、周りは同じような人間がいっぱい。優良企業や官公庁に入っても、出世へのレールが引かれていて、その上を無難なく走っても、老人になった時の先は見えている。
 運よく、子供の頃なりたかった仕事に就けても、夢見ていたものとは違って、現実の仕事は思うようにいかない事が多い。
 アメリカン・ドリームのような大成功を望める期待も薄い。
 それが子供の時に、すでに見えてしまうのだ。
 大人になってもいい事はなにもなさそうである。
 子供にとっては、大人になる目的がない、魅力がない。
 「どんな大人になりたい?」と聞かれて、「どんな大人にもなりたくないよ。このまま生きていければね」と答える子供が増えていた。
 日本の高度成長が、そんな子供をどんどん生み出したと言っても、あながち間違いではないと思う。
 後に「ピーターパン・シンドローム」と呼ばれる甘ったれた感情が流行語になる以前から、子供たちの間には、大人になりたくないという感情が、すでに広まっていた。
 1970年代から80年代に、もうすでにフリーターとかニートとか言われる人たちの種は、充分まかれていたのである。
 だからこそ、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、そんな子供たちに、大人になる事への期待を持たせたかった。
 「大人になったら何になる? ……きっと夢がかなうわ」
 ミンキーモモの魔法は、18歳の大人に変身する事に……それも、色々な仕事のプロになって、様々な事件を解決する事に……ほぼ、満場一致で決まった。
 だが、これは建前であって、子供がプロフェッショナルな仕事の大人になっても、解決できる問題など、そう多くはないのである。
 僕などまず思いついたのは、18歳になってできる事といったら、18歳未満お断りのところへ、気兼ねなく入れる事ぐらいだった。
 人の命を救う医者になっても、それは理想であって、現実には「白い巨塔」的権力争いがあるだろうし、レーサーや野球選手になっても、その技術以上に、金銭的な問題や人間関係など、面倒くさい問題が起こってくる。
 大人になっても、子供の時夢見ていた理想像とは違うしがらみに悩まされる事になる。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を多くごらんになった方はお気づきになるだろうが、ミンキーモモが大人になって解決した事件など、ほとんどないのである。
 実際はミンキーモモが、大人になってうろうろしているうちに、事件は自然に解決してしまうのである。
 僕自身、事件が起こってミンキーモモが大人になって解決するというパターンどおりに、毎回ストーリーを進めるのは嫌だった。
 しかし、それを言っちゃあ、おしまいである。
 ともかく、ミンキーモモが魔法で大人になって、色々な人を助ける。それが人々の夢をかなえる事になり、地球の人々が失いかけている夢を呼び覚まし、地球から離れていく夢の国フィナリナーサが、再び地球に戻ってくる。……というコンセプトにした。フィナリナーサは番組途中からフェナリナーサになった。
 理由は、フィナリナーサが発音しにくいからである。語源はフェアリーとナースの合成語だから、僕は、どう呼ぼうとどうでもよかった。表向きは、その土地の方言によって呼び方が違ってくるという事になっている。
 真面目に考えると、人々の夢をかなえるってどういう事……そもそも夢とは何だろうか、という難しい問題にぶち当たる。
 それをつきつめていくと哲学的になるから、とりあえず、ミンキーモモが相手にとって、いいと思うことをやりなさい……という漠然としたものにした。
 子供であるミンキーモモの自由な判断に任せるのである。
 夢の国の両親は、その判断について、とやかく言えない位 置においた。
 夢の国とミンキーモモは、交信不能であり、魔法を使えばなんとか交信できそうなものだが、王様のなんでも「えーだば」的性格と、お妃のおっとりした性格がそれを可能にした。
 夢の国の王様とお妃様は、TVのようなビジョンでミンキーモモの行動を見守るだけで、後は好き勝手にやらせている。
 つまり、ミンキーモモの大人になる魔法は、ミンキーモモの判断、ミンキーモモの快楽原則にゆだねられているのである。
 ここが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の一番の特色だと思う。
 つまり、この作品を作る大人がいいと思う事をするのではなく、ミンキーモモという子供がよかれと思う大人へと変身するのだ。
 役には立たないかもしれないが、大人になる事への夢は持つ事ができる……それが、僕の建前ではなく本音の、ミンキーモモの変身に対するスタンスだった。
 空モモ(海モモではない)の放送された頃は、本来男性のものだった職場への、女性の進出が盛んになりつつあり、ミンキーモモが男性的な職業のプロフェッショナルになるのにも抵抗がなくなっていた。
 ミンキーモモが、どんな職業の大人に変身しようとかまわなく見えるのは、時代が追い風だったからとも言えると思う。
 ミンキーモモが、いい事をしてそれがうまくいくと、4回ごとに夢の国の大広間の王冠に宝石が入り、それが12個集まれば、夢の国は地球に戻ってくる。
 この設定の理由は簡単である。
 放映予定が1年間52回だから12ヶ月分で12個、1ヶ月が4週だから4回に1度、その月の誕生石が王冠にはいる。
 極めてイージーな発想だと自分でも思う。
 12×4だから48週分で、4週分余るが、それはミンキーモモが失敗した時のためと『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のクライマックス用に、宝石と関係ないストーリーが必要だった。
 今だから言うが、僕は最初から夢の国が地球に戻ってくるラストは、考えていなかった。
 最初から宝石を12個、集める必要はなかったのである。
 そのため、宝石の入らない回が続いて、あわてて2個、同時につけた時もある。
 放映当時の時代に、夢の国が戻ってくれるはずはないし……21世紀の現代では、なおさら無理だろう。
 だからといって、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の全体のテーマを、アンハッピーエンドには終わらしたくない。
 もし、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の3部目が実現したら、多分、あっと驚くハッピーエンドにする用意がある。
 空モモの話に戻ろう。
 変身の呪文「ピピルマピピルマ……」は、主題歌の作詞家がつけたと記憶している。最後の「アダルトタッチで○○になーれ」の部分は、僕が作った。
 当時のアダルトという言葉は、「大人っぽい」と言う意味で、今のようにAV(アダルトビデオ)が普及していない時代である。
 アダルトに、いやらしいという意味は、まったくなかった。
 大人への変身シーンは、ロボットの合体シーンと同じく、毎回、同じものが繰り返し使われたが、当時、評判になっていた新体操の演技を組み入れて、僕が見てもかなり際どいものができてきた。
 変身シーンを作った方たちが、かなりの情熱を傾けていた事が、よく分かる。
 今だったら、放送コードに引っ掛かるかもしれないと作者たちが自主規制してしまうかもしれないほど力のはいったものだった。
 ただし、このシーンだけが楽しみで『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を見ていたという男性がいる事を聞いて、ちょっと困ってしまった事も確かだ。
 製作現場にも、そういう趣味の人がいて、ミンキーモモのスカートが翻った時に、ネコマーク入りのパンツが見えたり、あれやこれや、いろいろいたずらがあったが、脚本家は、まったくその方面 には関わりがないので、誤解しないでいただきたい。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の第1回は、子供のいない夫婦のところに、いきなりミンキーモモが「ミンキーモモ デビュー」と言って、夫婦の子供として住み込むところから始まる。
 なぜ、ミンキーモモがどこかの地球にやって来たか等の理由は、いっさい省かれている。
 視聴者にとって、まず、ミンキーモモと出会う事、その魅力を知ってもらう事を、最初に持ってきたかったからで、ミンキーモモがどこか地球に来た理由を説明していると、話の展開がだらけるし、ミンキーモモの作品世界を描くのに、邪魔なだけである。
 1分でも早く、視聴者をミンキーモモ・ワールドに巻き込みたかった。
 だが、他の脚本家たちにとっては、ミンキーモモが地球に来た理由などを知っておいてもらわなければ、シナリオが書けない。
 したがって、ミンキーモモが地球に来た理由を説明した、もう1本の脚本も用意した。
 つまり、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の第1回は2本あったのである。
 そのもう1本のシナリオは、多少、内容を変えて第4話に使っている。
 ストーリー的には、4話から1話が普通だが、あえて放送時のインパクトのために、逆にしたのである。
 やがて、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の声優たちが、決まってきた。
 ミンキーモモ役の小山茉美さんは、最初は、主題歌だけを歌う予定だったらしい。
 それが、ミンキーモモ役が決まらないので、歌のついでに声もやってという事になったという。
 小山茉美さんの起用には、いっさい僕は関わっていないし、実は驚いた。
 僕がそれまで原作やら原案やらシリーズ構成した3本の作品……つまり『巴里のイザベル』『戦国魔神 ゴーショーグン』『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の全てのヒロインが小山茉美さんなのである。『巴里のイザベル』の時は、小山茉美さんでなければ困ると言った覚えがあるが、後は、他の方が強く推薦してきて、僕は、何も口を出していない。
 偶然とはいえ、不思議な縁である。
 以来、小山茉美さんの声は――七色と言われるが――全て、僕の頭に刻み込まれてしまった。
 その後、ずいぶん長い事別れていたガールフレンドにあった時……この人は、僕の描くヒロインのモデルになった人だ……小山茉美さんの声と違うので(当たり前だが)「おまえ、声、変わったなあ」などと奇妙な事を言って、ガールフレンドに首をかしげられた覚えがある。
 それほど、小山茉美さんの声は、僕のヒロインになってしまったのだ。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』には、個性のある声優さんが、そろっていたが、中でも、夢の国の王様の声だった増岡弘さんは、『サザエさん』で有名だが、落語をやっている方で、王様のギャグはほとんど落語で、脚本上でもそれを意識して書かせてもらった。
 もう1人、どこかの地球のママをやってくれた土井美加さんは、当時人気だった『マクロス』の、歌手ではない、もう1人の暗い方のヒロインや、舞台でハムレットのオフェーリア役等をやっている、シリアスタイプの人かと思っていたら、会って酒など飲んでみると、ミンキーモモのママそっくりの天然ぼけ(?)のある人で、ママ役を安心して任せておけた。
 シリアスな役より、むしろミンキーモモのママのような少し抜けた役の方が、土井美加さんに向いていると言ったら、ご本人は、怒るかもしれないが、それほど、ミンキーモモのママとして、ぴったりだったという事で、許してもらおうと思う。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』第1作は、湯山邦彦氏にとっても、CDとしての最初の作品だったはずである。
 それなりの思い込みがあったと思う。
 音響監督は藤山房延氏。予告編は、『戦国魔神 ゴーショーグン』と同じように僕が、アフレコ終了前、30分ぐらいで、即興で僕が書いた。
 第1話のアフレコでは、上手くできたと僕は思った。
 だが、ミンキーモモが、地球に来た理由を明かしていないこと、クライマックスで競馬を使い、おそらく、それまで誰も使っていないギャグで締めくくった……ということは、もう誰もこのギャグは使えない……ことなど、不安材料も多かった。
 スポンサーや局や関係者に見せる完成品の試写には、僕は行かなかった。
 ぐちゃぐちゃ感想を言われるのが嫌だったからだ。
 以下は、葦プロの社長の談である。
 競馬のシーン……ミンキーモモと、モモの乗ったガチョンシンボリという駄馬は、様々な妨害を乗りこえ、最後のゴール……対抗馬と同時にゴールインする。結果は写真判定……ガチョンシンボリはゴール寸前、思いっきり舌を延ばす。
 競馬で鼻の差というのはあるが、舌の差というのはない。
 ガチョンシンボリは、その舌の差でレースに勝つのである。
 その写真判定のシーンで、試写会場は、どっと笑いに包まれたという。
 その時、葦プロの社長は、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』がヒットすると確信したという。
 こうして、1982年3月18日から『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、放送が開始された。

   つづく


●昨日の私(近況報告……というより「だれでもできる脚本家」)

 色々な人と出会うとともに、色々な異性とも出会おう。
 異性との交際は、恋愛感情につながる事が多い。
 若い頃は特にそうだし、仕方のない事だとも言える。
 僕だって、30代終わりまで、異性交際と恋愛感情の区別がつきにくく、いろいろ困った覚えがある。
 だが、結果論で言うと、異性関係が恋愛感情に発展すると、異性相手はその人だけになってしまう。
 他の異性に目が向かなくなりがちである。
 他の異性も、あなた達が恋人同士だと知ると、なんとなく距離を置くようになる。
 そうすると、あなたが付き合う異性は、1人だけになってしまう。
 しかも、恋愛中となれば、相手のどこもかしこもよく見えて、恋は盲目とはよく言ったもの、という状態になる。
 冷静に相手を見つめられなくなるのである。
 つまり、恋愛相手は異性観察には向かないことになる。
 恋愛の行き着く果ては「失恋」か「結婚」である――同じ台詞が最近見た映画の中に出てきて笑ってしまった。その映画によると、もう一つは「死に別れ」だそうである。
 もちろん、恋愛の行き着く果ては、他にもいっぱいあると思う。
 僕の経験上でも色々ある。
 恋愛体験は、脚本に役立つ事には違いない。
 相手の気持ちが、あなたの前では、着飾らずに気を許して裸になる事もあるからだ。
 しかし、恋愛は冷めるまで終わらないし、それまで時間もかかる。
 それが失恋に終わろうと、一生のうち何回も恋愛はしていられない。
 月に1回ずつ恋人が変わるなどという人は、色情狂と思われかねない。
 恋愛体験の多い人が、異性を上手く書けるわけでもない。
 恋愛に夢中になりすぎて、ものを書く事などお留守になりがちだ。
 恋愛をするなとは言わない。
 が、それ以上に大事なことは、多くの異性と出会う事だ。
 ある異性とつき合う時、その人を、恋愛の対象にすべきか、友人として長く付き合うべきか、よく考えてみる事だ。
 心の許せる異性友達は財産である。
 そんな関係は多いほどよい。
 多いほど、色々なタイプの異性を知る事ができる。
 異性と付き合うようになったら、恋愛感情または恋愛行動に移る前に、「ちょっと待て、車は急に止まれない」という交通標語を思い出すべきだ。
 相手が勝手に自分に対して恋愛感情を持ってくれるなら、残酷なようだが、その様子も観察するといい。
 ただ、あなたが男なら、交際をやめる時は、できるだけ自分が悪者になって別れよう。
 自分が彼女から振られたように、別れるのだ。
 それがエチケットだし、相手を振った時の女性の態度というか気持ちも、よく観察できる。
 ここに僕が書いているのは、「異性にもてる方法」ではない。
 「誰でもできる脚本家」である。
 もう一度言う。
 できるだけ多くの異性と出会うべきである。
 だが、恋愛にのめり込むかは、よく考えた方がいい。
 異性との交際には自制心も必要なのだ。
 特に、脚本家だけでなくもの書きを目指す人には……いや、これは芸術家を目指す人全般に言える事かもしれない。
 恋愛関係でもあり、よき芸術の理解者でもある異性……有名な芸術家のエピソードでは、よくそんな話を聞くが、普通はありえない。
 本当は足を引っ張るだけである。
 さあ、あなたは、多くの異性との出会いを持った。
 もちろん同性の知人友人も多い。
 映画も沢山見ている。
 そろそろ、脚本を書き出してもいい時期だ。

   つづく
 


■第50回へ続く

(06.05.17)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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