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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第34回 『戦国魔神ゴーショーグン』準備用意

 前回に続けて『ゴールドライタン』の脚本変更から話をはじめよう。
 1981年の、ある日の夕方、僕は、酒を飲みながら、自分の書いた『ゴールドライタン』を、ぼんやり見ていた。まれに、酒を飲まなければ見ていられないような、みじめな作画の回があり、かっか怒らないよう、自己防衛用に、自分の作品は、自分の感覚を酒でゆるませて見ることにしていた。その回の作画は悪くなかった。スタッフが、頑張っているなと思って、はじめはいささか上機嫌だった。ストーリーも僕の書いた通り進んでいた。……ところがである。だんだん、僕の書いたはずの脚本とイメージが変わりはじめてきた。ストーリーは変わりがない。が、どこか、ニュアンスが違うのである。
 「なんかへんだなあ……」首を傾げながら、自分の書いた脚本を読み返してみた。違いがわかった。台詞が僕の書いたものと若干違うのである。
 シーンの並びも、変わっていた。
 もしも、他の人が、この作品を見たら、出来がいいと思うかもしれない。が、脚本を書いた僕にとっては、似てはいるが、違うものだった。
 「なんじゃ、こりゃ」と唖然としているうちに、放送は終わった。
 作品の出来の良し悪しではない。脚本が改変されているのである。
 監督も絵コンテも、悪気があったわけではなかろう。むしろ、僕の脚本をよりよくしようと、頑張った結果かもしれない。しかし、脚本が変わっているのにはちがいない。多少の酒で、我慢できるほど、僕は大人ではなかった。シリーズ構成の酒井氏に文句を言ってもしょうがない。
 脚本の責任者にアニメ全体のでき上がりに責任を問うのは酷だし、酒井氏だって、「今後は脚本を重視するように……」と演出や絵コンテに注意するしかない。
 下手をすれば、脚本が演出に口を出すなと、逆襲されたり、うるさい野郎だと反感をもたれかねない。これでは、シリーズ構成が気の毒である。
 いずれにしろ、問題の作品は、放映された後なのだ。とりかえしはつかない。テレビ局が、「先週、放送した『ゴールドライタン』は、脚本と少し違っていました。ごめんなさい」などというテロップを入れるはずもない。
 テレビ局は、脚本家や演出家の名前を、間違えてタイトルに出しても認めることはまずない。テレビ局や新聞社は、正しい報道をするという前提がある。だから、ニュースでも報道の間違いを認めることは余程の問題にならない限りありえない。その体質を僕は知っているから、テレビや新聞の報道は、いまも眉につばをつけてみる癖がある。
 まして、今回は、一介のアニメ会社の問題である。わいわい騒げば、アニメ制作会社の責任になる。テレビ局から番組が追い出されることもありうる。だから、まじめな制作者は、極力、間違いのないように気を使う。脚本家の名前を間違えてタイトルに乗せることは、あってはならないことだが、ずさんなアニメ会社では、たまに起こることである。そんな場合は、だいたい、当事者の脚本家が泣き寝入りすることが多い。
 僕の場合、僕の作品を違う人の名前でタイトルされたことが2度ある。
 若い頃の僕は、向こう見ずで、大人しいライターじゃないから、大騒ぎした。テレビ局に、テロップで間違いを認めろと要求しかけたのだ。
 この業界としては無理難題である。だが、あわてたアニメ制作会社が精いっぱいの謝罪を僕にしてくれたため、収めることにした。
 以来、しばらくの間、首藤剛志の名前だけは間違えるなという噂が、業界に流れ、使いにくい脚本家だという評判も立ったらしい。
 若い頃の僕は、使いにくかったら使ってくれなくてもいいもん……と強気だったし、もともと書くこと自体が嫌いな人間だったから、脚本の注文が減ることなんか気にならなかった。
 若さゆえとはいえ、血の気が薄くなった今、思えば、あぶなっかしいにもほどがある。
 それでも僕を使ってくれたプロデューサーや、僕の脚本を推薦してくれた人たちには感謝の言葉もない。
 だが、『ゴールドライタン』の時は、まだ、血気さかんだった。
 脚本家の中には、出来の悪い作品ができたときには、脚本を変えられたと言って怒り、脚本を変えられても、作品の評判がいいと、「あれは私が書いた脚本だ」と、胸を張る調子のいい人も多いが、作品の出来が良かろうと悪かろうと、脚本を変えられたら、ただでは済まさないのが僕だった。頭にきた僕は、すぐさま、竜の子プロに電話して、演出と絵コンテに会いたいと言った。
 「電話では、話にならないから、僕が、そっちへ行くから、直接会って、脚本を変えた理由を聞きたい。僕が納得いけばよし、納得いかなければ、ただではすませませんから……」
 「ただではすませない」の意味は、聞き方によれば脅迫に近い。電話口に出た人は、誰かと相談していたが、僕と担当の演出家の会う時間を決めて、電話を切った。
 その時は、血の気が上っていたが、受話器を置いて、我に返った。
 竜の子プロは中央線の国立にある。当時、僕の住んでいた渋谷から出かければ、半日がかりの大旅行である。
 もう放送されてしまった作品の文句を言いに、電車に乗ってことこと行くのはたまらんなあ……と思った。それまでの打ち合わせは、ほとんど、東京都区内、それも、新宿近辺でやっていたのである。それでも、言い出したのはこちらである。行くしかない。
 国立の駅にたどりついたのは、夕方だった。
 竜の子プロを見つけたときには、腹が減って怒る気力も減少していた。竜の子プロを、ノックすると、にこやかな顔で、当時、竜の子プロのプロデューサーの宮田知行氏が、立っていた。
 僕が会う予定の演出家は、急用ができて今いないという。「僕が代わりに話を聞いて演出家に言っておくから、腹も減ったことだし、そこらで、食事がてら、飲みながら話しましょう」と宮田氏は誘った。
 国立まで来て、空手で帰るのもなんだから……ということで、つきあうことにした。
 宮田氏の行きつけの飲屋らしく「いつものを出して」と宮田氏が言うと、ボトルのウイスキーが出てきた。演出家や絵コンテマンと話すつもりの内容を、プロデューサーと詳しく話しても、話の通じないところが多い。いつの間にか、宮田氏と僕の共通の趣味である外国映画の話になった。そのうち、映画好きの竜の子プロのスタッフが何人か、話に加わりウイスキーのボトルを開けるころには、みんな映画話に盛り上がっていた。新しいボトルが出てきて話はいよいよ盛り上がる。もう、脚本の改定の話などどうでもよくなってきた。そして、終電の時間がきた。すっかりでき上がった僕たちは和気あいあいで別れ、僕は終電で新宿駅についた。その時には、せっかくの酔いはすっかり覚めていた。
 ……俺は、何のために国立にまで行ったのだろう。
 後で聞いたら、首藤が来たと聞いたとたん、演出家は竜の子プロの裏口から脱出したそうである。そして、僕の対応にあたった宮田氏が、僕を飲み屋に連れていって飲ませてくれたウイスキーのボトルには、名前がついていた。
 「ごめんね酒」――つまり、この手のトラブルで怒ってやってきた人たちをなだめるために、用意された酒だったのである。それを聞いて、僕は笑っちゃい、すっかり怒る気がなくなった。
 気が抜けたのも確かだが、宮田氏と話した映画の話が、それ以上に楽しかったのである。それによく考えると、怒り狂うほどひどく脚本を変えられたわけでもなかった。
 『ゴールドライタン』はその後、円満に終わり、宮田氏と僕は、国立でなく、新宿の僕の行きつけの飲み屋で、仕事関係というよりは、映画好きの仲間として、人と飲むのが嫌いな僕としては珍しい飲み友達になった。
 ただし、放映ギリギリになって、脚本内容を変えることのできる、演出家と絵コンテの存在を忘れたわけではなかった。
 シリーズ構成がいくら脚本を吟味しても、土壇場で内容を変えられる危険性がある。
 僕が次にシリーズ構成をやる予定の『戦国魔神ゴーショーグン』は、1話ずつ完結するように見えても、全体のストーリーは、連続性のあるシリーズにするつもりだった。途中で、固有のカラーのある演出が突出すると、全体が壊れてしまう。それを避けるには、演出と絵コンテに左右される、作品の土壇場のさらに土壇場に、シリーズ構成の目が届いていなければならない。
 アニメ作品が完成する土壇場がわかり、そこを見張っていれば、シリーズ構成が作ろうと狙う作品が、完璧とはいえないまでも、ある程度の満足が得られるものができるはずである。
 その土壇場とはどこか……アニメのシリーズ構成が、口を挟める最後の部分……それは、アニメに声を入れるアフレコの現場だ。そこしかない。僕は、そう決めた。以後、僕がシリーズ構成をした作品は、よほどのことがない限り、アフレコ現場に顔を出すことにした。
 アフレコ現場で、もし、演出や絵コンテで脚本を変えられた部分があれば、声優が声を入れる台詞を変えてでも、脚本の持っているイメージに戻す。
 さらに、1ヶ月ほどかけて一度書き上げた脚本が、フイルムになるまでの間、数ヶ月、その作品について考え続ける時間を持つことができる。完成の土壇場で、アドリブを入れてでも、その数ヶ月間で考えたことを組み込むこともできる。つまり、脚本完成まで1ヶ月かかる作品を、実質、数ヶ月の時間をかけて完成させることも不可能ではなくなる。
 だが、それを可能にするには、強力な協力者がいる。総監督の協力が必要なのはもちろんだが、なにより必要なのは音響監督の協力である。
 そして、アフレコ台本の変更にもアドリブにも対応できる、声優の能力、魅力も欠かせない。
 『戦国魔神ゴーショーグン』は、僕にとってそんな試みの第1号作品だった。これが、アニメで最初の試みであるかは知らないが、少なくとも僕にははじめてだった。
 さらに、都合がいいのか悪いのか『戦国魔神ゴーショーグン』には、各話の演出はいたが、なぜか総監督がいなかったのである。
 予算の都合か、プロデューサーと総監督になる予定の人との間に意見の相違があったのか、そこのところは分からない。いずれにしろ、『戦国魔神ゴーショーグン』に総監督というタイトルはなかった。
 つまり、総監督のいない作品において、音響監督が最大の協力者になってくれて、後は、プロデューサーが、僕と音響監督のやることを許してくれれば、僕の試みは軌道に乗る。幸運だったのは、音響監督が、松浦典良氏だったことである。……無念なことに昨年お亡くなりになった。まだやりたいことがいっぱいあったはずなのに……。
 松浦氏は、僕の考えたやり方を面白がってくれた。
 音響監督の担当は、作品の仕上げの部分である。ほとんど完成したものを音で仕上げる。自己が思いのままに創作する部分はすくない。そこに、シリーズ構成だった僕が、音響監督が創作できる余地を持ち込んできたのである。
 面倒くさがったり、自分の仕事の範囲外だと、嫌がる音響監督もいるだろう。
 しかし、松浦氏はそれを楽しんでくれた。
 そして、葦プロのプロデューサーの相原義彰氏と加藤博氏は、アフレコ現場に顔を見せたことはあったが、ほとんど、自由にやらせてくれた。
 脚本にも意見をはさまなかった。
 『戦国魔神ゴーショーグン』は、入り口である脚本と、出口であるアフレコの部分を、シリーズ構成と音響監督が、協力して押さえた格好になった。
 だからといって誤解されないようにいっておくが、もちろん、各話の演出、絵コンテは、極力、尊重され、無視されたというわけではない。
 ともかく『戦国魔神ゴーショーグン』は、出入り口に、シリーズ構成という脚本側の目が、音響監督の理解もあって届くようになっていた。
 『戦国魔神ゴーショーグン』に新しい部分があったとしたら、まず、この点だろう。さらにそれは、声優の声の演技だけではない能力を引き出す余禄もあったと思う。
 このアニメは、アフレコの時に、ほとんど絵が完成していなかった。その、普通ならアニメとして不備として指摘される部分を、逆に利点に変えていったの感じがあるのだ。
 登場人物が喋るときに口を動かす口パクという部分ができていず、口の動いている部分が、その秒数だけ、赤や青い線で描かれているだけだった。赤い線は女の子の口が喋っている部分、青い線は男の口が喋っている部分……。普通、声を入れる声優たちは、キャラクターの表情が分からないといって嫌がる。これでは声を入れることなどできないと、ボイコットをする声優もいる。ごもっともな意見である。
 だが、これは、逆を言えば、口パクの部分は、何を喋ってもいいということにもなる。つまり、アドリブが効くのである。
 これに慣れれば、声優たちの演技の聞かせどころにもなる。
 アドリブだらけの、ラジオ録音のような感じである。
 それは、アフレコ現場にいて台詞を聞いている僕にも、おもしろい事態だった。脚本に書いていた台詞を、アドリブで書き換えることもできたのだ。
 ……おっとっと、『戦国魔神ゴーショーグン』の制作過程の話は、音響の部分の話など、少し先に進み過ぎたようだ。次回は、少し戻って『戦国魔神ゴーショーグン』の企画の段階からお話していこうと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 1月も下旬になり、正月気分もすっかりふっ飛んだ今日この頃、そろそろ、脚本の話をはじめようと思う。
 みなさんは、正月中も、映画を見ていましたか?
 当然、気がついていると思うが、脚本は文字で書くものだが、小説、エッセイ、論文とは違う。もちろん、絵で描くマンガ、コミック、絵画とも違うものだ。
 どこが違うのか。お分かりの方も多いと思うが、念のために確認しておく。
 映画には視聴者が変えることのできない時間があるということだ。つまり、映画の元になる脚本も、観客が変えることのできない時間を書いているのだということを意識しなければいけないのだ。
 小説、マンガ、絵画、どれも、それを読んだり見たりする人に、時間はまかされている。
 小説やエッセイの文章を読む時間は、読む人次第だ。ぱらぱらと、ページをめくって飛ばし読みする人もいれば、一文字、一文字、噛み締めるように読む人もいる。マンガだって同じだ。1こま、1こま、吹き出しに書かれた台詞までじっくり読む人も入れば、飛ばし見する人もいる。絵画だって、ひとつの絵の前に何時間もたたずんで鑑賞している人もいれば、流し見するように通り過ぎて、鑑賞したつもりになっている人もいる。
 つまり、読む人、見る人次第で、読書や鑑賞する時間は自由に決められるのだ。
 しかし、映画は違う。鑑賞する側の気持ちなど、関係なしに、作る側が勝手に、時間を食いつぶしていく。もうちょっと、気に入った場面をじっくり見ていたいと思っても、おかまいなしに場面は変わってしまう。
 もう、こんな場面は見ていたくないと思っても、作り手の勝手で、長く見せられてしまう。台詞も同じである。台詞が早すぎて聞き取りにくいと思っても、ゆっくりは話してくれない。つまらないことを、そんなにゆっくり話すなよ、と思っても、作り手の勝手で、だらだら、のんびりと台詞が喋られる。
 つまり、視聴者のその作品に関する感覚、好みなど、おかまいなしに話は進んでいってしまうのである。
 映画とは、作った人が、見せたいところだけ見せ、聞かせたいところだけ聞かせる、観客の気持ちを、かなり無視した強引な芸術なのだ。
 本なら、ページをめくり直して、前の文章を読み直すことができる。
 しかし、映画は、始まったら終わりまで前進していくいっぽうなのだ。
 ……ちょっと待ってくれ。今は、ビデオだってDVDだってある。巻き戻して見直すことができる。という人がいるかもしれない。
 だが、それは映画の見方とはいえない。
 ABCDEとシーンが続いているものを、EのあたりでBのシーンを見直したいからといって、Bを見直せば……ABCDEBFGとなり、今まで何回もこのコーナーで説明したモンタージュが崩れてしまう。ABCDEとABCDEBFGでは別の作品を見たことになるのである。
 つまり映画は作り手が決めた時間に支配される芸術で、観客が参加することのできないものなのだ。
 この特徴を、映画の元を書く脚本家は忘れてはならないと思う。
 同じように、脚本家が文章で書く時間と、実際に上映される時間は違うのである。
 脚本家が、1日がかりで考えた名台詞も、オシャレな会話も、上映したら、数分、いや、もしかしたら数秒で語り終わってしまうかもしれないのである。
 映画のシーン、台詞の時間の流れと、脚本を書く時間とのギャップ……わりとそれに気がつかないで脚本を書く人が多いのだ。
 それに気が付くためにも、しつこくしつこく、映画をたくさん見ましょうと言っているのである。脚本が描こうとする時間と、脚本を書く作業としての時間の違いのギャップについては、まだまだ話すことがある。


   この項、つづく
 

■第35回へ続く

(06.01.25)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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