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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第30回 バルディオス「地球氷河期作戦」

 今回のエッセイには、『宇宙戦士バルディオス』「地球氷河期作戦」のシナリオの付録つきである。「シナリオえーだば創作術」という割には、実物のシナリオがなかなか出てこないという声もあり、あくまで参考用に、のせていただいた。……できることなら、シナリオを先に読んでいただいた方が、エッセイの内容が分かりやすいと思う。
 なお、三大メカ発進という表現があるが、バルディオスは、3つのメカが一体ずつ発進して、空の上で変形し合体して、ロボットになる仕組みになっている。
 どういう仕組みと仕掛けで、ロボットに合体するのか、合体変身シーンを何度見せられても、脚本家の僕にはいまだに分からないでいる。
  おそらく、ロボットのおもちゃを作っている人も、分かっているかどうか疑問である。
 なお、この作品は作画も演出も悪くなく、『バルディオス』各話の中では評判がよく、シナリオは、今は廃刊されている「マイ・アニメ」というアニメ雑誌に20数年前、掲載されたことがあるのことをお断りしておく。

     ×    ×    ×

 『宇宙戦士バルディオス』では、メインになるマリンという青年と、アフロディアという侵略側の女性司令官の2人以外のエピソードを、専門に書かせてもらっていたから、好き勝手なエピソードを書いて、わりと楽だった。
 いつも手持ちにしていたストーリーを、『バルディオス』向きに書き換えるだけですんでいたからだ。
 ところが、前回に書いたアフロディア愛憎改造作戦に手を染めたら、のんびりしてもいられなくなった。
 必然的に、酒井氏のメインストーリーに、足を踏み入れた形になったからだ。
 こうなったら、終盤まで、ある程度は責任を取らなければならなくなった。
 僕の勝手なエピソードで、残る話数を潰していられなくなったのだ。
 つまり、遊んでいられる話数が少なくなったのである。
 僕としては、いくつかやり残したエピソードがあったが、『バルディオス』でなければ、当分、書ける場がなさそうなものがひとつあった。
 年上の女性……それも30歳前後の女性と青年のラブ・ストーリーである。
 運良く(?)『バルディオス』には、その年頃のレギュラーがいる。
 クインシュタイン博士である。だが、主人公のマリンとクインシュタインが、ラブ・ストーリーを始めたら、アフロディアとマリンのメインになるはずのラブ・ストーリーが、ぐちゃぐちゃに複雑化してしまう。
 おまけに、すでに、レギュラーのジェミーという若い娘がいて、マリンとラブ・ストーリーを展開しても不思議はないのに、それもできずに、基地の中をうろうろしているのである。
 クインシュタインにしても、月影長官というおじさんや、オリバーや雷太というレギュラーが、こと、恋愛に関しては、なす術もなくまわりをうろつき回っている。
 まるで、レギュラーみんなが、マリンとアフロディアの恋愛の進展待ちのような状態である。
 もっとも、クインシュタインには、かつてラブ・ロマンスのエピソードがあり、それは筒井ともみさんが書いて、そのストーリーは悲惨な結果に終わっていた。
 しかし、その1回こっきりで、後に浮いた話のひとつもないのはかわいそうである。残された話数は少ない。
 そこで、もう1度、1回こっきりで、後を引かないゲストを用意した。
 クインシュタインが教師をしていたころの男子生徒で、今は、マリンに引けを取らない実力を持つ男に成長したデビットというゲストである。
 教師と生徒との恋愛は、よく聞く話である。
 高校生の時、教え子のはずの女生徒と結婚した男の教師の例は、僕自身も2、3人知っていた。
 女の子は、かっこいい男の先生に恋愛感情を抱くことがよくあるそうである。理由は簡単。同世代の男の精神年齢が低くて、がきっぽくて恋愛の対象にならないからである。
 今は、特に男のコの精神年齢の低下が目立ち、女の子の恋愛対象が、どんどん上になり、先輩を通り過ぎ、コーチ、先生、おじさんにまで到達している。犯罪に近いのではないかと疑いたくなる年齢差の恋愛関係も、最近は珍しくなくなった。
 だが、男子生徒と女教師の場合はどうだろう。映画や小説ではあっても、現実にはまずないと思う。女教師側も、教え子の男のコを、恋愛対象の男としては見ないだろう。仮にいたとしたら、相当、変な趣味の女性だと思う。こんなことを書いてしまって、僕の近くにいたらどうしよう……。だが、教え子が大人になって、男のコではなく、男として現れたらどうだろう。
 僕が高校生のときである。30前後のかなり美人の世界史の女性教師がいた。その先生の授業で、いつもは先生の話など耳に入れないで、マンガ本などを隠れて読んでいた僕が、目が点になるのではなく、耳が点になるような説明を聞いた。
 「アメリカのバージニア州は、イギリス女王が、処女、つまりバージンだったことからつけられのです」
 そんなことは、教科書のどこにも書いていない。受験の問題にも出ないだろう。
 情けないが、僕たちは処女とかバージンとかいう言葉には、敏感な年頃だった。
 そんな言葉が、若い美人教師から、平然となんのためらいもなく、出てきたのである。他の男子生徒もその台詞に、息を飲まれて静まり返ってしまった。その先生は、顔色ひとつ変えず授業を終えると、「では、またね」と言ってスタスタと教室を出ていった。
 それ以来、その先生の授業だけはまじめに聞くようになった。
 その態度が、先生の目についたのだろうか、学校の最寄りの駅で、スケッチブックを持って(教科書などは学校のロッカーに放り込んで登下校していた)電車待ちのベンチに座っていると、その先生が、横に座った。
 「首藤君、絵をやるんだ。どんな絵を書くの? よかったら見せてくれない?」
 「はあ」としかいいようがなかった。担任でもないのに、僕の名前を知っているのにびっくりしたのだ。
 先生は、僕のスケッチブックを1枚1枚めくって見終わると、
 「画家になりたいの? がんばってね」
 「はあ」……ここは学校最寄りの駅である。こんな様子を人に見られたらどうするんだと思ったが、もう遅い、ホームは、学校の生徒が一杯で、こっちを見ている。そこに電車が入って来て……電車の中ではなにも話さなかった。僕は各駅停車、先生は準急だったので、準急の停車駅につくと、「じゃあ、わたしここで……」と言って降りていった。
 今のはなんだったんだろうか……。僕はしばらく、考え込んだ。後で、同級生から「あの先生、独身だぞ」と、からかわれた。
 その当時は、ガールフレンドがいたから、年齢差のあるその先生のことを、恋愛感情と結びつけることはなかった。その先生とは、当たり前だが、何のこともおこらず、僕は卒業した。だが、どこかで、ひっかかってはいた。
 もしも、僕が、あの先生を好きだったったらどうなっただろう?
 「好きです」と手紙でも書いたら、あの先生はどう答えるだろう?
 『バルディオス』「地球氷河期作戦」のアイデアのきっかけは、そこから生まれている。日常のささいな出来事がどんな脚本に化けるか分からないという見本のようなものだ。
 ところで、この脚本には、ナレーションが多い。本来、ナレーションの多い脚本は、よくないと言われる。状況どころか、登場人物の心情まで説明してしまう場合が多いからだ。
 だが、僕は、この脚本にはあえて、ナレーションを多用した。
 この作品のナレーションは、地球が大変なことになっているということだけがわ分かればいい。この作品の場合に限って、ナレーションが語る内容は、じっくり読まれるわけではなく、音になって短い時間で、視聴者に聞こえるのだから、内容を詳しく理解してもらうことを期待していない。
 音響効果として、緊迫感が感じられればいいのである。
 この作品には、いくつかの見せ場がある。そこに視聴者の関心が向けば成功である。ナレーションはそれらのシーンへのつなぎとしての、あくまで効果でしかない。
 その分、見せ場はじっくり書いてあるつもりである。
 デビットが自分の気持ちを、まず、クインシュタインではなく、S―1星人であり、ライバルでもあるマリンに、なぜ話したか……。
 マリンはあの時点ではS―1星人であり、地球人ではない。
 デビットが、バルディオスを操縦できるようになれば、地球人として最初の人間になる。地球人にとって、マリンが大切か、デビットが大切か、マリンもデビットも分かっているはずである。
 それでも、デビットは、特攻を志願した。
 クインシュタインも、デビットの気持ちを理解できている。
 しかし、午前一時の鍵を、どういうつもりで開けておいたのか……。
 これがアフロディアなら、相手がマリンでも開けてはおかないだろう。
 仮にアフロディアがマリンを愛していても鍵を開けないだろう。
 ここが、一番、僕の困ったところである。
 簡単なのは、クインシュタインの最初のラブ・ストーリーを書いた筒井ともみさんに、聞くことである。当時の筒井さんは、クインシュタインと同年代だった。クインシュタインの心情を聞くには、ぴったりの人なのだ。電話1本で済むし、話が長くなりそうなら、会って話し合ってもいい。当時、僕と筒井さんの家は、駒場の東大をはさんで、歩いて20分もかからないところにあった。
 ということは、こんなクインシュタインを書いてと……怒って怒鳴り込まれるかもしれない。筒井さんとは、クインシュタインについて話したことはないが、他のところから、僕の書く「地球氷河期作戦」のクインシュタインを気にしているという噂は気いた。
 おまけに、その当時、別れてこそいたが、僕のガールフレンドが、同年だった。電話すれば、答えてくれないほどひどい別れ方はしていない。
 女性の30代前後は難しい。
 結局、誰にも聞かずに、いささか、僕にとって理想的なクインシュタインにした。幸いどこからも不満らしいものは出ず、放映後、若い女の子からファンレターや好意的な感想文が、かなりきたのは驚いた。
 「○○や××のためには死ねない。だが、あなたのためなら死ねる」
 太平洋戦争中の特攻兵の遺書に、時々見られる悲痛な言葉だ。
 不謹慎だが、僕もそんな台詞を言ってみたかったが、さすがに、そんな図々しいことを言える機会もなく、今となっては、そんなことを言えば、相手に気持ち悪がられ、病院に叩き込まれるかもしれない。
 「女のために死ぬなんて、オレも馬鹿だね」
 この台詞については、それに近い気持ちになったことはある。
 もうひとつ、付け加えるなら、女の子ジェミーが、デビットが特攻する前夜、酒をすすめられて、「ようし、飲んじゃえ」と、がぶ飲みするシーンもそうとう考えた。彼女がどんな気持ちだったか、かなりいろいろ分かっている女の子のつもりで書いた。
 「地球氷河期作戦」は4分の1世紀前書いたシナリオだが、今読めば、若かったんだなあと微笑ましく思え、照れ臭くなるところも多い。
 なお、映画版のデビットは、僕は脚本に加わっていないし、上映時間や、酒井氏の予期せず登場したキャラクターだったこともあって、ほとんど別人に描かれている。

   つづく


●昨日の私 (近況報告)

 モンタージュを脚本にどう活かすか?
 簡単に言えば、映画の全てのシーンが、それぞれ違う意味を持っていて、それをつなげると、作者が狙うひとつの意味が浮かび上がってくればそれは、成功した脚本ということになる。
 トーキー化した現代の映画は、音もモンタージュとして大切な要素になってくる。
 特に台詞は、異質な個性のぶつかり合いのモンタージュである。
 男が「好き」と言って女が「好き」と答えて、2人が「好き」同士では、すぐれたモンタージュとは言えない。
 男が「好き」と言って女が「好き」と答えて、実は二人が「憎みあっている」……。
 男が「好き」と言って女が「嫌い」と答えて、実は女が男を好きである……または2人が「嫌い」と言い合って、実は愛し合っている。
 そういった異質の台詞のやりとりがモンタージュされて、会話にはずみがついてくる。
 脚本の先生達は言う。
 脚本で大切なのは、テーマである。構成である。台詞である。ストーリーである。
 ある程度の脚本技術を修得すれば、脚本らしきものは書ける。
 どれも正しいと思う。
 でも、それより先に、モンタージュを意識することだ。
 映画をたくさん見て、モンタージュの効果に気がつけば、実は、もうひとつのことに気がつくようになる。
 映画やテレビ以外の現実の世界の中にも、モンタージュの効果が、頻繁に現れているのだ。
 普通の人たちの何気ない会話の中にも、意識されていないモンタージュがある。
 普通の人々の会話には、リアリティがある。
 作り物の台詞ではないからだ。
 それらの台詞がモンタージュされたとき、気の効いたリアリティのある会話になる。
 映画を見おえた帰りには、街を歩こう。
 DVDやビデオを見たら、ちょっと街に出てみよう。
 映画でとぎすまされたあなたの感覚、あなたの耳に、様々な会話が飛び込んでくるはずだ。いいな、すてきだな、という台詞が、必ず見つかる。向こうから見つけてくれといわんばかりに聞こえてくる。
 それを、覚えておこう。
 そんな台詞が、いつか、別の、全然関係のない会話の中に放り込まれたとき、素晴らしいモンタージュ効果を発揮するかもしれない。
 何度も言うが映画のモンタージュを意識できるようになるまで、100本か200本の名画を集中してみることだ。
 その他の、映画理論やシナリオの基礎知識は、モンタージュを意識できるようになってからで十分だ。
 シナリオや映画の参考書を読むのは、まだまだ早い。
 他にやっておきたいことが、もう少しある。

   この項、モンタージュについては、おしまい。
 

■第31回へ続く

(05.12.21)

 
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