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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第24回
フィナーレにならなかったフィナーレ

 時代を遡り、再び、「シナリオ研究所」の頃に戻る。
 研究生の間を「十八才の童話(メルヘン)」で、押し通した僕だったが、研究所を一応終了する時に、卒論風にもう1本、シナリオを書かなければならない羽目になった。今度のシナリオの長さは、映画並みという条件が合った。
 上映時間にして一時間半から二時間弱の作品である。
 20枚シナリオから、わずか半年ほどで、200枚近いシナリオを書けと言う方もどうかと思うが、流れ作業のように次々と卒業生を吐き出して行き、どんどん新入生を入れて入学金をかせがなければ経営がなりたたない企業としての「シナリオ研究所」としては、いたしかたのないことなのかもしれない。
 僕としても、区切りとして、映画シナリオの1本ぐらい書いておかないとなんのために「シナリオ研究所」に入ったのか分からなくなってしまう。僕は部屋にこもって何を書こうか考えた。
 時は、1968年、70年安保(日米安全保障条約)の2年前である。
 安保には関心のないノンポリの僕も、その日が、日本の今後を決める大切な日であることは知っていた。
 その日、いったい日本人は何をして過ごすだろう。そんなことを考えているうちに、シナリオの外殻が出来てきた。
 主役は、安保の日、一日である。その日、お互いには、なんの関係もない様々な人々が、どんなことをしているだろう。
 二十人以上の主人公が、それぞれの一日を過ごす。学生運動の青年もいれば、フーテン、政治家、商店主、マスコミ、自衛隊、一日中、ベッドで抱きあうことしか考えていない男女etc……様々な人間が様々なことをしながら、同じ時間を共有している。背景には、機動隊と安保反対派(それぞれいろいろな派がある)。安保反対派の目的は、国会議事堂のてっぺんに自分の派の旗をたてること……そうはさせじと防戦する機動隊との間で起こる戦争ごっこスペクタクルの喧騒。
 それらを、モザイクのようにちりばめて描く一日だけの物語。
 結末は、彼ら日本人と関係のないところで第三次世界大戦が起こり、米国側と見なされた日本に水爆が落ち、あっという間に東京は焼け野原……もちろん第三次世界大戦の起こる伏線は、様々な人間模様のモザイクの間に忍び込ませてはいる。
 70年安保一日の中で、我々日本人は、我々はなんだったのかを描く、壮大なテーマのつもりのシナリオだった。もっとも、焼け野原になった東京に、植木等さんの無責任な……なるようにしかならないさ……というような歌が流れる群衆喜劇でもあった。「なるよになるだばないだばさ」と、作者が登場人物達に感情移入しない、みんなをつきはなしたような喜劇である。
 僕は部屋で七日間、飲まず食わずで徹夜して書いた。もっとも、そんなこと、人間には不可能で、本人がそう思いこんでいるだけだったかもしれない。枚数は約400枚……三時間を越す超大作である。切れるところはなかった。おまけに、提出した後、ラフなところを自己修正したら600枚を越えていた。
 これでは、読んでいただく先生があまりに気の毒である。僕は親切にもシナリオの途中に休憩をいれて、「お疲れさまです。ここでお茶でも飲んで下さい」と書き添えておいた……そんな長いものを書いてどこが親切だ?……その休憩のせいだけでもないだろうが、読んで下さった先生は雑誌「シナリオ」に好意的な批評を書いてくれた。
 しつこく言うが、コンクールなどでは、枚数制限を守ること。
 僕のような制限破りをしたら、よほど親切な審査員でなければ読んでくれないし、読んでくれて好評でも、枚数制限に引っ掛かり当選は無理である。
 ただ、書くことの嫌いな僕が、書こうと思ったら、書けるところまでやり、1行も切れないものが出来てしまったのである。
 脚本家になりたい人は、コンクールを狙うための枚数を意識しないで、萎縮することなく、切れないところは無理に切らないで、書けるところまで書いてみることも必要だと思うのである。
 プロのライターの中には、枚数制限どころかCMの時間まで考慮に入れて書く人がいるが、CMという発車寸前の電車に駆け込み乗車するようなシナリオの書き方は、いかにプロでも、みっともないから止めておいたほうがいい。描きたいものを描ききれずに終わることが多いからだ。
 もっとも、そのプロライターに、描きたいものがあればの話だが……。そんなものがなければ、CMに駆け込むシナリオの書き方も、訓練すればプロとして通用する作品が書けることを、あえて僕は、否定はしない。
 ところで、僕の書いた超(?)大作は、主人公不在(本当は安保の日、一日が主人公なのだが……)でも作品になることを、僕自身に自覚させてくれたし、登場する個々のエピソードは、それぞれ別の作品に流用が利いた。
 おまけに、数十年後、この作品をモチーフにした「都立高校独立国」という小説にもなった。……この小説を読んだ、当時、徳間書店にいた鈴木敏夫氏(現・スタジオジブリ)が、「首藤剛志も全共闘の影響をうけているんだね(つまり団塊の世代)」と言ったそうで……。うーん、見抜かれている。
 その脚本の題名は「フィナーレ1970」。
 内容はまるで違うが、僕の書いた全九巻の小説「永遠のフィレーナ」に、題名と主人公の名前(フィレーナ)が似ているのは――いささかイージーな名付け方かもしれないが――偶然ではないのである。
 ともかく、飲まず食わずの七日間の徹夜は、無駄にならなかった。
 ついでに勢いで「十八才の童話」の暗黒面ともいえる「十八才の殺意」という中編も書いたが、これを読んだ人は少数で、映像化はもちろん、誰かに読んでもらうことも今は遠慮したい。
 それは、無差別連続殺人を続ける十八才の男が、「なぜ、自分がこんなに簡単に人を殺せるのか」と考え込み、その理由を探ろうとするストーリーだ。いわば自分探しの話だが、現在では、現実の方が僕のシナリオを越えている気がして、人目にさらす気にならない。十八才の当時だから書けたので、十八才が遠い昔の今の僕には、到底、書ける代物ではないとも思う。
 どんな作品でも、現れるタイミングがあるのだ。
 だから、皆さんの中で、今、書きたい、描きたい、何かがあれば、どんなに下手でもいいから書くかメモチェックしておくべきである。
 後になって、それが作品になって表現できる日がくるかもしれない。
 もっとも、歳を取りすぎて、作品にするには、遅すぎる感性の持ち主になってしまう場合もある。僕にとって「十八才の殺意」はそんな作品で、今は、蔵の奥にしまっておくしかない。
 さて、十八才から二十才までの僕は、書くことが嫌いなこともあって極めて寡作である。しかし、その寡作な数作品が、そこそこ評判がよかった。しかも、年齢としては、シナリオを勉強している人たちの中では、一番と言っていいほど若かった。
 たぶん、それが、他のシナリオ研究生の注目を引いたのだろう。
 いままでは、シナリオの授業の後は、いつも、お茶に誘われていたが、それが、酒に誘われるようになった。
 僕は、そんな酒が嫌いだった。
 首藤剛志が酒が嫌い!
 業界一、酒好き。いや、アルコール中毒じゃないかとさえ言われているこの僕が酒が嫌いだと言っているのである。
 僕を知る人は、びっくり仰天するだろう。
 だが、現実はそうなのだ。
 次回は、そのあたりを書いてみようと思う。

  つづく


●昨日の私(近況報告)

 映画を見る話を続けよう。
 あなたは、先週から何本、昔の映画を見ましたか?
 なぜ、過去の名作(中には迷作もあるだろう)を見るのを勧めるか。
 一般的な理由として、脚本の打ち合わせの時に、「あんな映画の話にしよう……」とか「あんな映画の感じで……」とか、「このシーンは、あの映画のパターンで……」などという会話が、プロデューサー、監督他のスタッフからよく出てくる。そんな話題になる映画を、脚本家が見ていないのでは打ち合わせがスムーズに運ばない、というのがある。
 だが、昔と違って、プロデューサーも監督も若くなっている。
 名前は知っているが、実物を見ている人は、案外少ないのである。
 だから、彼らが口に出す過去の名画も先輩から聞いたイメージで、話している場合が多い。
 又聞きの、又聞きの、又聞きのイメージで、話している事も多い。
 だから、こちらも、又聞きのイメージで相手をしていれば結構、話は通じてしまう場合も多い。
 「ここはヒッチコックのサスペンスタッチで……」なんて言いながら、ヒッチコックの映画を誰も見ていなかった、なんて事もありうるのである。
 つまり、脚本打ち合わせのために、過去の名作を見ておけ……というのは、少しは理由になるが、全部ではない。
 では、なぜ、過去の名作を見ておくべきなのか……。
 実は、今、TVや映画になっているものは、ほとんどが、過去の名作のコピーや現代風アレンジなのである。
 「もう、映画やTVで、新しいストーリーなど生まれない。全て、過去の作品がやり尽くしてしまった」
 と、言いきる人もいるくらいだ。
 「これは、小説をふくむ文学にも言えることで、手法やアレンジで、新しく見せかけているだけだ」
 と、これも言いきる評論家もいる。
 だとすると、我々が見ている新作と呼ばれるものは、みんな、過去の名作のコピーということになる。
 さらに、そのコピーをコピーした新作が作られていく。
 コピーを続けるとどんなものでも劣化してくる。
 どんなに映像技術が発達して目新しく見えても、コピーはコピーである。
 現に、過去の名作をリメイクしたものに、オリジナル以上の作品ができ上がったものはほとんどない。
 コピーはできるだけ劣化しないほうがいい。
 コピーを見て参考にするなら、オリジナルを見て参考にするほうが、劣化が少なくて済む。
 又聞きには、聞いた人の主観が混じる。だから、又聞きは、話している人の主観で見た事、聞いた事が、耳に流れ込んでくるだけで、本当のオリジナルを知るには、自分でオリジナルを見るしかないのである。
 個々で、例を引くのは申し訳ないが、「ガンダム」だって「ナウシカ」だって、その元になるものがあるはずである。
 それを、富野氏や宮崎氏は、自分流の感性や方法でアレンジした。
 「ガンダム」や「ナウシカ」をオリジナルだと思いこんで、あなたがそのまた、コピー版やアレンジ版を書いたとして、「ガンダム」や、「ナウシカ」以上のものが作れるだろうか?
 だからこそ、あなた独自のコピー版、アレンジ版を作ろうとするなら、オリジナルを見るしかないのだ。
 今、新作と言われる作品は、コピーのコピーコピーがほとんどである。
 それをあなたがコピー、またはアレンジすれば、作品的には劣化の速度を速めるだけである。
 ここに書いたことは、過去の名作を見ることを勧める理由のほんの一部分に過ぎない。過去の名作を見なければならない理由は、もっともっと、大切なことがいっぱいある。

  この項つづく
 

■第25回へ続く

(05.11.09)

 
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