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第222回 限界シリーズコンストラクション
前回書いた、土砂降りのセントラルパークでの経験で、僕の中の何かが吹っ切れたような気になった。
うまく表現できないのがもどかしいが、自分なりにこだわっていた『ポケモン』への気持ちがどうでもよくなってしまったのだ。
比べる方が無茶なのだが『ポケモン』を媒体にして何かを表現しようとしても、おそらく誰の意思も関係なく降ってくる土砂降りの雨にはかなわない。
様々な人種の子供たちが土砂降りの雨の中で思っただろう、「雨が早く止まないかなあ」という共通の気持ち。『ポケモン』で何を表現したところで、単なる自然現象でしかない土砂降りの雨ほどの共通の意識を、子供たち(大人も含めて)に持たせることはできない。
僕が日ごろ書いている脚本は、何かのテーマを主張するようなものではないつもりだ。
完成した作品を見て、何かを感じてください……である。
土砂降りの雨にあって、何かを感じてください――似ているような、似ていないような。違いと言えば、片方は人為的であり、片方は自然現象である。
ところで、今までこのコラムで書いてきた僕の脚本についての解説は、あくまでこういうつもりで書きましたが、みなさん、いかがお感じになりましたか?――である。
脚本を書いた者が自分の脚本について語るとしたら、「書いたつもり」のことを語るしかない。
読みようによっては、でき上がった作品への脚本家からの弁解にとられても仕方がない。居直っているように読めるところもある。
しかしそれは、脚本家の書くこのコラムが嫌でも持ってしまう性格のようなものかもしれない。
僕の「書いたつもり」を、作品を見たあなたがどう感じたかは、あなたの勝手である。
お前の「書いたつもり」は私たちには全然伝わらないよと言われれば、「あ、そうですか。すいません」が僕の姿勢である。
それでも、往生ぎわ悪く「僕の書いたつもり」は伝わらなくても、「何かは感じたでしょう?」と思いたいのが、僕の正直な気持ちである。
でなければ、僕が何を書いても、それは他の人にとっては無意味な僕のマスターベーションに過ぎなくなる。
世の中には作家のマスターベーション的なものがいくつもあり、それが評価される場合も多い。
特に、日本には私小説という分野があり、その手の作品が好まれる傾向がある。
僕は、そういう類のものは見るのも読むのも書くのも苦手なタイプなようだ。
「なんだかごちゃごちゃ表現したがっているけれど、そんなものは人に見せずに勝手に自分で処理しろ。見せられるこっちは迷惑だ」と、思ってしまう。
表現とは、相手あってのものである。
自己満足は表現ではない……と思いたい。
しかし、僕が経験したセントラルパークの土砂降りの雨は問答無用である。
強引に、当事者の気持ちを一つの方向に向けてしまう。
おまけに、そこにはアクセントとして、その雨の中で喜々として踊っている黒い肌の2人の子供までいる。
そこに展開される情景は、土砂降りの雨という自然現象が作りだした、見事でドラマティックな作品だ。
しかもそれはドラマではなく現実である。
かなわないな……と僕は思った。
「人間ってなんて小さな存在なんでしょう」などという表現は、世界中にある、有名で壮大な大自然の風景を前にして、よく使われる。
僕の場合、それがニューヨークのセントラルパークの子供向けの広場の、多分、年間によくあるだろう土砂降りの雨の中でだったというのが、ちょっとせこい感じもしないこともないが、ともかく感じてしまったのだからどうしようもない。
余談だが、5歳から9歳まで北海道で育った僕は、広大とか壮大とかいう大自然には免疫ができてしまい、例えば子供の目線で見た北海道の根釧原野は大人の目で見たシベリアの原野より広く、さらに記憶の中で膨れ上がっている(子供目線と、記憶の中での膨張した印象について意識しておくのは、子供の世界を描くときにかなり重要だと僕は思う)。
というわけで、僕は、いわゆる大自然の驚異という景観には、ほとんどびっくりしないのである。
まあ、宇宙から地球を見たら、違う感慨を持つだろうが、そんな機会はなさそうだし、多分それが可能だとしても、「宇宙はでっかい」とは思わず、「地球ってちっけえなあ〜」と感じる気がする。
何をぐだぐだと書いているのか? それが「ポケモン」と何の関係があるのかというと……つまり『ポケモン』アニメで何かを表現するには限界がある、もっと大きなものが必要だ、ということだ。それが何かは今だに分からないが。
しかもそれは、大きいといってもセントラルパークの土砂降り程度のものでいいのである。しかし、そんなものを人間が作り出せるか? 無理でしょう……と、あっさりとした敗北感を感じたのである。
その敗北感は気持ちがよかった。
それでも、病みあがりで2人の女性と1人の女の子を連れたニューヨークのいきあたりばったり旅行はくたびれもした。
傍目にもくたびれは見えていたらしく、あるプロデューサーから「普通でも疲れるのに、退院後にニューヨークなんて無茶だよ」と言われた。
そして、いつものようにポケモンの脚本会議がはじまった。
会議には出ているものの、ほとんど、ぼーっとしていた。
出ているだけで疲れて気を失ったように眠ってしまい、総監督から、机の下で足をそっと蹴られて目を覚ましたこともある。
いささか、反省した。
映画の4作目を書こうとも思ったが、何も思いつかない。
書くとしたら、僕個人が最終エピソードとして想定していた、ポケモンによるローマ時代のスパルタカス的反乱(一見、友達のような関係に見えて、実は奴隷的な使われ方をされていることに気づいたポケモンたちが反乱をおこす)が勃発、ピカチュウがリーダーになり、サトシと戦わなければならない状況になり、その戦いの仲裁に、ダメなポケモンを可愛がっているロケット団トリオ(ポケモンの言葉を人間語に通訳できるニャースがいる)が、いい加減な通訳をしながら大活躍をする……ぐらいしかなかった。
しかし、そんな『ポケモン』アニメの掟破りのようなエピソードは、シリーズが続けられる間は続けようとする方針の『ポケモン』アニメでは不可能である。できるとしたら、文字どおり、最終のエピソードだろう。
他のエピソードを考えようとしても出てこない。
話が前後するが、「ニャースのあいうえお」という、ニャースが人間語を話せる由来エピソードは、ロケット団のニャースが人間語を話すという設定が決まっていたころから考えていた。
人間になろうとして人間になれず、ポケモンのニャースとしても特異な存在になってしまったロケット団のニャース――ある意味、クローンポケモンであるミュウツー的な存在が、人間とポケモンとの戦いの仲裁に生きがいを感じ、大活躍する。
「ニャースのあいうえお」は、そんな最終エピソードの伏線にするつもりだった。
他に映画的なエピソードを思いつかない僕は、映画の4作目を降ろしていただいた。
4作目を担当することになった脚本家の方から、映画の興行成績が落ちてきた頃だったからか(それでも他の映画と比べたら図抜けていた)「勝ち逃げですか?」と言われたのを覚えているが、映画になるようなエピソードが僕には思いつかないのだから、むしろ、「負け逃げ」と言われたかった。
で、映画の代わりに書かせてもらったのが、スペシャル番組の『ミュウツー我ハココ二アリ』である。
ミュウツーの話は、一応、僕自身でケリをつけたかったので書いた。
この作品、地方によっては、一度に放映されるのではなく、3週連続で放映されるところもあり、1話から2話、2話から3話へと続く山場の位置に気を使うのと、ミュウツーエピソードの最終回にするために、かなり時間がかかった。
同時期、ついでと言っては妙だが、シリーズ構成(コンストラクション)も、降ろしていただいた。
考えてみれば、『ポケモン』アニメはバトルゲームのアニメ化である。
見せ場はどうしても、ジム戦やリーグ戦のバトルになる。
別に意識したわけではないが、僕は、シリーズ構成でありながら、バトルの勝ち負けが決め手になるジム戦やリーグ戦のエピソードを書いていない。
戦いの勝敗で一喜一憂する話を、僕は苦手にしている。
バトルエピソードを無意識に避けていたのかもしれないし、あえて書きたいと思わなかったことも確かである。
しかし考えてみれば、バトルゲームのアニメ化のシリーズ構成がバトルエピソードを書かないのは、変である。
ともかく、初期は『ポケモン』のアニメシリーズを軌道に乗せることを考えていたから、できるだけパターンに陥ることのないよう、毛色の変わったエピソードばかりを書いていた。
どうせ書くならパターンでないエピソードを書きたかったことも確かだ。
しかし、10年以上続けるとなると(事実、続いている)、かなりきつい。そうなると、ある種のお約束も必要である。パターンも慣れれば強いのだ。
そのパターンが、僕には辛い。シリーズ構成としての僕には向いていない。
それに、『ポケモン』のシリーズ構成に限り、それまでのシリーズ構成作品ほど全体的な工夫を僕はしていない。
他の脚本家の方の脚本に直接手を入れたのは1回だけ、それも数行だ。
僕のシリーズ構成作品につきものの、へんてこりんな予告も書いていない。
他の方たちのシリーズ構成法はどんなものか知らないが、僕としては、自分流のシリーズ構成はしていない。僕流のシリーズ構成は、いてもいなくてもいいような気がしていた。
さらに、脚本制作状況を把握して、その記録をつけ、いろいろ脚本のアイデアを出すプロデューサーの方もいた。
それに、アニメ化開始当初はともかく、映画のヒットやゲームの売れ行きやグッズの売れ行き拡大など、ビッグプロジェクトになってしまった『ポケモン』は、妙な工夫をして失敗をすれば、関わる人が膨大なだけ、影響が大きい。
旅客機の機体やJRから、バッタもののぬいぐるみ(それはそれで、それを作る人の生活がかかっている)まで、ともかく、失敗が許されないものになっていた。
そこに、セントラルパークの土砂降り体験である。
なんとなく気が抜けて、『ポケモン』のシリーズ構成が辛くなっていた。
僕は辛さを人に見せないタイプではない。露骨に見せる困ったタイプである。
そんな時、体力、気力、喪失。体調不良。他の人の目からは、そうとうひどい状態に見えるようだ。
そして、プロデューサーから言われた。
「1、2年、すこし休んだら? 大丈夫。『ポケモン』は、2年後3年後どころか、当分続くから」
とりあえずシリーズ構成なしで続けるという。
プロデューサーの方たちが、『ポケモン』アニメのパターンが確立したと思ったのか、なんにもしないシリーズ構成はいらないと思ったのかは知らない。
そう言われると、まだパターン化は早すぎる気もする。
で、「シリーズ構成はやめさせていただきますが、月に1本ぐらいは……」なんて言ってしまった。
なんのことはない。月に1本なんて、シリーズコンストラクションのタイトルがついていたころより、きついペースである。
しかも、今まで以上にパターンにはまらない風変わりなエピソードを書くことに、自分で決めてしまった。
僕自身、かなり急に決めてしまったので、オープニングシーンの制作都合で、シリーズコンストラクションを止めた以後にも僕の名が記されている場合もあるが、それもやがて消え、しばらくの間、『ポケモン』アニメにはシリーズ構成も、シリーズコンストラクションの名もない時代が続くのである。
当時、禁煙中だった僕と総監督(彼は今も煙草を吸わない)がいるにもかかわらず、1時間ごとに入れ替わり立ちかわり入ってくる脚本家の方たちには煙草を吸う人もいて、僕の座る椅子はクーラーの前で、つまり、クーラーに吸い込まれる煙草の煙が僕を直撃し、それが堪らずシリーズコンストラクションを降りた……という噂があるようだが、それほど、いいかげんな理由で辞めたのではない。『ポケモン』のシリーズコンストラクションとして、限界だったのだ。
ただ、シリーズコンストラクションを降りた後、かなり心残りだったのは、ロケット団トリオの行く末である。
だから、降りて以後、一脚本家として書いた『ポケモン』の脚本では、ロケット団トリオをかなり意識している。
現在もエピソードを作るには何かと便利なロケット団トリオだが、あんまりパターンの間抜け悪役にはしないでほしい。
それが、少しだけ気になっている。
番組開始当初、『ポケモン』アニメの主役になって見せると、やる気満々だったロケット団トリオ役の声優さんの顔と声が、今も時々浮かんでくる。
あれから、十数年かあ……。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
ここ数年のアニメ映画は、やたらと面白い。約1本……日本の戦艦が宇宙を飛んでいくアニメを除いては、『8月のシンフォニー』という、ほとんど映画館にお客がいなかった渋谷のアイドル歌手(『ようこそようこ』じゃありません)のプロモーションアニメにしか思えない作品ですら、あの手この手で、一所懸命工夫している。
もちろんアニメ映画を全部見ているわけではないが、日本のアニメは日本のアニメなりの成熟期が来ているのは確実だろう。
虚構と現実のわけわからなさに固執していたいい歳のおじさんアニメ大先生は、何を思ったか、突然、宮本武蔵のトンデモウンチク話を始めて、これがこの先生のアニメの中で一番面白かったりして、もっとも虚構と現実のごちゃまぜという意味では筋を通しているわけだから流石である。
虚構と現実の逆転という意味では、草食系のため口だらけのぼうやのモノローグが面倒くさかったテレビ版が実は予告編で、映画版が本編というアニメ。そのモノローグだらけで退屈させず2時間半以上を埋め尽くし、ついに本音を言ってしまうという超トリッキーアニメには、その本音には賛同しかねるが、ともかく唖然とさせられる迫力があり、このアニメ、TV版を見ていなくても分かるという極めて行き届いた配慮など、もはや大人の作風である。
オタク系男子で超満員のこの大長編アニメに限らず、どのアニメも、それなりの話法、作風を確立しつつあり、頼もしい限りである。
CGやらなんやらかんやら使いながらも、基本はリミテッドアニメのぎくしゃくぶりをしっかり武器にして、それぞれの世界を作り上げようとしている。
今や日本の映画は、アニメである。
実写映画にもこれはと思うものもあるが、よく見りゃ俳優のキャラクターに頼った、ほとんどひと時代前のアニメの模倣のような気がする。
で、問題は、今の花盛り状態のアニメに、脚本がどれだけ機能しているかである。
それを考えると急に心細くなる。
アニメの脚本は、誰でもできる脚本家では無理ではないか?
新しい発想が必要とされているのではないか?
不景気な世の中で、アニメ育ちの人たちが、火事場の○○力で作っているような今の日本アニメ……誰かが守ってやらなきゃいつか力尽きる日が来るかもしれない。
脚本は、アニメの力になることができるのだろうか?
モノローグだらけといえば、京都の大学生生活のいかにもさ(?)を描いた深夜に放送中のアニメ、あの面白さは脚本の力とは思えない。モノローグは絵を追っかけている説明にすぎない。あれは脚本ではなく効果音である。あのアニメは、それがまさに効果的で面白い。
しかし、モノローグで用が足りるアニメだけが、アニメではない。
モノローグが「ああ、いい脚本が欲しいなあ」と、ぼやく日がそこまで来ている気がする。
つづく
■第223回へ続く
(10.05.19)
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