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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第206回 『ポケモン』をあと10年

 『ルギア爆誕』も、第1作目の『ミュウツーの逆襲』同様、脚本家にとっては幸運だった作品かもしれない。
 『ミュウツーの逆襲』の直前に、TVアニメ『ポケモン』を見ていた視聴者が次々と倒れるというピカピカ事件が起きた。
 映画制作上層部は、その事態の収拾に懸命になって、脚本に対する注文が出てくる余裕がなかったように僕には感じられた。
 『ミュウツーの逆襲』が、予想をはるかに超えるヒットになり……それが、大プロデューサーの「1作目には色々言いたいこともあるが、これだけヒットしたんだから2作目に対しては何も言わない……ただ、タイトルに『爆誕』という言葉は入れてくれ」という発言になった。
 ゲームや配給会社などの人たちが集まる大会議の多数決で、ルギアという名前が決まったのは、前にも述べた。Xことルギアは、この映画専用に僕が考えたポケモンで、映画の後にできたゲームやTVアニメのエピソードにまで登場してきたのは、僕自身驚いた。まあ、アニメ制作側とゲーム制作側にいろいろなことがあったのだろう、と今は予想しているだけだ。
 考えてみれば、この2本のポケモン映画は、アニメにしては、「自己存在」「共存」など、子ど向きとは思えないテーマを裏に抱えている。
 そんな辛気臭い話は止めておけ、子供は喜ばない、といわれるのが普通かもしれない。
 そんなものをやろうとは魔がさしたとしかいいようがないかもしれないが、もともと僕は、いわゆるお子様向きの脚本を書けるタイプではないのである。
 さて、『ルギア爆誕』を書くには、相当体力がいった。
 この脚本、最初の4分の1の部分は、スタッフに読んでもらっていた。
 深層海流について、ある程度スタッフに知っておいてもらいたかったからだ。
 それはサトシたちもロケット団も出てこない脚本だった。
 スタッフからそれを指摘されたが、当然僕もそれを意識して書いたので、ファーストシーンからレギュラーが出るように書きなおした。
 つまり、僕が脚本を書いている間は、いつでも皆さんの検閲、ご意見を聞きますよ、という姿勢を見せた。
 それで安心されたのだろう、完成するまで、残りの4分の3を見せてくれという声は出なかった。
 実際、僕にとって大変なのは、残りの4分の3だった。登場人物の自己存在意識に目覚め、他者との違いが分かれば、普通は喧嘩になる。別れになる。それなのに違いを認め合いながら共存しているように見せるのが、この『ルギア爆誕』である。

 「あなたはあなた。他人は他人。互いに違っているのはあたりまえなんだから、そう思って相手と付き合うと喧嘩せずにすむよ」――子供向けに語ればこういうテーマである。もっとも、大人が難しく考えると哲学臭も匂ってくるが……
 このアニメには様々な登場人物がでてくる。
 僕は、自分の書いた登場人物になりきって、その気持ち、その台詞を書く。
 自分のよく知っているタイプの人間の行動や台詞は楽である。
 それぞれの人格になりきって書いている時もある。
 だから、仕事場で僕がものを書いている姿は、人に見せられない。
 登場人物になりきって動いてみたり、台詞を呟いたりするからだ。
 しかも普通の現代劇でなく、アニメのそれである。
 はじめて見る人は、多重人格者を見せられているようで怖いかもしれない。
 だが、『ルギア爆誕』は調子に乗りすぎた。
 僕は登場人物の範囲を広げすぎたのだ。
 僕の知らない人物像を出しすぎたのだ。
 コレクター、女船長、巫女卒業生(この人は後で気がつけば身近にいた)、現代っ子でなりたての巫女、「観光誘致」に懸命の長老(このタイプは『夢の中の輪舞』に出したが、違う人物像にしたかった)その他……。実は、脚本で自主カットして上映されたアニメに出てこない登場人物もかなりいたのだ。
 しかもルギア自身も、声は男の声だとはいえ、僕の中ではオスとメスがこんがらがっている。
 それぞれの台詞は短い。短いゆえに、それぞれにとって適格でなければならない。
 漁民の方の気持ちを聞くには、港の酒場の立ち飲みがいい。彼らの気持ちも人さまざまである。しかも知りたいのは、そんな場所にはいない女船長である。いったいどんな台詞がいいのかひどく迷う。酒が進むと彼らも本音が出てくる。僕も酒を飲む。節制しろと医者から言われている酒である。ぐるぐる頭の中を駆け回る台詞を一本にするには、酒がいい。とっちらかってふらふらする自分の考えには酒が効果的である。なぜか僕は、酒を飲んでいるときに、初対面の人にかなり突っ込んだことを聞いても喧嘩にならない。論争にならない。「人は人」「自分は自分」だから、何を言われても気にならない性格らしい。
 酒を飲めない場所は精神安定剤がいい(もちろん薬店で売っている違法でない薬)。いささかハイな気分になるが、自分の迷っている思考をまとめるには役立つ。
 ただし、酒も薬も適量であること。自分の適量を知らない人はやめておくことをお勧めする。
 余談だが、自分の適量を知るひとつの手段はπ=3.1415926535……ぐらいまで言えること、1+1=2という答えが必ずしも正しくないことを考えること、フェルマーの定理がどんなものであるか考えること、最近のものではポアンカレ予想とは何かを考えること――それが面倒になったら、僕の場合は酔っている。それ以上に酔った状態で考えることはろくなものがないし、酔って道にけつまずいて怪我する危険がある。
 今後述べる機会もあると思うが、中学生程度の学力(暗記でなく思考力)は、脚本家にとって最低限必要だと思う。
 逆を言えば、それ以上はあまり必要がないというか、学んでろくなものがない記憶がある。……これはあくまで、脚本家の場合である。
 で、こんな風に色々な人と会っていると、登場人物の立ち位置が混乱してくる。
 で、酒や薬の力でまとめてみる。
 僕は、物を書くときほとんど何も食べないから、ふらふらである。
 もちろん、完成稿は素面の時に読み直してみる。
 まあ、いいだろうと思い、脚本を提出した。
 脚本会議といっても映画だから、TVと違い大勢が出席する。
 で、そこで出てきた最初の意見にびっくりした。
 「この脚本の泣かせどころはどこですか?」
 「はあ?」
 泣かせどころなど書いたつもりはないのである。

 昔、僕は、芥川龍之介の短編「杜子春」を1時間半のアニメ脚本にして、ようするに「母と子の絆」のようなものを描いたのだが、そのラストシーンが、めちゃくちゃ泣けたそうなのである。その作品の斎藤武市監督が実写で作った、日本有数の号泣難病映画「愛と死をみつめて」(1964年、日活。知ってますか? 吉永小百合さんが20歳前後の時に主演した映画です。今の難病もの、余病ものの元祖のような映画で、大ヒットしました。僕より少し上の年代では、マコ、あまえてばかりでごめんね♪……という主題歌の歌詞を暗記している人もいるはずです。TVドラマ化もされました。2006年にも広末涼子さんでTVドラマになったようです)を作った監督である。
 で、その監督に「日本の泣かせものの脚本は、首藤君で10年は大丈夫だね」と言われて、びっくり。僕は『杜子春』を泣かせアニメのつもりで書いたのではなかったのだ。監督には申し訳ないけれど、若い僕は「お涙ちょうだい映画」は嫌いだったのである。
 作り手が泣かせるつもりはなくとも、観客それぞれの心の琴線にふれて、泣けたのかもしれない。
 以来、無理に観客を泣かせそうな脚本は書かないようにしている。
 僕の脚本で泣いてくれるところがあるとすれば、その涙は僕の涙ではなく、観客それぞれの涙である。その人の感性が流した涙は、その人にとって大切なものだろう。
 作り手が最初から「泣かせどころはどこにしよう」「笑わせ場所はどこにしよう」「スペクタクルな見せ場はどこにしよう」と言うのは、観客のそれぞれの感性のレベルを決めてけていることになる。
 観客は泣きたいシーンで泣けばいいし、笑いたいシーンで笑えばいいし、つまらないシーンではしらけて劇場を出ていってもいいのだ。

 「僕はポケモンの大会議ではほとんど発言しないから……。総監督、そういう事態になったらお願いね」と前もって言っていたので、総監督があわてて、「溺れたサトシの息をカスミが吹き返させるところです」などと、その場をつくろった。
 僕は、口には出さねど、そうとうむかついていたようだ。今から10年ほどの前の会議のことである。
 今の日本の大作を見ると、本筋と関係のない泣かせどころが目立つ。泣かなくてもいいのにオーバースイングで観客を泣かせようとする映画が多いような気がする。
 誰かが、映画の製作会議で「この映画の泣かせどころはどこですか? 泣かせどころを入れましょう」と、言っているんだろう。
 さて、それからさして手直しもせず『ルギア爆誕』は決定稿になった。
 そろそろ、3年目。
 しかし、新しいゲームはまだ完成せず、それまでのつなぎで、オレンジ諸島シリーズという島めぐりをしていた。
 TVもアニメもグッズも売れ続けている。
 しかし、このままのパターンでいつまで続けられるだろうか?
 新しいポケモンが登場する。ゲットする。トレーナーのジムやリーグ戦で戦う。ロケット団トリオが邪魔をする。それを退けて勝つ。
 映画での会議の様子だと、「泣かせどころがあり、笑いがあり、見せ場の派手なスペクタクルがある」――それの繰り返しに、映画もなる気がした。
 そこには、よくも悪くも、主人公達の成長がない。
 子供の成長は早い。それに追いつくようなストーリーにしたい。
 なまじストーリーパターンをいじくって、失敗して打ち切りになるアニメも少なくない。今の調子のいい状態のポケモンは、動く必要はないのだ。
 しかし、『ポケモン』は『サザエさん』や『ドラえもん』とは違う。
 『サザエさん』『ドラえもん』の延々と続く日常、それも貴重である。しかし、僕にとっては、少なくとも『ポケモン』のサトシは成長してほしいキャラクターだった。
 そのためには、パターンだけでない様々なエピソードがサトシに襲いかかり、それを克服し、何かをつかみとってバトル・ゲームという子供の世界から、大人になってほしかった。
 そしてある日、過去のあの「ポケモンとの日々」を懐かしむ。
 そのために、ロケット団トリオやポケモン達、ピカチュウやサトシ達が混じり合い、何かを見つける最終エピソードも考えていた。
 しかし、『ポケモン』慣れした脚本家には、『ポケモン』のパターンを外したエピソードは、少しは目先を変えることができても、そう多くは作れない。
 僕にも、サトシたちの成長にかかわるエピソードは、おいそれと作れるものじゃない。
 『ルギア爆誕』の脚本会議から数日、なんだかイライラして、東京の自宅でちびりちびりと酒を飲んでいた。
 番組が続くのにイライラしている脚本家など、1クールで終わる他のアニメと比べたら贅沢だと言われかねない。
 しかし、2本のヒット映画の出た『ポケモン』の今後の方針を決めるのは、その時のような気がした。
 僕は総監督に電話をして聞いた。
 「あと何年続けるつもり?」
 「10年は続ける」
 総監督の答えだった。
 「俺はあと2年が限度だよ……。そんなに『ポケモン』のエピソードはつくれない」
 と、僕は言った。
 今はポケモンの数も500近く、10年以上続き、総監督の言ったとおりになった。
 維持するのに大変な苦労があっただろう。
 以下は僕の単純な考えだ。
 3、4年経って、違う主人公で、違う『ポケモン』の冒険が始まる。それぞれのテーマがある。
 そこで描かれるのは、その時代に沿った『ポケモン』。
 10年前にある子が見た『ポケモン』。それは歳をとって見るたびに感想が変わり、そして、その子が大人になり、子供を連れて映画を見に行ったとき、大人がその『ポケモン』を大人の作品として見てくれる。そうなるとうれしい。
 しかし、毎週毎年いつ見ても変わりない『ポケモン』に、その時代に沿ったテーマは見えてこないだろう
 でもゲームもグッズも日常にしっかり根づいている。
 10年以上続いている『ポケモン』に終わりが来るとしたら、僕が10年以上前に考えていたラストとは違うだろう。
 総監督の「あと10年……」という声を聞いて、『ポケモン』をどうやって続けていくかと考え続けているうちに、気を失って入院した。前に書いたポケモンショックの少女が1年前に担ぎ込まれた病院だった。
 そこで映画第3作として構想したのは、実際に作られた『結晶塔の帝王』ではなく、別の幻となった『ポケモン』だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 先日、協同組合日本脚本家連盟から「福利厚生の手引き」が届いた。
 いまさらながらだが、日本のほとんどの脚本家の方は、日本脚本家連盟か日本シナリオ作家協会に属している。
 ところが、日本脚本家連盟には日本放送作家協会というまぎらわしいものがあり、両方に会費を払っている方も多い。
 元は同じだったらしいのだが、昭和37年に分かれた。
 僕ら会員もうかつだったが、この事実に気がついていないかたもいる。
 つまり、福利厚生、著作権については日本脚本家連盟の管轄であり、日本放送作家協会のほうは、徴収した会費の用途がなにげに不鮮明であることが問題にもなっている。
 先日届いた福利厚生の手引きは、あくまで日本脚本家連盟のものであり、日本放送作家協会とは無関係のものである。
 以前は、日本放送作家協会という名で同一に見えていたが、昭和37年に、会員に明快な説明をせずに分離したようで、日本放送作家協会は、日本の放送作家の文化的地位を高めることを目的とした組織であるという。
 目玉にしているのが、日本の脚本、放送台本を全部集めるアーカイブを作ることだそうだ。保管と場所にどれだけの金額がかかるか考えると、気が遠くなる。
 僕がそれを知ったのは、アーカイブの展示会に僕の脚本を出さないか、と放送作家協会が言ってきた4年前である。
 アーカイブに否定的な発言をしたら、一切連絡が来なくなった。
 協会の理事は選挙で決められるが、長年同じメンバーだった。候補者が全員当選していた。
 ただ昨年、放送作家協会の存在の必要性に疑問を持った会員の投票で、以前から理事だった方が、かなり落選した。
 放送作家協会はずいぶんあわてたようである。
 なお、日本脚本家連盟は脚本家の組合であり、理事長が中島丈博氏、日本放送作家協会は社団法人で理事長が市川森一氏、違う組織なのである。
 日本放送作家協会の総会に出席したが、放送作家協会の理事たちは、脚本家連盟を敵視しているように感じた。
 脚本家連盟は会費だけでなく著作権の手数料が収入源だから、職員の給料も違う。
 圧倒的に、脚本家連盟の収入が多い。同じ放送関係の運動をしているのに不公平だというのだ。
 そして、放送作家協会を辞めた会員、または除名会員を、会費が払えない、放送文化に理解がない者として、会場で名指しで発表した。
 しかし、この放送作家協会、文化活動としてやっている仕事で主だったものは、脚本家教室の運営ぐらいなものである。
 そして、今回の実現不能なアーカイブ……ボランティア活動だというが、年間1000万程度の会費から、海外視察などの色々な経費が出ているようだ。
 ちなみに総会は、役員たちの一方的な発言で結論を見ず、午後6時になると「定時ですから……」と言って親睦のための小宴会になった。
 その費用も、われわれの会費から出ているのだろう。
 日本放送作家協会を辞めるには文書が必要で、2009年度に払った会費は当然戻ってこないそうだ。
 会費を払わなかった人は、除名処分として総会で名指しで発表するするそうだ。
 放送作家協会は、会費を集め、有力者たちのいいなりに使われている。
 もちろん、放送文化の発展を目指すという気持ちは尊いと思う。
 しかし、放送文化の発展という美名に酔っているとしか思えない。
 僕はそんなことに、12000円も払いたくない。
 日本脚本家連盟に入っていれば、放送作家協会に入っている意味はない。
 名刺から日本脚本家連盟の名と日本放送作家協会のふたつの肩書のひとつが消えてすっきりするだけである。

   つづく
 


■第207回へ続く

(09.12.16)

 
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