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第204回 ロケット団と共存?
気がつけば『ポケモン』映画の2作目『ルギア爆誕』が作られてから、10年以上の月日が経ってしまった。
いまも、『ポケモン』映画は毎年、新作が作られているし、TVアニメも続いている。
ゲームも関連グッズも売れ続けている。最初は151匹いたポケモンも今は500匹近くに増えたらしい。
それでも「ポケモン」と聞けば、誰のも耳にも「ポケモン」と聞こえ、10年以上、同じイメージで続いているように感じられる。
しかし、10年といえば、初期のポケモンアニメをを見た子供たちは青年になり、その子供を連れて映画館に行った大人は現代の社会を動かしている中堅層である。初期のポケモンを見た人たちが、今同じ作品を見れば、昔見た時とはちょっと違った感じを抱くだろう。
自分の大人への成長、それぞれの人生体験によって、同じ映画でも感じ方が違ってくるのは当然だろう。
『ポケモン』の初期の映画は、現在も『ポケモン』がヒットしているおかげで、再放映やレンタル店で、割合、簡単に見ることができる状態にある。
外見は子供向けアニメだから、できるだけ子供にも分かりやすく描こうとしたが、どんな世代(特に欧米の人たち)でも、なにかを感じることができる作品にしたかった。それが、『ミュウツーの逆襲』の自己存在の問いかけだったり、『ルギア爆誕』の、ひとそれぞれ個々に違っていることを感じているから、相手とのその違いを認めなければならない――なんとなくそれが地球という限られた世界でそれぞれが共存している結果になる――というの世界観だったりした。
ともかく、自分は他とは違うという感覚は、欧米にも合うらしい。
よく言われることだが、欧米で交通事故などが起きると、当事者は「自分が悪かった。ごめんなさい」とは絶対言わない。自分が悪いと相手に謝ったら自分に非があることを認めたことになるからだ。
ヨーロッパの通貨はユーロだが、2年前、パリに行って庶民的なスーパーマーケットをのぞいたら、ユーロと同時に、普通、今は使えないはずのフランではいくら……の金額表示がしっかり書かれていて面白かった。ユーロ圏ではあっても、フランスはフランスなのである。
イギリスなど、ユーロにした方がイギリスにとっても便利だと思うが、頑固にポンドで頑張っている。、
我々はアメリカ、アメリカとひと口に言うが、言うまでもなく実際には合「州」国であり、州によって法律が違う。
そもそも成り立ちからして他民族の集合体で、それをアメリカという国としてまとめるのは大変だと思う。
民主主義において多数決で物事を決めるということは、多くのみんなの意見が同じということではなくて、みんなそれぞれ違うから、おおざっぱに考えて似たような意見の多い方向で物事を決めるのが無難という考えなんだな、と僕は個人的に思っている。
何をやるのもみんなで仲よく一緒が安心感覚の日本とは違う。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの台詞は、日本人を表現する名言だと思う。
欧米の歩行者は、自分が安全だと思うと、すぐに信号無視をする。
欧米では、基本は個人である。
そして、それぞれの個性に共感できるものが受ける。
『ポケモン』映画の最初の3本が欧米でヒットしたのは、色々な要素があるだろうと思う。ただ、それ以後の『ポケモン』映画は、日本以外ではさほどヒットしていない。ゲームは相変わらず売れているらしいのだが……。
4本目以降の『ポケモン』映画は、作り手が意識したかしないか知らないが、おそらく、日本人に受けるような方向で作られるようになってしまったのである。
泣き、笑い、友情の質が日本人好みである。良くも悪くも成長しない主人公、水戸黄門的定番ストーリー。1作1作目先は変えているが、どれも日本人が納得できる範囲で収まっている。日本人にとって安心なアニメなのである。
メディアミックスによる相乗効果もあり、とうとう『ポケモン』映画は、夏には欠かせない風物アニメになってしまった。
断っておくがこれは、悪口ではない。
日本人というのは、個人主義とは言えない。ヒットする作品を作るのは、だから、逆に難しいともいえる。
渥美清さんが存命なら今でも続いているだろう「男はつらいよ」。
『サザエさん』など持続力のある長寿アニメ。
スタジオ・ジブリの、上映すれば日本では桁はずれにヒットするアニメ映画。
どれも、作者本人がどう思っているかは知らないが、作品に日本感覚がにじみ出ている。すごいなあと思う。
当然、10年以上続いている『ポケモン』も実はすごいのである。
けれど、僕に限って言えば、その日本的な感性が、あまりピンとこない。
だから、僕の書いた『ポケモン』初期の作品はちょっと変なのである。
『ポケモン』に限らず、他の僕の書いた作品も、どこか、いわゆる日本人好みの枠から少しずれている。
いわゆる日本的な感性が薄い。
事実、上映前の『ミュウツーの逆襲』や『ルギア爆誕』に対する製作上層部から漏れる評判はかんばしくなかった。
けれど、上映したらヒットした。特に欧米ではびっくり仰天のヒットだった。
かといって、日本人である僕が、欧米感覚を持っているとも思えない。
ただ、できあがった脚本に日本的な感性が足りない、とは言えるかもしれない。
外国で受けるかどうかを意識してバタ臭い感じの「自己存在」をテーマにしたが、それを描くのに日本的感性まで消そうとは思わなかった。
結果として、どこか日本的ではないのは、僕自身の中にある自分ではどうしようもない日本的ではない個性というか感性が出てきてしまったせいだと思う。
利己主義というとイメージが悪いので、なんとなく格好いいイメージだと僕が感じる「個人主義」という表現を使うのだが、そんな大げさなものでもない。
どうして、僕が、こんな性格になったのかは、自己分析したこともあり、ある程度の答えも見つけて自分なりに納得しようとしているのだが、今はそれを語ると『ルギア爆誕』自体の話とは離れてしまうからやめておこう(とはいえ、僕が、書く行為が嫌いなのに物書きという仕事をしている要素の一つだとも思うから、いずれ書くことになると思う。それこそが、「誰でもなれる脚本家」というテーマを語ることであり、それについてはアニメスタイルの編集の方の許可もいただいてはいる)。
ともかく急いで書かなければならないのは、『ルギア爆誕』におけるロケット団についてである。
『ルギア爆誕』は、ジラルダンというコレクターの個人的趣味(欲望)がきっかけになり、地球がめちゃくちゃになりかける。
登場人物たちは「こりゃ大変だ」とは感じつつも、一致団結して地球を救おうという感じではない。壮絶な緊迫感はない。
自分のできる範囲のことしかしない、というかできない。
地球の危機を心配して集まってくるポケモンたちも、何もできないで事態を見つめるだけだ。
『ルギア爆誕』の登場人物は、このドラマの中で、自分自身が持つ自分らしさを見せているだけなのである。
で、ロケット団トリオは、自分たちが『ポケモン』の主役のつもりである。制作者の目線が、サトシとピカチュウ寄りだから、悪役に甘んじている。
『ミュウツーの逆襲』でも主役になれなかった。
『ルギア爆誕』でも、前半ちょこちょこ顔を出しているものの、扱いはTVアニメと変わらない。むしろ、出番の少ないゲスト格の登場人物たちのほうがいい味を出している(少なくとも脚本ではそうなっているつもりである)。
ロケット団トリオは、中盤以降主役にならなければ、空気的存在である。TV版では「なんだかんだといわれたら〜」という口上で見せ場らしい登場の仕方を持っているが、毎回やっていれば、『ポケモン』TVアニメお約束の、空気みたいなものである。
存在しているが、存在が当たり前なら、それは空気である。主役ではない。
『ルギア爆誕』でもこのままいけば、ルギアをはじめ、サトシ、ジラルダンなど、ロケット団トリオの上で主役になりそうな役がかなりいる。
こうなったら、『ルギア爆誕』のストーリーがどうなろうと主役になってやろう……とロケット団トリオは考える。
そして、主役になれる場を虎視眈々と狙う。
ついに、そんな場面がやってくる。
サトシたちが氷原で立ち往生して窮地に陥る場面である。
余談に近いし、以前も触れたことがあるかもしれない裏話だが、このアニメに出てくる氷原はもともと南の海である。アニメで、水の表現は難しい。嵐の荒れた海は比較的動きが激しいから描きやすいが、風の少ないゆったりとした波の海は、とても難しい。しかし、このアニメの大プロデューサーは新しいものが好きで、見せ場としてCGを使いたがった。『ルギア爆誕』のプロットの段階で、「このシーンあのシーンはCGでやりたい」の連発だった。『ミュウツーの逆襲』の時からタイトル部分はCGである。正直、印象としてはタイトル部分だけCGで、妙に異様だった。いかにもCGやっています、という感じだった。大プロデューサーのCG好きはおさまらず、ついには、CG専用の開発部まで作った。
『ルギア爆誕』はCGの見せ場満載のつもりだった。制作現場は大変だったろう。だから、ジラルダンの空中博物館あたりは、CGが必要以上に出てくる。だが当時の技術ではゆったりとした水の動きは無理で(今でも難しい)、見本でできてきた海はゼラチンにしか見えなかった。『ルギア爆誕』では前半に嵐の海が出てくるが、それすらCGでは無理な時代で、普通のアニメの嵐の海になった。
でも、CGは日進月歩、大プロデューサーは、静かな海の動きもCGでやれと言い出しかねない。
で、先手を打って、フリーザーという冷凍光線のようなものを出すポケモンで海を氷原に変える設定にした。
さて、サトシたちの窮地に「この時を待っていました!」と、その氷原に、主人公たちを救いにロケット団が現れる。
別にロケット団トリオでなくてもいいのだが、強引に出てくるのである。
「我々が生きる地球がめちゃめちゃになったら、そこには悪も善もない。悪も善も存在そのものが無意味になる。だから、悪も善も、いや、今、この星に存在するもののために、悪や正義の枠を超えてお前たちを助ける……つまりそれが共存なのだ」
……というような意味のことを、ロケット団トリオ風の語り口で言う。
これは、ほぼ『ルギア爆誕』のテーマに近い。
ドラマの中で、登場人物がテーマを口で語るのは、ドラマとしてはルール違反である。脚本としてはひどい出来である。
それでも、ロケット団がそれを語るのは、『ルギア爆誕』の主人公であることすら超えて、『ポケモン』アニメの主人公は我々だと宣言するためである。
つまり、彼らの台詞は、サトシたちに向けてのものではなく、この映画を見ている観客へ向けてのものなのだ。
歌舞伎の看板役者が観客に向けて大見えをきるようなものだ。
それまで登場した他のキャラクターも個性的だから、ロケット団トリオの台詞も、『ルギア爆誕』のストーリーに似つかわしく聞こえるかもしれない。。
だが、ロケット団トリオとしては、たかだか『ルギア爆誕』などという映画だけの登場人物として出ているのではなくて、『ポケモン』アニメは、我々ロケット団トリオなくしてはありえない……と言いたいのである。
つまり、ドラマの中の駒である他の登場人物の語る台詞とは異質のものである。
しかも、この台詞、ドラマの内容に合わせた建前であり、本音ではない。
本音は、もっと単純、いままでよりもっと目立ちたかった、というもののだろう。
『ポケモン』アニメでのロケット団トリオの役割を超えて彼らは暴走したのだ。
脚本を書いた僕は、なぜこんなことをロケット団トリオにさせたのか?
僕がさせたのではない。彼らが、そうしたいだろうと思ったからである。
キャラクターを創造したら、あとは、彼らに自由に動いてもらう。
詭弁に聞こえるだろうが、この作品の脚本を書いた僕は、ロケット団トリオと共存したかったのである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
先日、本棚を整理していたら、社会論関係の本が出てきた。
発行されたのは1999年……10年前である。
日本の家族構成について書かれた項目があった。
なんと、日本では1人住まいの家(団地やアパート)が圧倒的に多いのだそうである。
もう一度書くが10年前のことである。
「最近、結婚しない独身者が増えたんだな……。僕には関係ないけど」
当時は、そんな程度で読み飛ばした。
しかし、今回、詳しく読んでみたら、それが原因ではなかった。
確かに、独身者の1人住まいが増えたこともあるが、大きな理由は、核家族化と少子化にあるという。
つまり、かつて何人もいた家族が、核家族化し分裂し、しかも子供は平均2人以下。その子供も独立すると家を出ていってしまう。
夫婦2人になる。
どちらかが亡くなると1人である。
つまり、高老年の1人住まいがどんどん増えているというのである。
僕が記憶にないぐらい子供のころ、庶民の夢は団地住まい、2DK。
夫婦の部屋がひとつ、子供の部屋がひとつ、DKがひとつの2DK。
巨大な団地が色々な場所に造られた。
ところが、そんな団地も老朽化。子供もいない。若者もいない。いるのは老人ばかり。
その老人もどんどん減り(つまり他界され)、空室が多い団地が増えている。
それが10年前である。
で、今は、連れ合いを亡くした御老人が、がらんとした団地の一室で1人で住んでいる。
隣近所の付き合いもない。
高齢化社会で平均寿命はどんどん延びて、あの世からのお呼びもなかなかかからない。
歳をとっているから小金は持っていても外出は億劫だ。
老眼で、本や新聞も読みにくくなる。
結局、引きこもってTV三昧になる。
ところが、やっているドラマは、さすがに若者のトレンディドラマは少なくなったが、高年齢ドラマといっても、アラサー、アラフォーの独身女性の活躍ぶりを描いているようで、本質は婚活ものである。老齢者にとっては、その人たちが生み育てた子供の年頃の人たちのドラマである。
御老人がたった1人で、『ガンダム』や『エヴァ』や『マクロス』などのアニメを見ているとしたら、その姿はちょっとホラーだから、『サザエさん』の視聴率が高いのも、昔を懐かしむ孤独な御老人が多いからだとしたら、なんとなくうなずける。
そんな方たちが、楽しめるアニメってどんなものだろう。
これからの脚本家は、どんな脚本を書いたらいいのか?
今の日本、人間の子供の数より、犬や猫などのペットの数のほうが多い。
いっそ、居直ってペットが喜ぶアニメの脚本を書こうか?
いくら変人の僕でも、ペットの喜ぶ脚本は無理だなあ……。
つづく
■第205回へ続く
(09.12.02)
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