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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第197回 『ルギア爆誕』自己主張で共存

 映画『ミュウツーの逆襲』が自己存在をテーマにして、次の『ルギア爆誕』は、アクションアドベンチャーの形をとった、地球に生きるものの共存を見据えたものにしようとしたことは、すでに述べた。
 で、その共存だが、その言葉だけをイメージすると、自己中心的でなく、相手の気持ちや立場も考えて、仲よく平和に生きていこうという、心やさしいフィーリングを思い浮かべてしまう。
 だが、僕の考える共存とは――かなりへそまがりに感じるられるかもしれないし、僕自身も、人が通常感じるイメージと違うだろうと自覚しているのだが――自分の自己存在を尊重し、自分の思い通りの生き方をして、なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、一緒に生きているということなのである。
 世界の中心にいるのは自分であり、自分がいなくなれば、少なくとも自分の世界はなくなり、自分のいない世界はそれは世界ではない。
 自分とは関係ない別の存在である。
 そんな世界は、あってもなくても御本人にとってはどうでもいいものである。
 人は、それぞれ違うものである。誰一人、同じ人はいない。それぞれが持つ自己存在の価値観も違う。
 それぞれにとって何が大切か、それはそれぞれが思うことであって、「おまえはこう生きるべきだ」などと他人がとやかく口を出すことではない。
 他人の生き方をとやかく言う人は多いが、自分の価値観を他人に押し付けて自己満足しているに過ぎない気がする。
 生き物の命には限りがある。
 死んでしまえば、その生き物の世界は終わる。
 本人が死んだあとに、他の人がその人の価値をどう評価しようが、死んだ本人には無意味である。
 死んだあとに、どでかい墓が建とうと、野ざらしで捨てておかれようと、死んだ本人にとっては無意味である。
 その人が、後世の人々に大きな影響を与える宗教、哲学、科学、その他もろもろを創造したとしても、他の人に対する影響は、死んだ本人には関係ない。
 本人が死んだあとに、立派な人、または極悪人として歴史に名を残そうと、死んだ本人にはあずかり知らぬことになってしまう。
 本人が生きていればこそ、後世の人達や自分の死後残された人達にどう思われるかが気になるが、それはその人の生きているときの自己の価値観であり、自分が死んだらそんなものは無である。
 歴史上――その歴史もそれぞれの時代の権力の価値観でころころ変わるが――偉大な人物、尊敬すべき人物は山ほどいるし、感心せざるを得ない生き方や考え方をしたと伝えられる人物も多い。もっともそれは、誰からか教えられた知識を基準にしているにすぎないのだが……。
 そんな人達への評価も、結局、自己存在の価値観が決めることだ。
 愛、未知なものへの好奇心、自然、宇宙への畏怖、人間の持つ動物的な本能も自己存在あればこそである。
 自己存在は、本人が生きていればこそなりたつ。
 「世界は、自分を中心にして動いていると思うなよ」とよく言われるが、自分が死んだら自分の世界はなくなるのだから、やっぱり、「世界は自分を中心にして動いている」が正しいのではないか?
 子供のころ、好きだった台詞がある。
 僕はキリスト教とは基本的に無縁な人間だが、キリストが磔にされた時漏らした最後の言葉「神よ、あなたは私を見放すのですか」と、シーザー(カエサル)が暗殺されたときに言ったという「ブルータス、お前もか……」である。
 どちらも、自己存在が基準になって、信じていたものへの疑問の台詞に感じたからだ。
 同じころ、幼いながらも老子や荘子が好きだった。……いわゆるタオである。タオとは何かという解説書を読むと、やたら難しくなるが、幼い僕は、「胡蝶の夢」の翻訳文にはまった。
 あまりに有名な文章だから、その説明は、このコラムを読んでいただいている方に失礼なのではぶくが……というより、説明すると相当難しいというのが正直な気持ちである。早い話が、今の自己存在は夢か現実か、よく分からないぞ……といったような意味である。
 どっちにしても、ご本人が生きていなければ、そんなことは思いつかないわけで、つまり、「人間、生きているうちが花なのよ……人間、死んだらおしまいよ」ってことだと、幼い僕は単純に感心してしまったのである。
 で、生きているなら、自分の可能な範囲内でやりたいことを好き勝手にやるのが理想ということになる。
 実際の世界は、飢餓状態にあり、その生きること自体が大変なのだが、戦後のいちおう平和な島国(おそらく一生、具体的な戦争状態を経験せずに済むのは、世界中で僕らの世代の日本人ぐらいではないかという気がする)に生まれた僕が、それを気にするのはずいぶん大人になってからである。
 そんな日本の状態に甘えて共存を考えると、自己存在を主張しつつ、自分の好きなことをやり、なおかつそれぞれが生きていくということであり、そんなことは無理である。
 人はそれぞれ違うものであり、自己存在を主張すれば、一般常識で言う共存は無理である。
 違うものが共存する……または、共存していると思うのは幻想である。
 幻想であると思いつつ、共存をテーマにしようとしたのが『ルギア爆誕』なのである。
 なおここでは、家庭とか生まれた子供との共存は、考えていない。
 それを考えると、共存幻想やら生き物の本能的な錯覚やらがごっちゃになり、それをシンプルにすると、なんだか人間の関係が冷たい方程式になり、家族向けの娯楽アニメでなくなるような気がしたのだ。
 いずれにしろ、僕は、人間の共存に対しては、「???」の気持ちを持っている。
 なぜそうなのかというと、僕の子供のころの個人的な環境が影響しているとも思うが、それはこのコラムの編集の方が許してくれれば、そのうち書こうと思う。
 一般的に分かりやすいと言えば……もっとも、このコラムの読者の世代ではほとんど分からないと思うが、僕は、戦後ベビーブームの最後であり、東京の三流進学校にいたためか、安保改定の1970年前後の全共闘世代の最後であり、徹底したノンポリではあるが、全共闘の影響を少しは受けてしまい、どっちらけてしまった人間なのである。
 さらにどっちらけたのは、東京ではあれだけ大騒ぎした反体制学生運動が、ベビーブーム――いわゆる団塊の世代――の全体からすると、ごくごく少数の学生の戦争ごっこのようなものだった、と後で分かった事である。したがって、一般的に1970年は、安保の年ではなく大阪万博の年となる。
 僕の書いていることが分からない人は、一応、日本昭和の現代史だし、最近その種類の簡略説明本が山ほど出ているから、1冊ぐらい読んでほしい。
 アニメ関係では、監督の押井守氏が、全共闘乗り遅れ世代だと自分で語っている。
 で、その全共闘だが、共闘という言葉は、ともに闘うという意味である。
 確かに、反体制という旗印は同じだったかもしれない。
 しかし、中身はばらんばらんである。ちょっとした言葉の表現の違いで、さまざまなグループができて、喧嘩を始める。
 過激派などというのも出てきて、その過激派もいろいろわかれてばらんばらんになる。
 皆さんが知っているだろう過激派のひとつに赤軍派があり、連合赤軍なんて言いつつ、仲間内でばらんばらん。結果、あさま山荘から、ハイジャック、外国へ行ってテロ。共闘といえば聞こえはいいが、ちっともいっしょにならず、分裂し続けたのである。
 人間は、仲よくするより喧嘩する方が好きな動物らしい。
 その共闘が難しいのだから、共存なんてさらに難しいだろう。
 つまり、自己存在への疑問がいきすぎると、自己主張のかたまりに変化してしまうのだ。
 バトルとは、それぞれの自己主張のぶつかりが行動になって表れたものである。
 たとえそれが、ゲームだとしても……。
 自分は自分である。他の誰でもない。そんな連中が共存を語るのが、アクションアドベンチャー『ルギア爆誕』のつもりだった。
 で、やっと、ロケット団トリオの話になる。
 彼らは、ロケット団という悪役組に所属しているが、ロケット団以上に、ムサシ、コジロウ、ニャースであることが優先するように僕は設定した。
 コスチュームも、他のロケット団は黒いが、彼らは白い服だ。
 彼らの意味不明なきまり文句も実は意味がある。「なんだかんだときかれたら……」のそのあとごちゃごちゃ言っているのは、「普通のロケット団じゃないんだぞ……それ以前に、ムサシであり、コジロウであり、ニャースなんだ」という意味であり、つまり、強烈な自己主張である。
 ところがである。
 アニメが始まってみれば、自分達は脇役……主人公達の邪魔をして、結局ドジをしてやっつけられて、「やな感じ〜」で吹っ飛ばされて終わりである。
 脚本家やアニメーターによって、多少の工夫はあるが、所詮、登場してはやっつけられるワンパターンである。
 僕は、ムサシ役の声優さんに、「台本の台詞なんか無視して好きにしゃべっていいよ。パターンどおりの主役達と違って、あなた達はオリジナルで自由なんだから……」と番組開始当初に言った。
 けれど、しっかりした脚本会議ででき上がってくる脚本は、タイムボカンシリーズの悪役さながら、みじめー、が売りのワンパターンである。
 ワンパターンは、脚本作りの上では安全なのである。
 しかし、これじゃあ、声が自由にやろうとしてもやりようがない。
 アニメの制作体制がしっかりしているから、アフレコの時に絵や台詞の秒数もきっちりできていて、アドリブの入れ場所も少ない。
 こんなはずではなかった。
 フラストレーションがたまってくる。
 シリーズ構成の僕にも、ロケット団トリオの扱いに欲求不満が膨らんでいた。
 そこに、自分が自分らしく自己主張しつつ、それが世界の共存につながるという奇妙なストーリーの映画の登場である。
 このストーリー、自己主張の強いやつがいればいるほど面白くなる。
 いるじゃないか、最初から、私達だよ……と、ロケット団トリオ。
 こうなりゃ目立つだけ目立ってやる。
 かくして、ロケット団トリオ、いいとこどりの『ルギア爆誕』の脚本ができ上がる。
 僕が書いたというより、ロケット団トリオに僕が書かされたと言ってもいいかもしれない。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 先日、日本放送作家協会から「テレビ作家たちの50年」(NHK出版)という本が送られてきた。定価2000円……別に注文したわけではない。協会員に無料で配布されたらしい。
 ちなみに協会員は会費を払っている。
 脚本家の著作権を管理するのは日本脚本家組合で、最初は同じ組織だったようだが、今は別団体だそうである。
 僕が加入したころは、同一団体だと思っていたから、必然のように両方に会費を払い、それが今も続いている。
 日本放送作家協会は脚本家組合の親睦団体のようなものだと思っていたら、ここ数年、すごいことを言い出した。
 今まで書かれた脚本を集めてアーカイブ(図書館のようなもの)を作ろうというのである。
 それも、集められるものは全部集めるそうである。おそらくそれが可能になるとしたら、六本木ヒルズクラスのビルがいくつも必要だろう。
 ところが予算は年間1000万円……そのうち、アーカイブの打ち合わせなどで800万円ぐらい使っているそうである。
 みんなボランティアでやっているそうである。
 意味のないボランティアって、実は、お金がいらぬところでかかるものである。
 この前、協会の例会に行ったら、決めごとはそこそこに終え、酒とつまみが出て簡単な宴会がはじまった。
 そんなことにも、会費は使われているのだろう。
 で、1000万から800万を引いたら残りは200万円である。
 脚本はいままで35000本、集めたそうである。
 ところで、小田原図書館に入っている僕関係の脚本だけで3000〜4000本ある。
 僕1人の数である。
 35000本は、僕のほぼ10人分にすぎない。
 日本でいままで脚本を書いた方は、ラジオを含めると何千人といるだろう。脚本は、バラエティなどの構成台本をいれたら、何千万本にもなるだろう。
 日本放送作家協会の幹部の方の言い分は、先進国で脚本のアーカイブがないのは日本ぐらいで、これは日本文化の恥である、というものだ。
 世界で放送局がこんなに多いのは、日本とアメリカぐらいだろう。
 その膨大な脚本を日本文化の恥を理由に集めようというのである。
 どうやら、幹部の方は海外に調査に出かけていっているらしい。旅費はだれが出しているのだろう?
 現在、情報媒体は、インターネットなどどんどん増えている。
 ゲームだって脚本がある。
 脚本は増える一方である。
 一方、TVは明らかに衰退している。
 見る人がどんどん少なくなっている。
 確かに、放送の歴史は記録されるべきものかもしれない。あっても悪くはない。
 研究したい人は調べればいい。
 けれど、不勉強で申し訳ないが、「テレビ作家たちの50年」に書かれていることで、知っておかなければならないこと、知りたいことは、ほとんどない。
 僕達は作家である。放送の歴史の研究家でもなければ、放送風俗研究家でもない。
 それに研究家なら、もっと詳しい資料が必要だろうし、調べる能力もあるだろう。
 作家である僕は、過去の作家の思い出話を読む暇があれば、自分の作品を書いていたい。自分の作品のための資料を読んだり見たり聞いたりしていたい。
 この本の料金は、おそらく、僕らの会費から出ているのだろう。
 だってサービスで2000円の本を寄贈してくれるだろうか?
 くりかえし言うが僕は注文した覚えはない。
 ちなみに、全431ページ中、アニメについて書かれた辻真先氏の文章は10ページに満たない。
 立ち読みで十分どころか5分である。
 こんな本、本屋でもブックオフでも、僕は買わないと思う。

   つづく
 


■第198回へ続く

(09.09.16)

 
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