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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第195回 ロケット団が共存の決め手?

 『ルギア爆誕』は、世界滅亡の危機という状況はあるものの、登場人物のさまざまな立場を描くことで、共存というテーマを浮かび上がらせようとした作品のつもりだった。
 で、結果的には、共存などというテーマとは、全く無縁に思えるロケット団のトリオが、テーマを語るキーポイントになってしまった。
 ゲーム上のロケット団は、ゲームにたまに現れる悪役グループにすぎなかった。
 それをアニメとしてのストーリーを膨らませるために、主人公たちのポケモンゲットの旅を妨害する敵役としてかなり大きな存在としてアニメに登場させるアイデアは、僕が『ポケモン』のシリーズ構成に参加する以前から、企画会議で考えられていた。
 主人公の邪魔をしては、いつもやっつけられて逃げていくドジで間抜けな定番悪役キャラクターである。
 企画した方たちも、そんなつもりで考えたのだろう。
 他のアニメでいえば、『ヤッターマン』などの「タイムボカン」シリーズの三悪トリオがその代表だろう。
 そのドジさ加減、間抜けさ加減が悲哀さえおびて、まっとうな正義の主人公より人気が出る場合が多い。
 度が過ぎると、本来のストーリーより、その存在が目立ってしまう。
 だが、『ポケモン』では、悪役のへま、ドジぶりが、その番組のメインとなりお約束になり見せ場になっては困るのである。
 『ポケモン』は、あくまで、ポケモンと、ポケモンをゲットしバトルさせる主人公の行動がメインである。
 だからといって、没個性のやられ役の常連キャラクターではつまらない。
 そこで、僕はいささか工夫をした。
 『ポケモン』の登場するロケット団トリオは出番は少なくても、しっかり自己主張して存在感を視聴者に印象づける役どころでなければならない。
 極めて自尊心が高く、自分たちがいなければ『ポケモン』というアニメは成立しない、と少なくともご本人たちは思い込んでいるキャラクターである。
 やっていることは結果的にドジで間抜けな結果に終わるが、それは運が悪いのであって、本人たちは自分たちの思う最善を尽くす。
 この番組における自分の立場に誇りを持っている。
 番組の役柄上、悪役だから、手持ちのポケモンもろくなのが回ってこない。
 かわいいのや、かっこいいポケモンは、みんな主役たちが持っている。
 「ろくなポケモン」がいないから、「ろくなポケモン」の悲しさも分かる。
 自意識は強いが、本来は気のいい奴らなのである。
 そして、事実、ダメな悪役ではない。超一流ではないにしろ、そこそこ何でもできるのである。ムサシは美人で美人なりの苦労をし、その経験はいまいち中途半端だが豊かである。まあ、気が多いのが超一流の美女になれない理由といえないこともないが……。コジロウは、育ちもよく教養もかなりある。ニャースに至っては、人間語をマスターしている努力家でインテリである。
 ただ、ちょっとだけ何の因果か、どこかの線が外れていて正当な生き方からずれてしまったのである。
 つまり、この番組の制作者が「ポケモン」という作品を作ろうとせず、他の番組を作ろうとしたら、個性豊かでユニークな主役になれたかもしれない連中なのである。
 いちおうロケット団に所属していて、親玉にはへいこらして見えるし、実際言うなりのことをしているのだが、見えないところでやっていることはふてぶてしい。
 だいたい、ロケット団のおそろいのユニホームを着ていない。
 他のロケット団とは違うのだという自意識がどこかにあるのである。
 組織に属しているように見えながら、実は、自分を見失ってはいない。
 たとえ悪役であっても、単なる悪役ではなく誇り高い正しく(?)魅力ある悪役なのである。
 僕の作品には、こういう悪役がよく出てくる。
 ロケット団のキャラクターデザインも、タイムボカンの悪役ではなく「さすがの猿飛」の美形悪役風にお願いした覚えがある。
 彼らの決め台詞「なんだかんだと聞かれたら答えてやるのが世の情け……」から続くやたら長い意味不明の自己紹介も、彼らの個性を表すためにかなり考えた台詞である。
 これは、軽く見られがちの悪役にとっては魅力ある台詞らしく、(もっとも、このトリオの声優さんは優秀だから、それがわかって当然だともいえるが)この番組のうちいりパーティの時、3役をやる声優さんが、そろって僕のところにやってきてやってきて、「この台詞、長いけど、絶対、はやらせてみせます」と言ってくれたのは、うれしかった。
 ついで、といってはなんだが、アニメーターの方たちも乗ってくれたらしく、この台詞の時は、毎回のように違うポーズを振りつけてくれた。
 以前、このコラムに書いたかもしれないが、ロケット団トリオの台詞は必要不可欠な台詞以外はアドリブで任せる、と声優さんの1人に、プロデューサーには伝えずに言っておいた。
 そのせいかロケット団退場の決め台詞「やな感じー」は、声優さんのアドリブであり、それに触発されて映画版のラストのロケット団の台詞「なんだかとってもいい感じー」がすんなり書けたといってもいい。
 僕の書いた映画版の脚本の締めとして、とてもいい台詞だったと今も思っている。
 僕にとってのロケット団がどんな存在だったかは、僕の書いた「ロケット団よ永遠に」という一風変わった歌の歌詞で表現したつもりだが、著作権管理の関係で、自分の書いた歌詞の2、3行でもここに掲載するのにはいろいろ手続きがいるのだそうである。
 自分の書いたものだから、構わないだろうと思っていた僕がうかつだった。
 『ルギア爆誕』の共存というテーマに、なぜ、ロケット団が最重要な存在になったのか、その歌の歌詞の解釈を説明すればわかりやすいのだが、おわびを込めて言いたいのは「ロケット団よ永遠に」を作詞したときには、『ルギア爆誕』のストーリーもテーマも影も形もできていなかった。
 作詞をしたのは、『ルギア爆誕』の1年以上前のことである。
 その歌を歌ったロケット団が、『ルギア爆誕』の、共存というテーマで最も目立った存在になるとは思いもしなかった。
 自分が書こうとするキャラクターは、どんなキャラクターでもしっかり掴んでおこう。
 理屈では分かっていたけれど、『ルギア爆誕』で、それが本当に大切だと感じた時、われながら驚いた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 昔、アニメにしたいわゆる魔女っ子ものが、舞台ミュージカルになる、といろいろなところから聞いた。
 うわさは聞いてはいたが、本気でやるとは思っていなかった。冗談だと思っていた。
 確かに、その魔女っ子アニメは、僕が高校生のころ考えた(というか作ろうとした)ミュージカルを原案にしている。
 ただし、その題名は「フィナリナーサから来た男」。ピンクの髪をした魔女っ子ではなく、男の子であり、夢をテーマにしているが、具体的に目に見える魔法は出てこない。なぜなら、舞台である。生身の人間が歌い踊るのである。簡単に魔法を舞台で表現できないだろう。
 その魔女っ子アニメの原案になった「フィナリナーサから来た男」については、何十年も前からいろいろなところでインタビューや記事になっているから、今回のミュージカルに僕が関わっていると思われても仕方がないかもしれない。
 しかし、今回の舞台ミュージカルには、全く関わっていない。
 むしろ、冗談でもやめたほうがいいという意味のことを言った覚えはある。
 僕には、今まで何本も舞台ミュージカルを書いている。
 結構ヒットした作品もある。
 しかし、この魔女っ子ミュージカルは、頼まれても書かないし書けない。
 成功するか失敗するか分からないし、いろいろあってもいいじゃないかとも思うから、なんともいえないが、結果が出てからごちゃごちゃ言われるのも困るので、今のうちに全く関係ないとだけ言っておく。
 ただ、止めておいたほうがいいという理由は僕なりにあり、今後、脚本家や劇作家の方が舞台ミュージカルを書く機会もあると思うので、少しだけ、参考になることは次回に書いておこうかとも思う。
 断っておくが、すべてのアニメが舞台ミュージカルにならない、と言っているわけではない。
 成功例も少なくないことは、皆さんもご存じではあろう。要は、そのアニメが舞台ミュージカルに向いているかいないかである。

   つづく
 


■第196回へ続く

(09.08.19)

 
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