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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第192回 『ポケモン』ルギアは母性だった

 映画版ポケモン第2作『X爆誕』のX(ルギア)が登場するのは作品の後半である。
 そして、台詞は少ない。
 その声が男の声であろうと女の声であろうとたいした差はない、と僕は脚本を書きだす前はタカをくくっていた。
 だが、台詞はないものの、Xは地球の自然のバランスを崩している、ファイアー、サンダー、フリーザーの三つ巴の喧嘩を止めさせるために出てくる。
 Xは地球の生命を生み出したといわれる深層海流のシンボルである。
 ファイアー、サンダー、フリーザーにとって母親的な存在である。
 母親が子供の兄弟喧嘩をやめさせようとしたら、それは父親のやり方とは違うはずである。
 Xの行動には母性本能が働く。
 母性本能という言葉はよく聞くが、父性本能という言葉はあまり聞かない。
 僕がプロット段階でイメージしたXというポケモンは、僕自身が意識せずに母性本能を核にしたポケモンだったのである。
 主人公のサトシのママがラストに出てきて「世界を救うなどというだいそれたことを考えずに、あなたは、あるがままを生きなさい」という意味のことを言うが、これは、父親としての言葉ではありえない。サトシを生んだ母親だから言える台詞である。
 父親なら「おまえはよくやった。私はお前の父親であることを誇りに思うぞ」などという「三国志」に出てくるような台詞を言って、実は子供っぽい無茶をしたにすぎないサトシを褒めたたえ自慢に思うかもしれない。
 「さすが、わが息子……」、さもなければ「わが子ながらふがいない」が、父親の子供(男の子)に対して持つ感情で、息子の行動を認めるにしても「おまえなりに、よく頑張ったな」と励ましの感情になる。
 これが、子供が女の子なら、父親はがらりと変わった感情になるのだが……どう見たって、ファイアー、サンダー、フリーザーは男の子である。
 どんな世界にも例外があるが、兄弟げんかが根が深くなるのは男の場合が多いようだ。
 男の兄弟は他人の始まりどころか、生まれながらにしてライバルである。
 間に妹でもいれば、少しは違ってくるのだが、男だけの兄弟の場合、互いに敵愾心のようなものを表に見せないまでも、本能的に持ってしまうもののようだ。
 その喧嘩が表面化したとき、強力な力を持つ男である父親が仲裁に出てきたら、父親である力を誇示して喧嘩を仲裁しようとしがちで、対する子供たちも「子供の喧嘩に親父が口を出すな。そもそもあんたはどっちの味方なんだ」で、どろどろの親子関係になりがちである。
 父親が息子たちの喧嘩に口を出すのは、男が持っている闘争心、嫉妬心の火に油を注ぐようなものである。
 そもそも、男にとって目の前に最初に現れる男のライバルは父親なのだ。
 そんな存在が出てきても喧嘩の仲裁ができるわけがない。
 子供のころ、父親をライバルとして見ず、保護者として頼る男の子は、本来の男の子の本能に欠落部分があると言っていいかもしれない。
 余計なことだが歴史上、いわゆる2代目が同業の初代を超える例はあまりない。
 二世議員の多い今の日本の政治がぐらぐらしているのもうなずける。
 政治家の世襲制を止めさせようという意見が出るのも納得できる部分があると思う。
 話を兄弟げんかに戻せば、男たちの兄弟喧嘩の仲裁が自分たちを生んだ母親だったら、いがみ合っていた男の兄弟の気持ちは不思議と変わる。
 なぜだか、その心理は僕にはわからない。
 どこにでも例外はあるだろうが、僕の知る限り、男の兄弟のいがみ合いにその母親の仲裁は強力に作用する。
 「自分を生んだ母親を悲しませたくない」という感情が生まれるのだろうか?
 僕には兄も弟もいない。
 妹が2人である。
 だから、男同士の兄弟喧嘩の本質を肌で感じているわけではないが、兄弟関係において母の存在は父親の比ではない。
 ともかく子供に対して、父性と母性は違うのだ。
 Xは、あきらかに母性である。
 そして、サトシの母親とともに、世界の生命の共存を願う。
 自分の子供であるこの世界の生命の母親としてである。
 Xと違い、サトシを女手ひとつで生み育てたサトシのママは、世界の共存などという大きなことは意識していないが、思いは実はXと同じである。
 それを、サトシに対する台詞(ほぼお説教に近いが)で語り、Xは子供であるファイアーたちの喧嘩をやめさせる行動で見せる。
 だからXは現実的な力はさほど強くない。力ずくでファイアーの喧嘩を止めさせる力はない。
 しかし、何よりも強い母性を持っている。
 つまり、後半出現するXの行動は母性的、女性的でなければならないと、アクションアドベンチャーでありながらも「共存」をテーマにするこの作品はぎくしゃくしたものになってくる。
 何度も繰り返すが、Xの存在は台詞でなく行動で示される。
 それが、会議の多数決でオス(男)にされてしまった。
 僕の迂闊さは、台詞の部分だけ男に変えればそれでいいと思っていたことにある。
 だが、実際には、Xの出現から行動まで、オスである以上、男性的でなければならないはずである。
 けれど、僕のイメージしたXの行動は女性的である。
 男性的な行動で力ずくで喧嘩を止めさせたのでは、そこには一時的な平和が訪れるだけである。
 一時的な共存である。
 Xがいなくなれば、また混乱と喧嘩が始まるだろう。
 たまたま先ほど「三国志」を例に出したが、あの作品は、果てしない闘争が続き、一時的な和平状態がたまにはあるが、すぐに元の混乱が起こり、英雄賢者入り乱れて活躍し、結局のところ世の混乱は変わらない。
 「三国志」は、フィクション部分が多いにしろ、中国の歴史を基にしている。
 そして、その歴史の混乱のプロセスが面白い作品である。
 人間の歴史は混乱のプロセスの集合である。
 そして、歴史は流れていき、結果は見えない。
 人は歴史を、自分の立場、感覚によって、それぞれに違う解釈の仕方をする。
 プロセスの描き方が、ひとつの歴史を基にしながらも、作者によって違ってくる。
 だから、昔からさまざまな作者が、さまざまな「三国志」を描き、それぞれに面白い「三国志」が生まれてきた。
 だが、それは、プロセスの面白さであり、結果の面白さではない。
 あえて、結果を出そうとしたら「人間なんて、共存なんてありえない、混乱だらけのしょうもない生き物だよ。歴史がそれを物語っている」という諦観で締めくくるよりないように思える。
 だが、それは極めて男性的な結論のような気がする。
 女性ならそんな結論に行きつくだろうか。
 女性の書いた「三国志」に出会ったことはないが。あったら読んでみたいものだ。
 もっとも、女性は基本、喧嘩とだましあいばかり延々と続いて終わらない「三国志」など、ばかばかしくて書く気にならないのかもしれない。
 血を分けた兄弟は殺しても平気なのに、他人と義兄弟の契りを結び、義とか忠を大切にする「三国志」感性など、ナンセンスにしか思えないかもしれない。
 愛より義や忠を重んじる世界など噴飯ものかもしれない。
 男は、義と忠がうれしくて、そして、それと裏腹の喧嘩とだましあいが面白くてしかたなく、それが人間の歴史に反映しているともいえるのだが……。
 「女性というものは……」などと言いだすと、今の時代すぐ「差別的発言」と非難されるだろうが、女性は子を産みたいという本能を持っている。
 現代は子供を産もうとしない女性が増えているが、それは、子を産む本能よりも楽しみがあるかもしれないという豊かな日本の現状に目をくらまされているだけで、女性的本能の核ともいえる母性は消えていないと思う。
 さらに、女性は自分の生み出したものを、なにより大切にしたがる本能をもっていると思われる。
 生み出したもののと自分に他者との共存が必要ならば、それを持続しようとするだろう。
 そして、本質的に闘争心のある男という性は、自分の存在が不確かゆえに、自分を生みだした母の存在に弱い。
 父親に対する感覚と違うものを母親に持っている。
 つまり、男による共存は不確かであり、女もしくは性のない創造主でも作り出し登場させない限り、共存は語れないと脚本を書きながら感じたのである。
 Xの行動は、女性的であり、腕力的にも強くはない。
 だからこそ共存を語れるのだ。
 しかし、Xは男性ということに決まってしまった。
 考えれば考えるほど、Xの行動は女性的にしかならない。
 Xの登場まで、紆余曲折はあったものの、かなり、思いどおりに書き進んでいた脚本が、男になったX(ルギア)を書くためにぴったり止まってしまった。
 Xは、どう行動させても、オスのポケモンにならないのである。
 これは困ったというより僕にとっては苦痛だった。
 脚本を書き始めてはじめてといっていいスランプ状態になった。
 そして、自分をごまかすしかないと思った。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 金田伊功氏が亡くなった。
 僕より3歳、若い。
 僕と金田氏との関係で一番大きなものは、おそらく『BIRTH』という作品だろう。
 それ以前にも、TVアニメシリーズで、金田氏がアニメーターをやってくれた作品があったかもしれないが、はっきり記憶しているものはない。
 ただ、何かの作品の打ち上げ旅行で、バスに同席した金田氏とアニメの動きの描き方について話した覚えはある。
 『BIRTH』はOVAでもっとも初期の作品のひとつだが、実はTVのアニメシリーズとして企画され、その企画に僕も参加したのだ。
 いろいろな事情でTVシリーズ化が不可能になった時点で、他の仕事が忙しく、僕は企画会議に出席しなくなった。
 ストーリーは、他の脚本家の方がまとめた。
 その後、『BIRTH』はOVAとして復活することになったと聞いた。
 その時、僕は、別のOVA『街角のメルヘン』に関わっていた。
 同時期、TVシリーズが流れ、OVA化されつつあったのが『DALLOS』である。
 ある日『BIRTH』のプロデューサーから、1本のビデオを渡された。
 「このアニメ、小説化できないだろうか?」
 それが、OVA化された『BIRTH』だった。
 脚本家の名がなかった。
 「そのOVAのシナリオを書いた脚本家がノベライズしたらいいのに……」
 と言うと……
 「実は、脚本があったのだが、でき上がったものが脚本と違いすぎるので、名前を乗せないでくれと怒っているんだ……。首藤さんは、TV化の時、企画に参加していたし、小説にしてくれたらありがたいんだが……」
 と言う。
 僕は、そのビデオを見た。
 脚本家が怒るのも無理はないと思った。
 ストーリーもドラマもなかった。
 ただ、悪玉とおぼしき存在と、主役の少年とヒロインが、おっかけっこと戦いを繰り広げる、それだけだった。
 そのかわり、一つひとつのシーンのアクション描写はいちいちすごかった。
 監督は金田伊功氏……彼は脚本の中から動かして描いてみたいシーンだけをとりだして、さらに自分が動かしたいシーンを付け加え、ヒロインは当時結婚した10代の奥さんをモデルにして(この結婚、冗談で、10代の奥さんなんてこれは結婚ではなくもはや犯罪だ……とうらやましがられた)ともかく動きに動かしまくった金田流アニメのサンプル集のようなアニメだった。
 ストーリーがないから、小説にしようがない。
 しかし、プロデューサーはどうしても小説にしたいと言う。
 僕は条件を付けた。
 アニメの印象的なシーンだけ使って、登場人物の名前は同じでもストーリーは全く違う小説にするが、それでもいいか?
 次の日、プロデューサーから了解の連絡がはいり、僕は小説版「バース」を書いた。
 アニメ用の脚本ともアニメとも違うもうひとつの小説版「バース」が完成した。
 挿絵もあとがきも金田伊功氏が書いてくれた。
 あとがきには、「僕のストーリーのないアニメをよく小説にしてくれました」と感謝の言葉が書かれてあった。
 僕にとって小説版「バース」は初めて文庫化された小説でもあった。
 その後、お会いしたのはアニメの仕事で金田氏がアメリカに行く送別パーティだった。
 この種のパーティにつきもののゲームで1等になった僕は、賞品のDVDプレーヤーをもらった。
 その時はDVDを1枚も持っていなかったが、おかげで今はDVDを300枚は持っている。
 時代がBlu-rayになりかかりつつある今、金田氏の訃報を聞いた。
 金田氏の日本のアニメに残した功績はみなさんのほうがご存じだろう。
 だが、その功績が金田氏本人の中でどう成長していくか、他の方たちの中にどう影響するか、見守る責任も金田氏にあったと思う。
 アニメ関係者で、60歳にもならず亡くなられる方が多い。
 アニメ業界は短命を強いられるような過酷な状態なのか?
 昨日、OVAの『BIRTH』を久しぶりに見た。
 ストーリーもドラマもないけれど、登り調子の金田氏の描くキャラクターが金田氏ならではの誇張で動き回り、確実に今も生きている。

   つづく
 


■第193回へ続く

(09.07.29)

 
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