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第184回 『ミュウツーの逆襲』のその先へ
日本での予想を超えた『ミュウツーの逆襲』のヒット、さらに欧米で上映された日本映画のベストヒットは。いまだに1位が『ミュウツーの逆襲』、2位が『ルギア爆誕』、3位が別のアニメ映画(このアニメ、我々がよく知っている日本国内では特大級のヒットを記録しアカデミー長編アニメ賞を受賞した日本の国民的アニメとさえ呼ばれているあのアニメでないのが残念である……)、4位が『結晶塔の帝王』で、いまだにこの記録は破られていなようだ。つまり、世界でヒットした日本映画のベスト5のうちの3本が『ポケモン』アニメなのだ。
もっとも、世界中の映画という視点から見れば。やはりハリウッド映画が強い。世界中でヒットした映画の順位からすれば『ミュウツーの逆襲』は、今は80位程度である。
ヒットとは儲けである。映画料金は時代とともに上がっていく(日本の劇場料金は高い)。だから、興行収入の金額だけでは、ヒットのベストテンは決まらない。
最近の世界興行収入ベストワン映画は「タイタニック」だったそうだが、昔の映画の入場料を現在の物価に換算すると、世界でもっともヒットした映画は、文句なく50年以上昔の大作映画「風と友に去りぬ」ということになるのだそうである。
余計な事を書くが、現代の大作「タイタニック」より、50年前の大作「風と共に去りぬ」のほうがよくできた映画だと思う、
有名な映画だから、気の利いたレンタルショップには古典名作の棚にあるはずだから、時間のある方はどうぞ。
なにしろ4時間近い大長編である。
もっとも「タイタニック」だって上映時間3時間……沈みかかった船の中で周りの人のことも考えずに恋ひとすじに船の中をうろうろする美男美女(? あのヒロインは女子プロレス選手には見えても、僕には良家の子女には見えなかった)の様子をただ写して見せた「タイタニック」よりも「風と共に去りぬ」は今見ても、4時間を飽きることなく見ることのできる絢爛娯楽スペクタクル恋愛超大作だとおもう。いかにも使いましたというCGもつかっていないしね。
最もそんな技術、50年前にあるはずもなかっただろうけれど……。
登場する美男美女も「風と共に去りぬ」のほうが、はるかに上である。
ヒット作の基準など、時代や物価や観客動員数で変わってくる。
ヒット作だからといって、名作、傑作、であるとは限らない。
毎年毎年、ヒットの記録を塗り替えようと、新しい映画が作られている。特にアメリカなどは、たまにアカデミー賞狙いの名作風傑作風映画が作られるが、もともと、どんな映画であろうとヒットしなければ、作品評価は高いがヒットしなかった残念な映画にすぎない。
もちろんくだらない映画がヒットしたときは、観客の知性を疑う……などという評論家の嘆きも聞こえはするが、資本主義の欧米では、なによりヒットすることがその映画の重要な価値観であることは確かである。
日本映画(アニメもふくめて)の中で、世界一の興行収入をかせいだ記録を持つのは、いまだに『ミュウツーの逆襲』である。
初公開後、10年以上経っているのに、世界中(主に欧米)で今も公開され、TVスペシャル番組として放映されている。
なぜ、それがわかるかというと、ソ連崩壊後にできたらしい名前のあまり聞かない国から脚本使用料が入ってくるからである。
「はあ、こんな国、できたんだ」
少なくとも小中高の学校では教えてもらった覚えのない国である。
さすがに最近は、欧米の主要国からの脚本使用料は少なくなってきた。
かわりに東欧の思わぬ国からの脚本使用料が増えている。その額自体は決して多くはないが、『ミュウツーの逆襲』は、アメリカから西欧、そしていま東欧で受け入れられているらしい。
もちろん、「ポケモン」のテレビ版もゲームもキャラクターも、西洋圏の国々を駆けずり回っているはずだ。
海賊版で悪名高い中国や韓国はとっくの昔である。
ただ、『ポケモン』映画2作目の『ルギア爆誕』がアメリカで公開されたころから気がつきかけていたことがある。
『ルギア爆誕』は、世界で公開された日本映画の中で2位の映画である。
しかし、1位と2位の差が開きすぎているのである。
送られてくる著作権料の支払いリストを見ても『ミュウツーの逆襲』が圧倒的に多い。 『ルギア爆誕』は、日本での興行収入は『ミュウツーの逆襲』より低かった……(それで、案の定上層部から嫌味らしきものを言われた覚えがある)。
それでもこの映画、日本で公開した年の1位の興行成績だったのである。
『ミュウツーの逆襲』は、僕としては、世界に通用すると思えるテーマを、その結果がどうであろうと放り込んでみた。
で、『ミュウツーの逆襲』と『ルギア爆誕』とでは、いささかテーマが違うのである。
『ミュウツーの逆襲』は「自己存在への問いかけ」であり、『ルギア爆誕』は「それぞれの自己存在」が共存することだった。
僕は、「自己存在への問いかけ」は世界に通用するテーマになるかもしれないと思った。
だが、人種、宗教、環境、それぞれ違う価値観を持つ世界中の人々に「共存」という意識は通用するのか?
僕には、「それぞれの自己存在」の共存が世界に通用するかどうかは、自信がなかった。
× × ×
じつは、共存というテーマは、『ポケモン』のシリーズ構成を依頼されたときに考えていたテーマのひとつだった。
ポケモンと人間は本当に共存できるのか?
当然、ポケモンと人間は同じではない。しかも、人間にゲットされたポケモンはゲームで、戦いの道具にされる。人間にゲットされたポケモンは奴隷である。グラディエイター(剣闘士)である。人間に寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎない。
共存は不可能……ピカチュウとサトシの間にも溝ができる。
おそらく、この番組の終盤には、ピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っている。
ローマ時代、ローマに反乱をおこし、ローマを窮地に陥れた剣闘士スパルタカスほどの実力を持ったポケモンになっている。
ポケモンは人間に反乱をおこす。
リーダーに祭り上げられるのはピカチュウだろう。
サトシとピカチュウは友人同士のつもりである。ピカチュウはポケモンとしての自分を選ぶか? 違う生き物である人間と、友情、感情という移ろいやすいものをたよりにいままでのように共存していくのか?
サトシとピカチュウは苦悩する。
「しかし人間とポケモンは共存できるよ」
と、いいながら、いけしゃあしゃあと、その戦いをやめさせるために活躍するのがロケット団とニャースのトリオである。
なぜなら、『ポケモン』の世界で出来の悪いポケモンを押しつけられ、さまざまなポケモンと出会い、自身が意識しなくても、ポケモンについていちばんよく知っているのは実はムサシとコジロウ……そして、一度は人間になりたかったニャースなのである。
彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっていた。
そして、「自己存在の問い」に対しては、自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、一つの答えを見つけたミュウツーがいる。
相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、自己存在のある限り、われわれはどんなものとも共存できる。
年月がたち、老人になったサトシは、ふと、昔を思い出す。
それは美化された少年時代の思い出。空想……、想像の生き物ポケモンたちとの冒険。友情。共存。
それは、現実の人間の世界で、サトシが出会えなかったものだっかもしれない。しかし、少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツーがいて……それだけではない、サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの目には見える。
サトシの耳にサトシの母親の声が聞こえる。
「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」
翌朝、母親に叩き起こされたサトシの姿は少年に戻っていて、元気に家を飛び出していく。
それは「ポケモン、ゲットの旅ではなく、ポケモンマスターになる旅でもなく、自分とは何かを」探し、他者との共存を目指す旅だ。
× × ×
まあこれが、TV版ポケモンが最初の予定の1年半続こうが、3・4年続こうが、僕なら何とか続けられそうなTV版ポケモンの概略だった。
で、ポイントになる「ミュウツー」を映画の1作目に持ってきた。
ゲーム上での、最強のポケモンというミュウツーの設定も都合がよかった。
よく言われることだが、TV版「ニャースのあいうえお」というエピソードはニャースが人間の言葉を話せるようになった理由をファンから聞かれ作った脚本ということになっているようだが、ニャースは最初から人間語とポケモン語の両方を理解でき互いの気持ちを通訳できる人間とポケモンの共存の橋渡しのつもりで設定した。
身分不相応な恋をし……それは人間にはありがちな恋だ……おまけにポケモンがなれるはずもない人間になろうとし、だからこそ、本来ポケモンが意識するはずもない人間の煩悩を理解できる。
人間が夢見る映画の都ハリウッドを、人間でもないポケモンのニャースが夢見るという設定を作るために、「ニャースのあいうえお」の前話に映画作りのエピソードをほかの脚本家に書いていただいたのも、ニャースを人間の夢見る場所に引き込むための伏線だった。
つまり、僕にとってアニメ版『ポケモン』で重要なのは、野生ではなく人間に育てられたピカチュウの苦悩、野生なのに人間になろうとしたニャース、そして、学術的知識を持つオーキド博士より、様々なダメポケモンとつきあって、ポケモンの心をいくらかでも理解できるムサシとコジロウなのである。
しかも、ムサシは、さまざまな人生体験をして、何をやらせても一流にはなりきれないが、一流半ぐらいの能力はある。プライドもある。ただ、人生の生き方が不器用で、ドジとへまを回避しようとしない。分かっていてもやってしまうのである。
それが、視聴者には滑稽に見える。
コジロウは良家の御曹司である。それなりの教養と良識は持っているはずだ。それでも家を出てロケット団をやっている。本来の生き方とは正反対の方向を歩いている。彼もダメなポケモンに文句を言いながら、けっこう面倒見がいい。つまり、正当な生き方を、しらずしらず否定しているのである。彼もドジとへまを回避しようとしない。分かっていてもやってしまう。それが快感なのかもしれない。そしておそらく、似たような性格のムサシを好きなはずだ。人間を気取りたがるニャースも嫌いではない。
残念ながら、こういう、いささか複雑な心理を持った人物像を書ける脚本家は多くない。
つまり、人間的には優秀だが、どこか間の抜けている性格である。
手慣れた脚本家が書くと、書くのが楽なのかどうか、どうしてもタイムボカンシリーズの三悪人風ギャグキャラになってしまいがちだ。
そんなギャグキャラが、僕の考えるテーマの本質を「今まで最高いい感じ〜」と叫んでエンドマークにできるだろうか?
それを避けるために、いろいろやってはみたが、声優さんは頑張っているのに、脚本がいまいちに感じられるのは、シリーズ構成の僕の責任かもしれない。
ある年の年賀状に、ロケット団の面白い話をもっと書いて下さい、と馴染みの声優さんからのお叱りが書いてあった。
その声優さんには、アニメ版『ポケモン』の成否はあなたたちにかかっている、と言っただけに恥ずかしい。
ロケット団の声優さんたち、このアニメの初回の打ち入りのとき、「なんだかんだといわれたら〜」のロケット団の口上を、覚えていてくれていたのである。
本当なら『ミュウツーの逆襲』の次にやるテーマは、『ミュウツーの逆襲』で、ミュウツーが意識した自己存在の問いをミュウツー自身が見つけ出す話になる。
でも、映画版『ミュウツーの逆襲』の次回作にそれをやるのはつらい。
脚本を書く僕自身が「自己存在の答え」を見つけだしているわけではない。
それこそ、『ミュウツーの逆襲』の日本公開直前に言われたように、暗い、重い、爽快感のない、大げさな言い方をすれば、ギリシャ悲劇かシェークスピア悲劇もどきになりかねない。
しかも、暗い、重い、爽快感がない映画がヒットするはずがない。
今回のヒットは、何かのフロックだと思う人も多かった。
僕自身は「自己存在の答え」を見つけてはいない。
しかし、ミュウツーにはそれを見つけだしてほしい。
結局『ミュウツーの逆襲』から2年後に、TVスペシャルで、1話30分×3構成で「ミュウツー我ハココ二アリ」……これはDVDでレンタルされている……でミュウツーのエピソードは終わった。
ラジオ版「ミュウツーの誕生」、映画『ミュウツーの逆襲』、TVスペシャル「ミュウツー我ハココにアリ」を足せば3時間以上だが、もし、ポケモンTV化初期の構想ならば、最終回近くに、再び登場するはずだった。
日本での『ミュウツーの逆襲』は、驚きだった。
さらに、世界でのヒットはスタッフにとっても仰天だったのだろう。僕だってびっくりした。
上層部の御前様は、ご自分のヒット理論とは違う作品だったことを認めつつも(これはご自身が言った)、アメリカのヒットは評価した。
そして、お祝いのご褒美を企画した。
『ポケモン』スタッフ一同のアメリカ・ラスベガス旅行である。
もちろん、費用は御前様の所属する会社持ちだろう。
航空会社は機体にポケモンを描いて飛ばしている会社である。
これには、困った。
次回作の取材旅行ならまだ分かる。
次回作『ルギア爆誕』のプロットの舞台は南の島である。
ラスベガスではない。
もちろん、今のラスベガスが、いかがわしい賭博の街とは思っていない。
世界有数のエンターテインメントショータウンであることぐらい知っている。
そりゃ、一度は行って見たい街である。
しかし、である。
僕が『ミュウツーの逆襲』で書きたかったのは、世界に通用するアニメである。
ラスベガスに行くというご褒美が欲しいわけではない。
他にもいろいろ事情があったが、スケジュールがあわないという理由でお断りした。
その事情は次回に書こうと思う。
ご褒美のラスベガス旅行は行われた。
TV版のスタッフはほとんどが参加したらしい。
しかし、ポケモン関係者のすべてが参加したわけではない。
文字どおり、スケジュールの合わない人もいた。
『ポケモン』TV版の脚本家の方は参加したらしい。
だが、肝心の『ミュウツーの逆襲』を書いた脚本家の僕は参加しなかった。
御前様は、それに気分を害したらしい、と聞いた。
あのね、『ミュウツーの逆襲』のお祝いパーティが、せめて箱根あたりの旅館だったら、僕だって……いえ他の、この作品に一所懸命になってくれた声優さんたちも、多少の時間を工面して参加してくれたと思うのですけれどね。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
シナリオ研究所で書いた、何の見返りもない20枚シナリオは4、5本だったと思う。
でも、そこで使ったアイディアはほとんど、脚本家とよばれるようになってから流用したから、無駄にはなっていないと思う。
つまり、書いたものの元はとったのである。
しかし、当時、成り行きで脚本家志望だった僕にとって、頭にきたのは脚本料の安さだった。
脚本で稼いだ脚本料より、アルバイトで稼いだ金額のほうが3倍以上高かったのである。
だから、数年間、脚本を書かなかったことがある。
だって、気がつけば、脚本料の10倍もアルバイトで稼いだ時もあったのである。
そんな時である。
僕の脚本をいつも評価してくれた先輩の脚本家が僕に言ってくれた。
実は、その先輩は、他の著名な脚本家の方々に、僕の作品を読ませていたそうだ。
面白い、とほかの方たちも評価してくれたらしい。
先輩は僕に言った。
アルバイトで稼ぐより、面白い作品を書くことが、君にとって人間として意味があるんじゃないのか?
当時、アルバイトで稼いだ金でヨーロッパをさ迷っていた僕が日本に帰ってくるなり、先輩は脚本の仕事を紹介してくれた。
そのころの売れっ子脚本家が書く予定だったが、その方が忙しくて、いつできるか分らないというのだった。
プロデューサーが先輩に言った――あなたが責任持つなら起用してもいいよ。
ひどい脚本なら、私が書き直すよ――と先輩は言ってくれた。
僕の書いた脚本は好評だった。好評どころが絶賛された。
先輩は喜んでくれた。
このコラムのはじめに掲載している
「かしこいコヨーテ」
がその作品である。
だが、この作品、完成後に問題が起こった。
脚本家の名前が首藤剛志ではなかった。
ほかの方の名前だった。
タイトルを担当した方のケアレスミスだった。
普通なら、ごめんなさいで済む話かもしれない。
しかし、それでは済まなかった。
そこに著作権の問題があった。
金銭の問題ではない。
放送局、制作会社、脚本家で様々な問題が噴出した。
繰り返して言うが金銭問題ではない。
「かしこいコヨーテ」という作品をだれが書いたか。それが問題だった。
だれが何を書いたか……それが最大の問題だった。
著作権は、その作品がだれが書いたか?
その作品の権利は誰にあるのか――その当時、関係者はそれぞれ、まじめに考えてくれていたのである。
つづく
■第185回へ続く
(09.05.14)
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編集・著作:
スタジオ雄
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