web animation magazine WEBアニメスタイル

 
アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第167回 ポケモン事件前までの『ミュウツーの逆襲』

 「自分とは、何か?」という疑問が、世界に通用するテーマかどうか?
 その答えが、僕にとってはヨーロッパで、起こったルネサンスだった。
 普通、ルネサンスといえば、イタリアの、ダ・ビンチや、ミケランジェロ、を代表とする芸術活動を連想するが、まあ、一般的にいえば……(以下、Wikipediaから適当に孫引きすると)
 ルネサンス(仏:Renaissance 直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀―16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的・文化的諸運動を指す。また、これらが興った時代(14世紀―16世紀)を指すこともある。
 イタリア・ルネサンス以前の時代にも古代文化の復興運動があったとして「○○ルネサンス」と呼ぶこともある。
 ……ってな、ところが、常識的な見解だろう。
 この中の「古典古代文化を見直そう」というのが、ヨーロッパの中世のなんでも神様まかせ主義の人間が、「人間とは何か」を考え直してみようという運動(つまりルネサンス)だった。
 それは違うという方もいるだろうが、僕は、強引にそう思ってしまうのである。
 古典古代文化とは、キリスト教にまだ染まりきらないローマ文化や、キリスト教のない頃のギリシャ文化などの、一神教でないころの時代の文化だが、日本並みに、八百万の神がいて、おまけに、神格化されて絵や彫刻にされる英雄もいるは、人間というものの考え方も様々で「人間とは何か」という大げさな呼び方ではなくても、「人間とはアホかいな」とか「人間とはなさけないな」とか「人間とは悲しいな」とか、それが、「人間とはなんじゃろな?」という疑問に発展して人々の学間や芸術活動として活発に行われていた時代の文化である。
 それが、ローマ帝国が大きくなりすぎて、様々な神様や文化がごちゃごちゃするとややこしいので、「神様はひとり」主義(?)のキリスト教が、簡単で(?)幅を利かしてきた。そして、ヨーロッパの中世がはじまる。
 似たようなことがイスラム世界でマホメットを救世主として起こったが、そちらに対する知識は僕にはほとんどない。
 で、ヨーロッパの中世は、神様お1人の世界だから、それはそれで立派だが、あれはダメ、これはダメ、と何かと融通が利かない。
 聖書などという教科書まであるから、それに逆らった人や違った考えを持つ人は叱られる。
 聖書と違った新しい考え方は罰せられる。
 とっても、人が気ままに生きるのに窮屈な時代になった。
 これを、中世の暗黒時代と呼ぶらしい。
 で、もちっと、自由に楽に「人間」を見直してみたいな……という考えが広まってきた。
 そういえば、古代のギリシャやローマは、人間というものの表現のし方、考え方が、中世のように窮屈じゃなかった。
 「この際、古典古代文化を見直し、復活してみないか?」
 というのが、ルネサンスである……少なくとも僕は、そう考えた。
 で、それまでの中世的考えの迫害を受けながらも、芸術面では、イタリアのルネサンスが目立った。
 当時のイタリアは進歩的な大金持ちがいて(メディチさんなど)、芸術家のスポンサーになったからである。
 宗教も、お金には弱いらしく、大金持ちの道楽を大目にみたようだ。
 で、ルネサンスは、芸術・文化だけでとどまったわけではなかった。
 いままでの宗教カトリック的神様に気配りしつつも、大きな意味での宗教改革、小さくても、その地方に合った改革が行われた。
 離婚を禁止したカトリックに逆らって(当時の英国王は、それまでの奥さんと離婚したかった。アン・ブリーンという女性と結婚したかったのだ)、その王様が離婚したさに新たに作ったキリスト教の教会が英国国教会だといわれるが、実際は英国国内の人心が、カトリックに合わなくなったのだと言われている。
 これも、宗教面でのルネッサンスと言えないこともない。
 演劇だったら、シェークスピアもルネサンスである。
 コロンブスやその他の航海も、それまでの宗教の世界観から抜け出そうとした、ルネサンスの一種とも言われている。
 「地球は動いている」のガリレオは、言うまでもない。
 つまり、ルネサンスは、「神の子」と思い込んでいた人間に、「人間とは何か」「自分とは何か」を考えるきっかけになったのだ。
 それが欧州中に広がり、さまざまな宗派に分離し、キリストの神様への信心と共存しながら現在にいたっているなら、『ポケモン』に「自分とは何か?」というテーマを持ち込んでいい、通用するはずだと思った。
 僕は以前にルネッサンスを舞台にした、「美しき黄昏のパバーヌ」という「とんでも」(?)小説を書いていて、そのテーマも結局「自分とは何か?」だった。
 しかし、こんな哲学っぽいテーマが露骨に出ては、制作サイドから嫌われるだろう。
 脚本第1稿『ミュウツーの逆襲』は、ミュウのコピーであるミュウツーを、オリジナルのミュウが「所詮、おまえは、コピーにすぎない」といたぶるセリフがいっぱいあった。
 それが、ミュウツーの劣等感をゆさぶり、なおさらオリジナルのポケモンに対して敵愾心を燃やしていく。
 つまり、脚本第1稿には、ミュウにはセリフがいくつもあったのである。
 それも、ミュウツーを傷つける針のようなセリフである。
 そして、ミュウツーの存在を問いかける、まるでディスカッションドラマのようになっていた。
 ミュウの容姿は、哲学的とは呼べないものだ。まして暴力的な性格はとても予想できない。無邪気で、どことなく可愛げで、たいした武器になるようなものを持っているように見えない。
 そんなミュウが、べらべらと、ミュウツーの自尊心をいたぶるようなセリフをしゃべるのは、ある意味、残酷で効果的かもしれない。
 だが、無邪気に相手をいたぶる声も思いつかない。
 そんな時、監督が言った。
 「ミュウツーの前を、何もいわずに無邪気に飛び回っているほうがいいんじゃないか? ミュウは何もしゃべらないほうがいい……そのほうが、ミュウツーの気持ちが余計いらだつ」
 確かにそのとおりである。
 無邪気に、ミュウツーの前を飛び回るだけで、ミュウツーの怒りを増長させる演出に自信があるのなら、ミュウとミュウツーが、べらべらしゃべりあうよりずっと効果がある。
 『ミュウツーの逆襲』の2稿は、ミュウのセリフを全部削り、ときおり「ミュウ」と自分の名前を呟くだけにした。
 不思議なことに、ディスカッション相手のミュウのセリフがなくなったのに、ミュウツーのセリフは、ほとんど変わらなかった。
 ミュウがなにもしゃべらないから、ここは、ミュウツーの声をやる方の独壇場の、聞かせどころになった。
 この方については、後で紹介する。
 つまり、ミュウのコピーであるミュウツーの言葉は、ミュウから劣等感を刺激されるような言葉をきかされていたとしても、結局は「自分とはなにか?」と自問自答の連続なのだ。
 オリジナルのミュウに対して、オリジナルとコピーの優劣をディスカッションしても始まらない。
 「コピーである自分は、今オリジナルを目の前にしている自分は、いったい何なのか?」
 それを意味する言葉をオリジナルのミュウに投げつけている、空しい、しかしコピーであっても自己存在を主張したい、熱のこもったセリフなのだ。
 ミュウは存在するだけで、ミュウツーに対する脅威だ。
 べらべらミュウツーを痛めつける言葉より、無言でいる事の方が確かに効果的だった。
 しかし、1稿に書いたミュウのセリフが無駄になったとも思わない。
 ミュウが、ミュウツーに言いたかったこととは、つまり、「コピーはしょせんコピーだ。私は、人間に作られたコピーの存在など許せない」。誰だってそうだろう。自分のコピーが存在し、自分以上に活躍するのを、許せるだろうか?、
 この映画のミュウとミュウツーの関係は、遺伝子でつながっている。
 しかし、自然なつながりではない。
 人間の科学力で二者がつながった人為的なつながりだ。
 おそらく、ミュウもミュウツーも、そういう意味では、望みもしないのに勝手につながりを作られたものとして、人間に対して怒りを感じているかもしれない。
 そんな二者の感情を、監督やスタッフに分かってもらう確認のためにも、1稿は必要だったと思う。
 事実、ミュウの動きは、ミュウツーを怒りを誘うのに充分だったと思う。
 さらに言えば、ミュウツーの城の下水道に忍び込んだロケット団の後ろに見えかくれするミュウの表情は、好奇心がいっぱいで、よくできていた。
 まだこの時点で、ミュウは、ミュウツーが何をしているのか分かっていない。
 ただ、自分の遺伝子と似たものが存在して、なにか大それたことを始めそう(大あらしを起こすなど……)なのを感知して、ミュウツーの城にやってきたのである。
 ミュウは、ミュウツーのやったことはどうでもいい。
 だから、オリジナルのポケモンとコピーのポケモンの戦いは傍観している。
 ただし、自分のコピーは許せない。
 だから、コピーのミュウツーを嘲笑するような対決の仕方をする。
 この作品で、コピーとオリジナルのどちらかが強いかは、明らかにしていない。
 『ミュウツーの逆襲』の終末付近のことは、後で書くことにする。
 この脚本は、賛否両論だったらしい。
 アクションが少ない。テーマが暗い。
 だが、この脚本会議に僕は出ていないので、誰が賛成者で誰が否定者なのか僕は知らない。
 その結果かどうか知らないが、アクションについては、サトシがピカチュウを救うためポケモンコピー機を壊す場面を、監督が付け加えた。
 僕に言っても、付け加えないと思ったのかもしれない。
 監督のパソコンがMacで、僕と同じだったので、フロッピーで原稿を渡した。
 フロッピーだったので、原稿を書き加えるのが楽だったと監督が言ったのを覚えている。
 『ポケモン』の映画版は関係者が多いし、第1作でもあるし、当然、脚本が多数印刷されるしで、絵コンテでそんなシーンを監督が付け加えるわけにもいかないのである。
 でないと、「脚本と違うじゃないか」という苦情がでる。
 ただ、この付け加えた部分、確かにアクションは面白くなっているかもしれないが、必死にピカチュウを助けようとするサトシの姿は、サトシとピカチュウの「友情」を強調してもいる。
 この「友情」の強調が、後になって効果的になるのだが、それでいいのかいまだに分からない。
 この映画、ラスト近くで、石化したサトシを、ピカチュウが電撃で生き返らせようというシーンがあるのだが、僕としては、サトシを生き返らせようとする電撃を、観客に「友情」のためだけと思われたくなかった。
 結果は「泣かせる名場面」という事になっているのだが、これでいのかなあという気もする。
 基本的には、これで脚本2稿監督改定版ということになる。
 作品のファーストシーンは、キャンプをしているサトシたちに、ポケモントレーナーが挑戦するところである。
 つまり、映画のタイトルバックのシーンである。
 この映画では、TV版でミュウツーはすでに紹介されているはずだったのだ。
 それが、ポケモン事件で、放送が4ヶ月遅れ、ミュウツーの登場する回が作れなくなってしまった。
 となると、ミュウツー紹介のシーンが必要になる。
 タイトル前の数分にミュウツー紹介シーンが必要になった。
 そこが上映映画のファースト・シーンになる(……なお、これは、DVDやビデオになっている完全版とは違う。完全版には、ミュウツーの誕生までが、タイトル前に付け加えられている)。
 ファースト・シーンなら、それなりの、インパクトが必要である。
 正直困っていたら、監督がミュウツーの声にしたい人がいるという。
 それがなんと、市村正親氏である。
 監督がどこで、市村正親氏を知ったかは知らない。
 だが、僕はその名前も芝居も見ていた。
 監督が市村氏をミュウツーの候補に挙げたと聞いた時、僕は「やったね!」だった。
 ミュウツーが市村氏なら、「ファースト・シーン」がすぐにできてしまったのである。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 僕が言った『うる星やつら2』のトリッキーなプロットとは……。
 以前も書いたが、高橋留美子さん的感覚の女性主人公キャラクターが男の僕にはよく話分からない。
 よく分からないキャラクターのセリフは書けない。
 したがって、セリフを極力少なくすることである。
 僕の書いたプロットを簡単に書けば、記憶喪失したラムの心の中に友引高校ごと、移動してしまうという話である。
 その前の状況として、地球滅亡の危機が迫っていて、ラムだけがその危機を回避できる。
 しかし、ラムが記憶を喪失してしまっては、その方法が分からない。
 で、ラムの心の中は、あたるとの恋に疲れて荒廃していた。
 友引高校の一同は、ラムの荒廃した心の中でサバイバルしながら荒廃の元をさがし、それを癒して、記憶を取り戻させようとする。
 しかし、ラムの荒廃のもとともいえる何かに、友引高校の一同は次々と倒れていく。
 残ったのは、あたる1人……地球滅亡の時は近い。
 あたるは、ラムの荒廃をいやすものを持って、ラムの心の出口に走る、走れあたる!
 走れメロスは友情のため走るが、あたるは、走りたくもないのに、地球滅亡を救うために走らねばならぬ羽目に陥るのである。

 このプロット、やたらとラムの名前が出ているが、実は4分の2はラムの心の世界、4分の1が記憶喪失。残り4分の1は、うる星やつらの常連女性群が、しょうもない男どもの悪口をガンガン言いまくる場面である。
 その悪口にオーバーヒートしたラムは、記憶喪失になってしまうのだが……。
 常連女性たちの悪口は、今で言う「SEX AND THE CITY」でいける。
 アラフォーの女性4人組の男性談義で、それぞれ結構えげつない。
 でも、あのTVシリーズ(映画にもなっているが)、僕が見たのは脚本が男性である。
 女性は、いくらあけすけでも、女性同士では本音を言わない場合も多い。
 しかし、関係のない男への悪口は、すごい。
 ここらの女性たちのセリフの応酬は、男の僕でも面白く書けそうだ。
 次は記憶喪失したラムだから、セリフは「私は誰? ここはどこ?」でいける。
 そして、ラムの心の世界である。
 ラムの心だから、ラムのセリフが出てこない。
 つまり、このプロットは、ラムのセリフがほとんど出なくても成立するのである。
 そのくせ、プロットの文章にはラムがいっぱい出てくるから、ラムが出ている気がする。
 で、そのせいかどうか、脚本にGOサインがでた。
 とりあえずハコガキを書き始めた。
 ハコガキとは、構成メモのようなものである。
 思いついた気の利いたセリフなどがあれば、書きとめておくときもある。
 脚本家の方には、絶対ハコガキと登場人物の履歴書を書かないと脚本を書き始めないという人もいるが、僕はめったにハコガキは書かない。
 そんな僕がびっくりした凄いハコガキを目撃した例は、いずれこのコラムに書こうと思う。
 僕がハコガキや履歴書を書かないのは、それに縛られて、人間が自由に動かない場合があるからである。
 しかし、今回の場合、長編映画だし、女性群の悪口、記憶喪失したラムへの男性軍のあたふた、そしてラムの心の中でのサバイバルと脱出……各シーンごとに人物の気持ちが変わっていくし、登場人物も多いし、作品のラストに行方不明になる人物が出ると困る。
 僕がハコガキを書いたのは、この作品と『銀河英雄伝説』の映画版だけである(この作品も登場人物が多かった)。
 まあ、前半のハコガキは適当である。
 現実に脚本を書きだしたら、全体の4分の1にもならないだろう。
 で、ラムのセリフが一切出てこない、ラムの心象風景になった。
 女性の幸せな心象風景は難しいが、絶望的な心象風景ってどんなものだろう?
 その心象風景で、友引高校のの面々はサバイバルしなければならないのである。
 それも、宇宙人ラムの心象風景である。
 だから書きやすいとも思ったが、観客の女性に変だとも思われたくない。
 たとえば『オンリー・ユー』にある冷凍シーンなど、どう考えても女性の発想じゃなさそうである。
 ラムの心象風景にはとても困った。
 ついには某絶望系心象お得意女性ライターに相談に乗ってもらおうかなと思った。
 どうでもいいが、家も近いし……。
 そんな矢先に、プロデューサーの落合氏から連絡があった。
 押井監督が、このプロットでは降りると言い出している。
 でも、スケジュールが……、いまさら他のスタッフでは……。
 渡りに船ではないが、「では、こっちが降ります」で、脚本料1本分いただいて話は終わった。
 実は、あの作品に未練がないといえば、ウソになる。
 今でこそ珍しくないが、他人の心象風景の中でじだばたする話は、やりたい素材ではあった。
 最近では「マルコビッチの穴」など、そんな映画の系統だろう。
 自分の心象風景と自分自身がじたばたする映画にはフェリーニの「8 1/2」――傑作!――がある。
 『うる星2』に関して言えば、通ると思わなかったプロットも通ったことだし……もっとも監督が押井氏だったら、ラムの心象風景など押井氏の世界感でべったりモザイクされ、誰が脚本を書こうと意味がないかもしれない。
 だが、故・落合氏の著書を読んで分かった気がしたのは、落合氏はかなり作家性のあるプロデューサーだったということだ。
 それぞれ、作家性の強い原作者、プロデューサー、監督、脚本家、さらに今まで浮かんでこなかったが、TV局のプロデューサーも、かなり作家性の強い人だ。
 まともにぶつかると、うまくいくはずがないのである。
 そういう意味で、おそらく押井氏の作家生命をかけたつもりの、『ビューティフル・ドリーマー』での巧妙な立ち回りは、大成功したわけである。
 他のイメージからの引用癖さえどうにかなれば、才能のある人だと思う。
 ただ、ふたつかみっつの歳の違いで、影響が受けた映画が違い、70年安保の学生運動のおしりの年代だった僕と、それをすぐ真下で見上げていた年代の押井氏の違いがとても興味深い監督なのである。
 そんなこともいつか書いてみようと思う。
 この件で、一番気の毒だったのは、おそらく押井氏びいきだったろう落合氏……いや、落合氏は押井氏が自分の思いどおりになる作家と思ったのかもしれない。だが、それは大誤算だった。そして、もう1人気の毒な人をあげれば、第1作で絵コンテをめぐり喧嘩をしただけくたびれた、金春さんだったかもしれない。
 金春さんが、脚本家と監督、さらに絵コンテマンがホン読みに参加できればいいというような事をどこかで書いていたが、それも正論だと思う。
 僕はといえば、『ポケモン』以前のシリーズの1話目は、必ず絵コンテを見させていただき、アフレコが始まれば、アフレコ台本でセリフを見る。
 そもそも僕の場合、脚本が絵コンテで変わることはめったにないし、その前に監督と充分話している。
 監督との疎通がうまくいかなかった場合は悲惨で、近年そんな作品があって愕然とした。
 たぶん僕の脚本家生活はじめてだろう。
 それぞれ意見が違ってもいい、プロデューサー、監督と妥協点を見つけつつも、自分の意思を押しとおす術は、覚えて損はないと思う。

   つづく
 


■第168回へ続く

(08.12.10)

 
  ←BACK ↑PAGE TOP
 
   

編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
Copyright(C) 2000 STUDIO YOU. All rights reserved.