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第160回 ポケモン事件 当日の病院では……
あの事件で、小田原の救急病院に担ぎ込まれた女の子のことを僕が知ったのは、事件が起こってから、ほぼ1年半ほど後のことである。
劇場版『ポケモン』の2本目を書き終えた頃、体調がめちゃめちゃになり、映画の脚本が決定稿になったことを監督に確認して、小田原市内の大きな私立病院に入院した。
その同じ病院に、1年半前に担ぎ込まれた女の子のことを看護婦(今は看護師と呼ぶ)の方達が鮮明に覚えていたのだ。
彼女達にとって、『ポケモン』はゲームでもなくアニメでもなく、倒れて担ぎ込まれた女の子の症状を引き起こした原因だった。
その病院には、小児科も当然あるから、そこの担当の医者や看護師なら、ゲームやアニメとして子供に大ブームの『ポケモン』をよく知っているだろうが、たまたま事件の日に夜間勤務で、救急車で運び込まれてくる病人に対処しなければならなかった医者や看護師には、事件から1年半経っても、『ポケモン』は事件を引き起こした原因になったTV番組という印象の方が強く残っていても仕方ないだろう。
彼らにとって『ポケモン』は、ギネスブックの記載ではないが「最も多くの視聴者に発作を起こさせたTV番組」なのである。
「ともかく、あの時は大変だったんですよ」
彼女達はその時の事を、僕に話してくれた。
誤解のないように書いておかなければいけないが、医者や看護師は、他の患者の事を軽々しく話はしない。
こと医療に関しては口の堅い人達である。
だから、入院患者の僕が当時『ポケモン』に関わっていた人間だからと言って、簡単に話を聞き出せたわけではない。
患者対医者、看護師という関係以上の、知人、友人としての関係で「彼らの苦労話」の一つとして話してくれたのである。
もっとも、あの事件から10年以上経った今では、彼女達の記憶の中でも遠い昔話になっていると思うが……。
僕自身、その病院に入院するまでの1年半、『ポケモン』を書いていた仕事場のある小田原に、あの事件の被害者がいたことすら知らなかった。
まして僕が入院した同じ病院に担ぎ込まれたなど、それを知った時はいささかショックだった。
僕自身の中で1年半前のあの事件は、恥ずかしながら、いささか風化してもいたからだ。
あの事件の以前以後では僕の知りうる限りでも様々な事が起こったが、整理するなら、事件が起こった頃の事から書いた方が分かりやすいと思い、1年半後に知ったことを先に書くことにした。
もっとも、1年半後と言っても、実は事件の翌日、早速『ポケモン』の制作会社から連絡があった。
「この事態に関して、制作側やTV局の見解や対処を一貫させたいので、マスコミ関係から取材があっても、個人的なコメントは一切言わないように」という内容だ。
たぶん、『ポケモン』アニメの関係者のほとんどにこの連絡はいっただろう。
早い話が、この事件に対する口止めなのだが、この連絡は正解だと思う。
この事件は、マスコミにとって大事件でもあるが、大きなネタでもある。
あることないこと、憶測、あれやこれやと大騒ぎになるはずである。
そこに『ポケモン』関係の誰がこう言った、彼がこう言った、私はこう思う、僕はそうは思わない、事件の責任は誰にある……などという意見が出たら収拾がつかなくなる。
特にコメントというものは、僕も他の件で過去に求められて答えたことがあるが、僕が言った主旨通り書かれる事はめったにない。
コメントの部分部分だけを切り取って、書き手が都合よくつなげてまとめてしまう事がよくある。
曲解されて書かれて「そんなつもりで言っていない」と抗議したところで、「でも、あなたが言った言葉には違いないでしょ」と言い返されたらそれで終わりである。
まあ、僕がそれまで受けた取材など、自分の書いた脚本のアニメや小説のことぐらいで、どう曲解されても大騒ぎにはならないが、今回は違う。
被害者の出ている大事件である。
しかも、その時点で、どのくらいの被害が出ているのかも分からない。
僕自身、ほとんど事件についての知識はないのである。
取材されても「はい、確かに僕は『ポケモン』のシリーズ構成です。こんな事件が起こるとは思いませんでした。大変な事になって申し訳ないと思っています」ぐらいしか言えないだろう。
だが、この発言でさえ、シリーズ構成は「申し訳ないと思っている」と謝っている。罪を認めている。つまり、アニメの『ポケモン』は悪い。と、マスコミは書き散らすかもしれない。
つまり、何を言っても相手の都合よく報道されてしまう。
取材されても「何も言えません。後で公式発表があると思います」と答えるのが、正解なのである。
『ポケモン』アニメの制作には、その手の週刊誌を出している大出版社がからんでいる。
だからこそ、自分の身に降りかかってくる火の粉には敏感である。
そこですばやく関係者の口止めをしておく。
さすが対応策が早いなあ……と感心した。
さらにかかってきた電話は、マスコミ、特に大新聞の一面で、いつも適当な事を書かれてひどい目にあっている知人だった。
この電話も、事件の翌日だった。
「お前、口が裂けても、今回の事件は自分にも責任があるなどと言うなよ」
「シリーズ構成である以上、責任ないとは言い切れないし……」
僕は、歯切れが悪い。
知人は、アニメ制作の事情は全然知らない。
しかし、人間関係や組織というものについては僕よりずっとよく知っている。
「そんなことを言うと、最悪の場合、ある事ないこと、全部お前の責任にされるぞ。何事かあった時に、責任を回避したがるのが人間だからな」
ありがたい忠告といえば、ありがたい。
「でも、なんで、こんな電話を?」と、聞くと……
「お前、どうでもいいことでも、『俺の責任だ』と言いたがる性格だからな」
「そうかなあ?」
「お前の口癖じゃないか」
自分の口癖には気がつかないものである。
「俺の責任だ」といいたがるのは、ある意味、自意識過剰という証拠でもあるのだが……。
もう1本、その日に電話があった。
某有名大学病院の医者で友人だった。
普通の人の知らないだろう医療知識や大病院にありがちな内部事情は、この友人とこの大学病院の看護婦さん達から情報を得ていた。
「酒、飲みすぎないように。首藤さんはどんな理由でも酒を飲む口実にするんだから……。肝臓の事、忘れないように」
「ああ、ありがとう」僕は答えた。
しかし、この忠告は遅かった。
もう、小田原の港の自動販売機で買ったワンカップを飲んでいた。……その電話のお陰でそのワンカップで止めたけれど……電話がなければ、酒屋で一升瓶を買っていたかもしれない。
それが1997年12月17日、事件の翌日の僕である……その後のあれこれは後回しにして、僕がその1年半後に聞いた事件当日の状況は、以下である。
その話の前に、小田原の病院事情を話しておく必要があるかもしれない。
小田原は歴史のある古い街である。
街のはずれに大きな市立病院はあるが、街の中央には、さほど離れていない距離にみっつの大きな私立病院がある。
どの病院も小田原城から歩いて5分ぐらい……つまり、みっつの病院は昔の小田原城下町の中心部の病院なのだ。
おそらく、江戸時代から続いている病院で、しかもどこも救急車受け入れ可能の大きな病院である。
大きな私立病院がみっつも近くにあると、経営が大丈夫かといらぬ心配をしたくなるが、上手く住み分けているようだ。
それぞれ、得意分野はあるらしいものの、地域密着型というか、患者は固定客というかお得意さんなのである。
僕の入院した病院の医者は代々お医者さんで、患者も代々そこの患者さんが多いようだ。
つまり、小田原市民は病気になったら、代々行きつけの大病院が決まっているようなのだ。
もちろん、病院にはその病院の家族以外のお医者さんが大勢いるが、権威のあるのは病院長の大先生である。
息子さんは若先生と呼ばれていた。
大先生はかなりご年配で、最新医療知識という面ではどう考えても若先生のほうが安心できそうなのだが、年配の患者さんは大先生をわざわざ御指名するらしく、つまり、長年の信頼で、病院と患者は結ばれているのである。
で、大先生も老いの一念なのか、週何回かは、担当の患者でもないのに入院患者の回診に来る。
別に診察するわけでもなく挨拶のようなものである。、
僕の入院した病院は、僕の記憶だと確か7階建てで、看護学校まで併設してあった。
クリスマスの時は、看護学校の生徒がケーキとささやかだが手作りのプレゼントを持って各病室を回って、クリスマスソングを歌っていた。
2階から5階が入院病棟で、6階に調理室があり、間違えて7階までエレベーターで昇っていったら玄関があって、そこは、お医者さんの自宅だった。
小児科から車椅子のご老人が入院し介護をうけているような階まであり、文字どおりゆりかごから墓場まで、お得意さんの市民の怪我や病気を面倒みているような病院なのである。
ほとんどの病気や怪我に対応できる設備があり、その病院で手に負えないような重病の人は、それに対応できる大学病院に送り込める体制も整っている。
市民にとって、行きつけというには大病院なのだが、それでも顔見知りであり、何事かあれば、とりあえず何とかしてくれる頼りになる病院なのである。
救急車の人も、病人やけが人にどこの病院に行くか訊く。
かかりつけの病院がいいに決まっている。
その人の過去の病気の資料も整っている。
大都会では聞きなれている救急のタライ回しの話も、小田原ではあまり聞かない。
病院のほうだって、顔見知りの患者は断りにくいだろう。
病気の時だけ必要な都会の大病院と違い、小田原の大きな私立病院は日常的に患者と親密な関わりのある病院なのだろう。
余談だが、僕が入院した時は入院食がまずかった。
だが1年後、もう一度同じ病院に入院したら、段違いに食事がうまかった。
食費や食材が変わるわけがないから、調理師が変わったのだろう。
入院患者の誰かが、食事のまずさを指摘したに違いない。
小田原は人口の流入流出の激しい街ではない。
だから、病院の患者も固定客が多い。
街の中は顔見知りが多いから、悪い評判はすぐ広まる。
固定客にとって信頼のおける頼りがいのある病院でなければ、患者……つまり、お客さんが逃げていってしまう。
とまあこんな状況で、みっつの大きな私立病院が並んでいるのである。
それぞれ古くからの固定客を逃がしたくないし、患者からもそれぞれ信頼もされている。
長々と小田原の病院事情を書いたが、そんな事情のある病院に、午後7時頃、昼勤と夜勤の交代の申し合わせも終わり、入院患者の夕食も終わって、ひとまずやれやれと一息つく頃に、原因不明で倒れた女の子が担ぎ込まれたのである。
当直の医者と看護婦は、慌てて、それでもその病院でできる限りの処置と検査はした。
しかし、原因が分からない。
女の子の親は、日頃頼りにしている病院の医師に、大丈夫だと言ってほしい。
医者にすがる思いだろう。
しかし、原因も分からずに大丈夫だとは言えない。
「大丈夫です。まかしてください」等と言って、容態が急変したら、「先生は大丈夫だと言ったのに……」と恨まれる。病院に対する信頼も失墜する。
原因が分からないからといって大学病院に運ぼうにも、運んでいる間に女の子にもしもの事が起こればどうなる?
それこそ、原因が分からないからという理由で患者をタライ回ししたと言われかねない。
こんな時は、まず安静と点滴である。
原因が分かれば打つ手も見つかるだろうが、その原因が分からない。
他の脳関係に詳しい病院にいろいろ問い合わせても分からない。
じりじりと時間は過ぎていく。
なんでよりによってこんな時に当直になったんだろう……と、かなり途方にくれたそうだ。
そして、午後11時過ぎ、ニュースか他の病院からの連絡かで(……そこはよく覚えていないそうだが)、日本各地で同様の症状の患者が続出していることを知った。
そして、親に聞いた。
「TVで『ポケモン』見てましたか?」
女の子がポケモンを見ていた事を知って、正直ほっとしたそうである。
……うちだけの患者じゃなかった。
「こんな言い方、変ですけど、他でも『ポケモン』見ておかしくなったんなら、怖くないってね」
なんだか、赤信号みんなで渡れば怖くない……といった感じである。
一応その晩は女の子の様子を見て、翌日正常に戻ったのを確認して、親と一緒に家に帰ってもらったそうである。
僕に話してくれたときは、それから1年半経っている。
少しだけ苦笑して、そのときの事を話してくれたが、僕はとても笑えなかった。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
普通の常識とは違う脚本の話をしてきたので、ついでといってはなんだが、脚本を壊していると思われるアニメの話もしよう。
制作状況やスケジュールの都合で、絵コンテマンや監督が、できあがった脚本を無視したアニメの事を言っているのではない。
そんなのは問題外である。
ここで言いたいのは、意識的に脚本を壊しているアニメのことである。
明らかに脚本がないと分かるアニメでも、短編ですばらしいと思える作品がいくつもある。
作者の頭の中に思い描くイメージを、直接アニメにしたような作品である。
そんな作品は、見る側のイメージも同時にふくらませてくれる。
しかし、最近、何と言っていいのか分からない不思議なアニメを見た。
そのアニメ、最初の20分ぐらいで、脚本が壊れていることが分かる。
それが分からない人は、そのアニメを文章化して脚本に書いてみるといい。
脚本が壊れていることに気づくはずだ。
この作者は、いきなり絵コンテから描き始める人だから、そもそも脚本がないというのとはちょっと違う。
文章化した脚本はなくても、アニメにストーリーや台詞がある以上、作者の頭の中には脚本があるはずだ。
この作家の昔のアニメ作品は、優れた脚本を元にして作られていると思えるものがあった。
だからこの作家が、脚本が書けない、読めない作家だとはとても思えない。
だが、最近の作品は、途中まで脚本があって、中盤以降からイメージ優先で意識的に脚本を壊しているとしか思えないものがほとんどな気がする。
そしてとうとう今回はイメージ優先が行き着いてしまって、脚本を捨てることにしたのか、それとも脚本というもの自体に失望しきってしまったのだろうか。
それにしては、アニメの中に脚本の残骸のようなものもあるから、よく分からないのである。
僕はイメージ優先を否定はしない。
それは作家の自由だし、自分のイメージで1時間以上、見る者を画面に釘づけにできたらそれはすさまじい才能だと思う。
ところで、昔ディズニーのアニメで、『ファンタジア』という作品があった。
クラシックのいろいろな名曲にあわせて、おそらくディズニー系列のアニメ作家が、それぞれ感じたイメージをアニメにして動かした作品だが、僕は5歳ぐらいの時に見て、20歳前後までは、凄い作品だと思っていた。
しかし、ある時、愕然としたのである。
「魔法使いの弟子」の音楽だけを聞いたら、頭の中に『ファンタジア』のアニメのミッキーマウスが浮かんでくるのである。
他のイメージが浮かんでこない。
「くるみ割り人形」を聞けば、浮かんでくるのは『ファンタジア』のアニメシーンである。
「くるみ割り人形」は、もともとチャイコフスキーのバレエのための音楽だったはずである。
大人になって、様々な演出のバレエ「くるみ割り人形」を見たが、どうしても『ファンタジア』のアニメのイメージが優先する。
仕方がないので、その後『まんが世界昔ばなし』というアニメで30分の「くるみ割り人形」のほとんどオリジナルな脚本を書き、チャイコフスキーの音楽を使い、字コンテまで書かしてもらって……それでも、『ファンタジア』のアニメのイメージからなかなか抜け出せなかった。
他の『ファンタジア』の曲も同じである。
『ファンタジア』で流されたクラシックを聞くとほとんど、『ファンタジア』のアニメシーンが浮かんでくる。
僕は5歳の頃に、どうやら『ファンタジア』に洗脳されてしまったようだ。
で、前の話題のアニメに戻る。
そのアニメ、クラシックにありそうでなさそうで、どこかで聞いたような音楽が絶えず流れている。
大人の僕まで、主題歌のメロディを覚えてしまった。
精神を鼓舞されるような曲(ほとんどワグナー)もあるが、戦争するならともかく、子供が目的に向かって波の上を走るシーンに流れると、確かに気分は高揚するかもしれないが、パチンコ屋で軍艦マーチを聞いているような違和感がある。
子供向けのアニメと言うにしては、アニメで描かれるイメージが、子供の持つイマジネーションをより大きくふくらますものとも思えない。
作者は、子供が持つ生に向けて前向きな純真なイメージを意識しているつもりなのかもしれないが、このアニメのイメージには、むしろ死に直面したような怖いイメージが漂っている気もする。
僕だけかもしれないが、子供が持つイマジネーションは、明るくて生に満ち溢れているものだと思いたい。
子供は太陽や花の絵を描くときに、よく目や鼻や口を書くことがあるが、ほとんどその表情は笑っている。
子供は本能的に、太陽や花に優しいイメージを感じるからかもしれない。
しかし、押し寄せる波に目を描く子供の絵を、僕は見たことがない。
押し寄せる波に目(意志?)があるとしたら怖い、と思うのは僕だけだろうか。
イメージと音楽優先で意識的に脚本を壊して、作者は子供達の脳に何かを植えつけたいのだろうか。
子供達への洗脳など意識していないで、このアニメを作ったのだとしたら、それもある意味凄いことだとは思うのだが……。
このアニメ、アニメに興味のある人は、多分ほとんど見るだろうから、みなさんの感想も聞いてみたいものである。
つづく
■第161回へ続く
(08.09.10)
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編集・著作:
スタジオ雄
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