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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第156回 『ポケモン』でプレッシャー初体験

 『ポケモン』の小説を書き始める少しだけ前の頃に戻ってみる。
 『ポケモン』のアニメ人気が上昇中の頃である。
 物事が好調に運ぶと、当然だが、それに関わるみんなの雰囲気がよくなってくるのを感じる。
 『ポケモン』のアニメ化が上手くいっているのは、脚本会議のスタッフの表情を見ていれば分かった。
 最初の頃は、アニメ化への疑問や不安が、脚本会議に緊張感をもたらしていた。
 ある脚本家の書いた脚本に、あるプロデューサーが否定的な意見を言った時には、「あんた、僕の脚本に何が言いたいわけ? どうしろというの?」と、明らかに脚本家の怒りのこもった返答があり、脚本会議がシーンと水を打ったように静まり返った時もあった。
 プロデューサーや監督からの要求で脚本を改定することになっても、「はいはい」と脚本家は答えるものの、納得できない渋い顔という事や、愛想のいい事で知られる脚本家が、顔は笑っているが「仕方ないや……」と肩をすくめる感じがありありという事もあった。
 『ポケモン』のために集められた脚本家は、新人ではない。
 ほとんどの人がシリーズ構成をした作品のある脚本家である。
 アニメの脚本家として、少なくとも技術的には実力があり、その自負もあるだろう人達である。
 本来なら打ち合わせ程度の各話の本読みが1、2度で決定稿になるはずが、『ポケモン』は3度4度どころか、5度以上脚本会議行われることもある。
 各話に費やす脚本会議の回数が多ければ、そのぶん脚本が面白くなるわけでもない。
 脚本に対する面白がり方は、人それぞれである。
 少なくとも、その脚本を書いた脚本家は、自分では面白いと思って提出しているはずである。
 しかし、求められる『ポケモン』の脚本は、脚本会議に出席した方達が納得できる脚本である。
 だが、脚本会議に出席しているスタッフも、自分の意見が面白いというしっかりした自信があるわけではない。
 会議の形式としては、総監督が「この脚本で行こう」と言えば、その脚本が1稿であろうと2稿であろうとそれでいいのだが、総監督自身には『ポケモン』アニメに対するイメージがあり、より面白い脚本でアニメ化したいという気持ちがある。
 だから、「これでいい」と言える脚本はなかなかできてこないし、「もう少し、面白くならないか?」という気持ちになるだろう。
 この総監督、外見は気性が荒そうに見えないが、結構頑固で粘る人なのである。
 さらに総監督としては、脚本会議に出席していないアニメ制作上層部に対しても、『ポケモン』アニメ版をヒットさせなければならない責任のようなものもあったと思う。
 脚本会議に出席するスタッフは、『ポケモン』アニメをヒットさせたいという気持ちは同じでも、具体的にどうすればいいか暗中模索で、脚本に対しては、それぞれ他のスタッフに多少は妥協したにしても、少なくとも自分が納得できる程度の脚本が欲しいと考えていたと思う。
 「船頭が多いと船、山に登る……と言うから、僕は黙っている」と誰もが言いつつも、会議に出席するだけで船頭としての存在感のある人達が脚本会議に出てくる。
 ヒットさせなければならない『ポケモン』アニメに、みんながプレッシャーを感じていたのか、雑談や冗談の少ない、真面目な会議が続いた。
 脚本家と基本的に一対一で、雑談がほとんどのような本読みが常……その代わり、何かアイデアを思いついたらその場で電話して、脚本家や監督と脚本について話し合う……の僕流シリーズ構成にとっては、正直に言うとかなり肩の凝る脚本会議だった。
 シリーズ構成の僕としては、他の方の書く脚本は、新しいポケモンが出てきて、バトルがあって、ロケット団が出てきて茶々を入れて、主人公達に負けて逃げて行く、というパターンができていれば、後はそのエピソードが、ゲームでプレーヤーが一般的にたどるルートに準じていれば、それでよかった。
 もともとが目くじらたてるほどひどい脚本ができ上がる心配のない脚本メンバーなのだ。
 僕の役目は、時々パターンどおりにいかないエピソードを入れて、『ポケモン』アニメの世界を広げること。
 そして、アニメ全体で、ゲームではあまり感じられない、アニメならではのテーマが浮かび上がってくればいいと思っていた。
 だから、他の方の脚本について多少の疑問があっても、黙っていた。
 シリーズ構成は、脚本作りの船頭のはずである。
 その船頭が黙っていても、各話の脚本会議は最低で3、4回はある。
 もし、それに加えて僕が意見を言うと、それが、会議全体の流れから見ればひどく突飛な発言になり、ひとつの話数にせっかく何回も続けていた会議をひっくり返すようなことになりかねない。
 実際、他の方の書いたあるエピソードの登場人物の性格設定に、なんとなく異論を言ったら、その脚本はほとんど書き直しになり、その登場人物のかかわる他の方の書くエピソードにも影響し、大変なことになった。
 『ポケモン』のアニメ版全体にとっては大して重要な人物ではないのに、脚本家の方達にとっては大直しになり、脚本会議全体にとっても時間と手間をかけ、その割にはシリーズを変革するような大げさなことでもなく、僕が余計な事を言わなければよかったと反省して、『ポケモン』の脚本会議での発言は余程の事がない限り控える事にしていた。
 しかし、そんな脚本会議も、『ポケモン』のアニメ版が評判になり、ヒットしているという手ごたえが感じられるようになると、雰囲気が変わる。
 脚本会議のメンバーの顔に笑顔が浮かび、できあがってくる脚本に対して、相変わらずいろいろな意見が交わされるものの、その口調にとまどいや逡巡が感じられなくなった。
 「ここは変だと思うけど……」が「ここは変だ」になり、「ここは変えない方がいいと思うけど……」が、「ここは変えない方がいい」になり、それまで遠慮がちに出てきたスタッフのアイデアが、笑い顔で出てきて、それに対して「そんなの駄目だよ」「それ面白い」が笑い顔で出るようになった。
 結果がよければ、めでたしめでたしなのである。
 結局、脚本会議で脚本は練れば練るほど結果がいいということになった。
 脚本家にとっても、いろいろうるさくて直しが多くて面倒くさい『ポケモン』の脚本だったはずが、脚本会議のメンバーが検討を重ねた丁寧な脚本を書いているつもりになったようだ。
 前も述べたが、脚本会議で練りに練った脚本だけに、絵コンテで妙に変えられる事もなかった。
 直接アニメ制作に関わっているプロデューサーと総監督とメインの監督が脚本会議に出席しているのだから、絵コンテが脚本と違うなどという事故(?)が起こるはずがなかった。
 『ポケモン』アニメのヒットは、ポケモンに関わる人のほとんどに、明るさをもたらした。
 アフレコのスタジオも、明るい顔が目立った。
 『ポケモン』に関わっています。
 『ポケモン』の声をやっています。
 それだけで、少なくとも子供から、いや大人からも、好意的な好奇心をもって見られるようになっていたようだ。
 アフレコのロビーには毎回、ゲーム関係や玩具関係のスタッフからのポケモン玩具の差し入れが山のようにあった。
 子供のいる声優さんや、親戚に子供のいる声優さんは、その子達にとって、毎週サンタクロースだったろう。
 僕自身にとっても、今思えばこの頃が『ポケモン』に関わって一番楽しかった頃かもしれない。
 もともと『ポケモン』のシリーズ構成は、『ポケモン』の総監督の推薦で引き受けたわけで、正直な話、是非やりたいと思っていたわけではない。
 ゲームが好きだったわけでもない。
 総監督は、他の作品で僕とコンビのように言われていた人で……実際は、総監督と原案・原作・脚本の僕との関係でタイトルされているのは2シリーズだけだが、そのシリーズが一部のファンに支持されたので、コンビのように言われるようになった。ただ普通、作品は監督の名前が目立つものだが、僕が脚本の作品の場合、変な脚本を書くせいか、僕の名前が目立つことが多いようで、僕の他の脚本作品の監督さんに対しても、何となく申し訳ないような気分にさせられていたのは確かだ……だから『ポケモン』の場合、総監督のお役に立てるならという、お手伝いのつもりだったのである。
 奇妙な脚本の数々を、それなりの作品にアニメ化してくれたお礼の意味も少しはあった。
 アニメ版『ポケモン』の総監督としての彼を失敗させたくはなかったし、僕なりにいろいろ頑張ったつもりだが、ご本人から「『ポケモン』のシリーズ構成を首藤さんにしてよかった」と、第1話と第2話が完成した時に言われ、それで一応僕の役目はある程度果たしたわけで、他の『ポケモン』関係者の方達ほど、大ヒットさせなければいけないというプレッシャーはなかった。
 『ポケモン』のアニメ化を企画したのは、いまさら隠しても意味がないが、『ポケモン』に関しては現在放映中でどこに迷惑がかかるか分からないから匿名で書くと決めたので匿名で通すが、Sという出版社で、実は僕の叔母と義理の叔父が、昔ある雑誌の編集部に勤めていた。
 高校生の時はS出版社に遊びに行ったこともあるし、中学の時は作文で賞を貰ったこともある。
 『さすがの猿飛』というアニメのシリーズ構成をした時、事前に原作漫画をかなり変えてもいいかと打診したら、原作者を連れて僕に会ってくださり、変更を快諾してくれたのは、当時の漫画週刊誌の編集長だった。そして、アニメの内容に対して、全く口をはさまなかった。
 その後もSという出版社とはいろいろあったが、僕からの好感度は非常に高かった。
 だから、総監督とS出版社が関係する『ポケモン』は、何となく僕と縁があるのかな?……という案外気楽な感じで、シリーズ構成をする気だったのである。
 それがまあ、実際関わると、企画プロデューサーの親分は、『ポケモン』のアニメ化にはSとゲーム会社の社運がかかっているような口ぶりで凄い勢いがあり、もしかしたら僕はえらいところに首をつっこんじゃったのかな? と、即、新幹線で当時住んでいた小田原に帰りたい衝動に襲われたのを憶えている。
 小田原ののんびり風土に慣れていた僕には、関係者のテンションの高さに目がくらみそうだった。
 今思えば、アニメを直接制作しているO社も、僕としては当時はあまり聞いたことのないアニメ会社だったし、『ポケモン』アニメに賭けている感じがふつふつとしていた。
 いろいろな関係者が、社運とは言えないまでも、相当命がけモードで、『ポケモン』アニメに取り組んでいた事は確かである。
 その結果が今の『ポケモン』だから、本当にめでたい。
 余談だが、あるアニメ会社の社長が、僕に聞いてきたことがある。
 「なぜ、『ポケモン』はあんなにヒットしているんだろう?」
 「さあ……」と僕が言うと――
 「ピカチュウだね。アニメは結局キャラクターだよ」と、その社長、ひとりで自分で頷いて納得していた。
 確かにピカチュウは優れたキャラクターである。……でもね、そもそも『ポケモン』アニメと、その社長の会社の作品との違いは、アニメを作る熱意と姿勢とスタッフへの待遇じゃないのかなあ……と思ったが、黙っていた。
 その会社のことは忘れて、話を元に戻そう。
 他の『ポケモン』スタッフの方ほど、ヒットに対するプレッシャーもなく『ポケモン』に入り込んだ僕にとって、『ポケモン』のアニメのヒットは、単純にうれしかったが、実感としてはピンとこなかった。
 『ポケモン』効果を実感したのは嘘のような体験をした時だ。
 夜、レンタルビデオを返すために、パジャマ姿で車を運転していたら、警官に止められた。
 仕事場に運転免許を忘れていた。
 「仕事は?」と聞かれ、「物書きです」
 「どんな?」と聞かれ、とっさに、「今、TVでやっている『ポケモン』とか……」と答えたら、
 「あ、ほんと? うちの子も見ている……今度は免許、忘れないようにね、運転気をつけてね」
 それだけ言って見逃してくれたのである。
 これ、本当の話である。
 『ポケモン』って、凄いんだな……。
 我ながら感心し、いささか呆れた。
 あのお巡りさんは、『ポケモン』の関係者に悪い人はいないと思ったのだろうか?
 そんな頃、『ポケモン』の小説を書くことになり、おそらく他の『ポケモン』アニメ関係者から半年ほど遅れて、妙なプレッシャーを感じた。
 つまり、へんてこな小説は書けないぞ。
 お巡りさんをがっかりさせちゃいけないぞ……である。
 小説の内容はとっくにできていたが、書くとなると、相当疲れた。
 少なくとも、ジュンサー(ポケモンに登場する女性警官)のことは悪く書けない。
 そして、悪役のロケット団のテーマ曲というかイメージ曲の作詞の話がきた。
 ロケット団のトリオは、言うまでもなく『ポケモン』のレギュラーである。
 僕としては、主人公達より大切なキャラクターだった。
 僕の考えた『ポケモン』というストーリーのテーマの中で、主人公の少年はステロタイプで、まあどうでもいい存在だった。
 主役という顔で出ていればいい。
 僕にとって本当にしっかり描かなければならないのは、モンスターボールに入りたがらない変なポケモン、ピカチュウとロケット団のトリオだった。
 彼らが、『ポケモン』のテーマを語ってくれる位置にいるからだ。
 なぜなら、ロケット団のトリオは、常連の悪役として主人公達の周囲をうろつく事によって、主人公以上に『ポケモン』世界を俯瞰で見ている。
 おまけに、ロケット団のニャースは、ポケモンの言葉を人間に通訳できるのである。
 ニャースは、旅で出会うポケモンの感情を、ロケット団の人間であるムサシとコジロウに教える事ができる。
 当然、ムサシとコジロウは、主人公の少年より、ポケモンの感情をニャースから聞く機会が多いはずだ。
 主人公の少年と一緒にいるピカチュウの本当の感情を知ることができるのは、同じポケモンのニャースであり、それを人間の言葉として聞くことができる立場に一番近いのは、ムサシとコジロウだ。
 ポケモンと人間の関係がどういうものか知り、ポケモンと人間の関係を語れるのは、主人公の少年ではなく、ロケット団のトリオなのである。
 つまり、僕にとって『ポケモン』の実質上の主役は、ロケット団なのである。
 そのテーマ曲は、実はロケット団トリオが『ポケモン』アニメの主人公なのだ……という主旨を示唆するものでありたいと思った。
 いつもは悪役を気取り、本当は主人公であるという内容の歌詞……しかも、くどいようだが、悪を讃美して僕を見逃してくれた警官の気分を悪くしないような歌詞。
 そんな歌詞を書くのは結構、プレッシャーである。
 で、続いて映画化の話である。
 『ポケモン』のヒットに意気軒昂の、『ポケモン』アニメ仕掛け人の大プロデューサー(通称御前様)は、総監督や僕、アニメスタッフに言った。
 「『ポケモン』の映画版は、そのまま外国で上映するから、世界に通用するようなアニメにするように……」
 海外で上映される映画やアニメは、その国の観客の嗜好にあわせて編集され直す事が多い。
 大昔、「日本沈没」(最近の日本が沈没しない柴咲コウ主演の映画ではなく、昔の本当に日本が沈没してしまう3時間近い超大作映画)をドイツで見たら、90分くらいに編集されていて、あっという間に日本が沈没してびっくりしたことがある。で、だらだらと3時間かけて日本が沈没する日本版より、ドイツ版の方が、日本人がすったもんだする余計な場面がなくて、あっさりして面白かった。
 「ゴジラ」(昔のモノクロ円谷ゴジラ)のアメリカ版など、日本版には影も形もなかったアメリカ人を主役に作りなおされている。
 しかし、スタジオジブリのアニメは、セリフは外国語に吹き替えたものの、日本で公開されたそのままを外国で上映したらしい。
 「完成品に勝手に鋏を入れるな!」と、ジブリ側が言ったかどうかは知らないが、ともかく作家の作ったアニメが尊重されたのだ。
 そして、海外で好評だったらしい。
 『ポケモン』アニメの大プロデューサーは、ジブリアニメを相当意識しているようだった。
 日本で作られたそのままを海外で上映する……それは、作り手としてはうれしい。
 しかし、ジブリのアニメはいかにも日本の匂いがする。
 つまり、日本らしいアニメ映画として、海外に評価されたと思うのだ。
 だが『ポケモン』は、日本らしさはあまりない、いわば無国籍アニメである。
 それが、海外で通用するには、海外に通用する作品テーマが必要になる。
 しかも、海外以前に、日本である程度ヒットしなければならない。
 ジブリのアニメは日本で実績があり、信用も高い。
 それがあっての海外である。
 『ポケモン』のアニメ映画は、日本ですら、まだ実績はない。
 頼りはTVアニメとゲームとキャラクターグッズだ。
 それがアニメ映画として通用するか?
 アニメ映画として日本で通用して、海外にも通用するテーマは何か?
 そんな事を考える余裕もなく、映画化の話はどんどん決まっていく。
 ゲーム上、最も強いポケモンは、ミュウツーだった。
 だから映画はミュウツーの登場する話にしよう。
 日本のTV放映予定では、日本でポケモン映画が上映される頃には、TVではミュウツーはすでに登場していているはずである。
 アニメの主人公と、ひと勝負はしているはずである。
 たぶん、アニメの主人公は、ミュウツーにいったんは勝つだろう。
 だから映画版は、そのミュウツーが反撃する話にしよう。
 「スター・ウォーズ」に逆襲というタイトルのついた映画があった。
 逆襲という題名はいい。
 大プロデューサーはそう判断した。
 だから映画の題名は『ミュウツーの逆襲』。
 これもあれよあれよという間に決まってしまった。
 だが、そのストーリーは、何も決まっていなかった。
 小説に作詞に題名だけ決まった映画……一気にプレッシャーが襲ってきた。
 ものを書いていてプレッシャーを感じたのは、初めてだったといっていい。
 そもそも、プレッシャーを感じそうなものは、最初から断わって逃げていた。
 しかし、人生という奴は、何かが襲ってくると、それは立て続けにくるもののようだ。
 前回にも書いたが、あの事件が起こるのはその数ヶ月後である。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 このコラムを書くために、本屋に行ってはシナリオ教本の類の棚をチェックしている。
 最近、この手の本が増えている気がする。
 以前、このコラムで、定年退職した団塊世代(わんさかいる第1次ベビーブームの人達)がアニメ脚本を書きだすだろうから、若い脚本家志望者は少しあわてた方がいいと書いたが、なんとまあ、60歳以上の団塊世代向けのシナリオ教本が本当に出版されていた。
 団塊世代プロジェクトなんて副題がついている。
 教本というより、むしろ乱立気味のシナリオ学校の生徒勧誘本のような感じの本である。
 ある程度お金を持っていて退職した人を標的にしたビジネスが盛んになりだした事は知っていたが、脚本学校の世界まで広がっているとは思わなかった。
 著者はある有名なシナリオ学校の社長さんで、第2の人生をシナリオを書いて過ごそうと読者に勧めている。
 この人自身は脚本家ではないが、お父さんが脚本家で、そのシナリオ学校の創始者である。
 そのお父さんを僕は知っている。僕が18歳の頃である。その頃はまだ、そのシナリオ学校はなく、日本シナリオ作家協会のシナリオ研究所で、基礎講座を教えていた。
 「えーだば創作術」の初めのほうに書いた、恐怖の20枚シナリオの、その20枚シナリオを教えてくれた方である。
 人柄はよい方だった記憶があるが、あの方は僕達以後、何人に脚本を教え、何人がプロになったのだろう?
 シナリオを書くとあなたの生き方が変わります、誰にでも書けます、と本の帯に書いてある。
 その学校の72歳の生徒がある脚本賞を取ったそうで、歳を取っている方が人生経験も豊富で、シナリオを書くのに有利だと書いてある。
 おまけに、60歳以上だと映画がシルバー料金で1000円で見る事ができるから、映像に接する機会が増え、若い人よりシナリオの勉強がやりやすい環境にいるという。
 驚いたことに、著者のシナリオ学校には、90歳以上の講師が3人もいて、すこぶる元気で生徒の皆さんにシナリオを教えているそうである。
 さらに驚いたことに、その学校には42人も講師がいるそうである。
 脚本だけで食べていけるライターが100人いるのか? という時代に、ひとつのシナリオ学校に42人、先生がいるのである。
 TVの創始期に大宅壮一というジャーナリストが、一億総白痴という言葉を使った。TVを見続けると、みんな馬鹿になるという有名な警告だが、確かに今のTVを見ていると、一億総白痴化が進んでいる気がする。
 先日病院に入院して、やる事もなく久しぶりにTVをつけた。
 TV局が、視聴者をなめているとしか思えない番組のオンパレードだ。
 で、この本の著者は、一億総シナリオライター化計画を提唱する。
 TVを見ている人みんながシナリオを書ける能力を持てば、TV番組のよし悪しが分かり、出来の悪い番組は駆逐され、一億総白痴化を防ぐことができるというのだ。
 TV番組の質を上げるためにも、シナリオを勉強しようと書いてある。
 僕なら、TV番組の質を上げるより、地デジ切り替えの機会にTV自体を捨てることを考える。
 一億シナリオライター化計画の実現には、当然、子供達にもシナリオを教える必要がある。
 団塊の世代のあなたがシナリオを勉強して、子供達にシナリオを教えてあげてください。そうすれば、仮にプロの脚本家になれなくても、あなたの人生は豊かになります……はあ、そうですか。
 少子化で経営難の学校が増えている。
 シナリオ学校も、少子化の未来を見据えて、定年退職の団塊世代を狙い始めたようだ。
 お勧めしたい本ではないので、題名も著者の名も書かない。
 この本には、見本のシナリオとして超短編シナリオが、いくつか載っている。
 僕がシリーズ構成の作品に、ワンシーンでもこんなシナリオを書く人は絶対断る。

 ○リビングルーム(朝)
  キッチンと続きになった広い部屋。
  ベビーベットの上で首藤剛志(四ヶ月)。火がついたように泣いている。

 この3行だけで、ダメである。
 もうひとつの別のシナリオのワンシーン。

 ○空き地の隅
  ダンボールに群がる猫。
  剛志、大声で猫を追い払う。
  剛志、ダンボールの中を覗き込む。
  生後、間もない3匹の小犬が血だらけの状態。ぼろぼろの段ボール。

 この5行だけで、先を読む気になれない。
 これをシナリオの見本として載せる人が校長のシナリオ学校など信じられない。
 なぜか分かりますか?
 なお、このシーン、登場人物の名前は変えました。
 それから、いくら超短編シナリオだとはいえ、ペンネームでもいいから作者の名前は書いておくべきです。
 僕の読んだその本には、見本のどのシナリオにも、作者の名前がありません。

   つづく
 


■第157回へ続く

(08.08.13)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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