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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第151回 『ポケモン』字幕つき

 『ポケモン』の17話は、ポケモンの声に字幕を入れたエピソードとして、記憶に残っている方がいるかもしれない。
 字幕を入れるというアイデアは、一風変わった話を作る脚本家として一部の人に知られている僕が考えたと思っている方も多いようだが、実際は違う。
 『ポケモン』の脚本会議では、プロデューサーや監督からもいろいろなアイデアが飛び交っていた。
 『ポケモン』の会話を字幕で表現するというアイデアは、そんなプロデューサーの1人が、考えたもののひとつだったのである。
 ところで、アニメ版に登場するポケモンは、それぞれの鳴き声を持っているが、その多くは、名前に由来するものが多い。
 ピカチュウは「ピカピカ」と鳴くし、フシギダネは「ダネダネ」と鳴くという具合である。
 これは脚本会議で決められたわけではない。
 初期の脚本には、ポケモンの鳴き声は書かれていなかった。
 アフレコ当日になって、ポケモンの鳴き声が必要になった時、ポケモンがどんな鳴き方をするのかは、ポケモンの声を担当する声優さんに任される形になったが、そんな声優さんの1人がアドリブで、その人の担当するポケモンの名前に近い音声の鳴き声を出し、思いのほか面白かったので、監督やプロデューサーの方たちも納得した。
 それが他の声優さんたちにも波及し、それぞれの担当するポケモンの名前をもじったような鳴き声を出すようになったのである。
 ポケモンの中には、鳴き声にならないような名前のポケモンもいたが、そんな時も、基本的には、ポケモンがどんな鳴き方をするかは、声優さんに任されていた。
 だが、ポケモン同士がどんな意味のことを鳴いているのかは、分からないことになっていた。
 ポケモンの言葉を通訳できるのは、人間の言葉をしゃべれるニャースだけという設定だ。
 そこで、ポケモン同士が何をしゃべっているか、視聴者の子供たちも興味を持つだろうし、ポケモンの会話を字幕で見せよう、というアイデアが出てきのである。
 ポケモンの制作スタッフは、決して保守的でなく、面白い事ならやりたがる人たちだった。
 で、ポケモンの会話に字幕を入れるエピソードを作ろうというという事になったのだが、僕自身は乗り気ではなかった。
 ポケモンの言葉に字幕をつけると、『ポケモン』という生き物が、人間と同じような思考をする生き物であるというのが分かることになる。
 言葉の分からない外国語の会話に日本語の字幕をつけるというのはいい。
 言葉が違うだけで、人間同士であることには違いないからだ。
 言葉が分からないだけで、人間である以上、日本語の字幕をつければ、喋っている内容の意味は分かる。
 しかし、ポケモンは人間ではない。
 別の生き物である。
 どんな思考、感情をもっているか分からない。
 人間対人間なら何とかコミュニケーションが取れるが、人間対動物、人間対ポケモンのコミュニケーションは難しい。
 人間には、犬や猫などのペットとコミュニケーションを取れているつもりの人がいるかもしれないが、それは、その人間の勝手な思い込みかもしれないのである。
 動物の持つ思考や感情の本当のところは分からない。
 ポケモンの言葉に字幕をつけることは、少なくともアニメを見ている視聴者には、ポケモンの思考や感情が分かる事になる。
 ポケモンの思考や感情が、字幕で読め、視聴者に理解できるという事は、ポケモンという生き物の持つ思考や感情が、理解できるほど人間に近いという事になる。
 姿かたちの全く違うポケモンが、そんなに人間に近い生き物であっていいのか?
 ポケモンの言葉、鳴き声に日本語の字幕を付けるのは、動物を擬人化すること以上に、ポケモンを人間化して描くことになりはしないか?
 人間と動物の関わりを描く作品で、登場する動物の鳴き声に字幕をつけたら、ずいぶん奇妙である。
 その動物に人間語が喋れるという特殊な能力がある、という設定のファンタジーならかまわないが……。
 さらに、ポケモンの言葉に字幕をつけることは、アニメ版『ポケモン』の世界に登場するポケモンが統一した言語を持っていることになる。
 種類の違うポケモン同士でも、意思の疎通ができるという事になる。
 姿かたち能力以外のポケモンの多様性がなくなってしまうのである。
 つまり、アニメ版『ポケモン』は、人間語とポケモン語のふたつしかない世界になってしまう。
 それでいいのかどうか?
 ポケモンの鳴き声に字幕をつけるというアイデアは面白いが、それがアニメ版『ポケモン』の世界観を変えることになりはしないだろうか……?
 もっとも、それを承知で、アニメ版『ポケモン』シリーズにそんな異色なエピソードがあってもいいと居直ってもいいかな……とも思った。
 それにしても、ポケモンの言葉に字幕を入れることは、とても難しい。
 視聴者には、小さな子供が多い。
 難しい言葉や、漢字は使えないだろう。
 TV画面の大きさでは、文字数も限られる。
 僕の意識としては、TVの大きさは14インチである。
 創世記のTVは、14インチが普通だった記憶があるし、日本の一般的な部屋の広さでは、20インチでも大きすぎると思っている。
 TV画面の大きさに適正な視聴距離というのが昔はあったような気がするが、今はうやむやになり、いつの間にか大型画面が普通になってしまった。
 僕自身は、プロジェクターの100インチで見る映画もあるが、子供の狭い視野には、ただでさえガチャガチャと動き回るアニメなど、14インチが適当だと思っている。
 さらに、外国で放送する場合のことを考えたら、日本語の字幕が外国の人にとってわけが分かるのかの問題もある。
 外国に売ることを前提にアニメを作っている制作者は、画面に日本語が写ることを嫌った。
 例えば、渋谷を舞台にした『アイドル天使 ようこそようこ』は、「SHIBUYA」は出てきても、日本語の看板は一切出てこない。
 外国に売るなら、無国籍なアニメであってほしいのである。
 しかし、序盤の『ポケモン』アニメのスタッフの方たちは、外国に売ることまでは考えていなかったのかもしれない。
 脚本会議に出席した方たちのほとんどが、『ポケモン』の字幕版エピソードに賛成した。
 僕以外は、みんな大乗り気だったといっていい。
 しかし、どんなエピソードに字幕を入れるかは決まっていなかった。
 字幕を入れる必要のあるエピソードが見つからなかったのである。
 人間が登場して喋っている場面で、ポケモンたちが字幕で会話するのは、いかにも不自然である。
 だから、人間がその場にいないで、ポケモンたちだけで会話する場面のあるエピソードを作ろうということにはなったが、主人公たちと主要ポケモンは、いつも一緒にいるから、ポケモンだけが会話するような状況が生まれづらい。
 僕自身、ポケモンの字幕にあまり乗り気でなかったから、シリーズ構成としては「いつか字幕を入れるエピソードをやろう」といった感じで、ずるずる引き延ばしていた。
 そうするうちに、脚本会議とは別の、アニメ版『ポケモン』制作の上層部の会議の日がきた。
 それまでのアニメ版『ポケモン』の反省会のようなものである。
 前にも書いたが、「御前会議」とあだ名されている会議である。
 作品をより面白くするために、まずとりあえずは、「御前様」から否定的な意見が出る会議である。
 だが、幸い、アニメの評判は悪くなかった。
 その席で、脚本会議に出ていたプロデューサーの1人から、ポケモンの字幕の話が出た。
 もちろん、字幕入りの『ポケモン』を作るつもりで、上層部からの快い了解を得るつもりだったろう。
 とたんに、上層部から出たのは反対意見だった。
 放送局側からも反対意見が出た。
 主に、字幕は視聴者に分かりにくい……が、その理由だった。
 シリーズ構成としての僕は、脚本会議の側である。
 総監督が、字幕入り『ポケモン』をなかなかやりたい様子を見せない僕に焦れて、「時間があったら、自分が脚本を書くのに……」とまで言ったのだ。
 実制作の面々が、やりたがっていることなのである。
 で、僕は「短くて子供にも分かりやすい字幕でやればいいんじゃないですか?」等々と、反対意見への反論をした。
 こういう時は調子に乗ってしまうのが、僕の悪いところである。
 字幕を入れるというアイデアを、あたかも自分が出したかのように肯定して、字幕入り『ポケモン』は上手くいく、と主張してしまったのである。
 シリーズ構成がそこまで言うのなら、といった感じで、ポケモンの字幕は一応了解された。
 しかし、その時点で、字幕入りポケモンがどんなエピソードになるか決まっていなかった。
 字幕入りポケモンの脚本が面白くなければ、何を言われるか分からない。
 責任は僕にある……というより、自分で自分に責任を負わせたようなものである。
 本来、字幕入り脚本には乗り気でなかったし、脚本にしたとしても、僕が書く気はなかった。
 脚本順としても、他の脚本家の方に行く予定にしていた。
 しかし、僕が言ってしまった「短くて子供にも分かりやすい字幕」で、しかも、字幕が必要で、その上、内容的に面白い脚本など、言うのはやさしいが書く方は大変である。
 そんな脚本を指名された脚本家は可哀想である。
 となると、僕が書くしかない。
 で、書いたのが「きょだいポケモンのしま!?」である。
 字幕が読めない子供でも分かり……つまり、外国人が見ても分かり……しかも、字幕で表現することが意味を持つことになるセリフは何なのか……?
 何の意味ももたないセリフならば、「わざわざ字幕にする必要はない」と言われてしまう。
 しかし、あまり、人には聞かれたくない内容なら、字幕で表現してもいいと思った。
 字が読めない人には「○○○」「×××」「△△△」にすぎないが、字が読める人には分かり、しかも、字が読めない人にとっても「○○○」「×××」「△△△」が何か意味ありげに見えるセリフは、普通、人に聞かれたくないセリフである。
 そして、ポケモンの字幕が、その後のエピソードで常識的に使われないようにも気を遣った。
 ポケモンの会話が日常的に字幕で表現されるようになると、人間とポケモンの、思考と感情の違いが、視聴者に判別がつきにくくなる。
 ポケモンが人間と同じような事をしゃべっていては困るのである。
 ポケモンと人間は違いすぎるからこそ、そのコミュニケーションが重要になる。
 そんな『ポケモン』全体のテーマに関わりそうなことを、まだ『ポケモン』の序盤である17話あたりで臭わせたくはない。
 字幕が読めなくても字幕に意味があるセリフ……少なくともそれは、喜怒哀楽を表すセリフはではない。
 喜怒哀楽はセリフがなくても表現できるし、かといって喜怒哀楽の表現が、ポケモンと人間が同じなのも困るのである。
 何を言っているのか分からなくても分かるセリフが、ここでは必要なのだ。
 僕は、字幕が読めない子供の頃、親に連れられて外国映画をよく観に行った。
 画面を見ているだけでも、ある程度は理解できた。
 字幕が気にならなかった。
 けれど、それは人間が出ているからだった。
 子供の想像力で、映画の登場人物のセリフを推測することができた。
 だが、今度はアニメのポケモンであり、セリフらしきものが画面の隅にある事が必要な場面とはなんなのか……。
 困り果てて、業界の人間ではない友人相手に、止められていた酒を飲みながら、「どうしたもんか」とぼやいていたら、思いついた。
 それが、酒場の「ぼやき」なのである。
 若い頃、ヨーロッパの安酒場をめぐり歩いたが、そこにたむろする人たちが、何をしゃべっているのかは分からない。だが、少なくとも酒を飲みながら、相手に何かをぼやいている人は分かった。
 ぼやきの理由は分からないが、怒っているように見えても、喜んでいるように見えても、結局のところ、何かをぼやいている人は見て分かるのである。
 「ぼやき」の中身は「○○○」「×××」「△△△」で分からないが、「ぼやいている人」には大切なセリフである。
 もちろん、僕には意味不明だが、それでも「○○○」「×××」「△△△」があるから、ぼやいているのが分かるのだ。
 『ポケモン』の世界は、ポケモンと人間の世界である。
 『ポケモン』が、ぼやくとしたら、人間との関係である。
 それなら、子供にも日本語を知らない外国人にも分かると思った。
 しかも、わけの分からない「○○○」「×××」「△△△」が意味を持ってくる。
 それに、喜怒哀楽は動物にもあるかもしれないが、人間以外に「ぼやく」生き物は、ポケモンだけかもしれない。
 「ぼやく」生き物としてのポケモンの、他の動物とは違う特異性のようなものも加味できるかもしれない。
 後は、字幕の出てくる画面も虚構のように見せれば、字幕の出てくる場面そのものが虚構としての意味も持ってくる。
 「きょだいポケモンのしま!?」は、作りものの巨大化したポケモンのいる島である。
 舞台全部が、虚構の世界なのである。
 このエピソードでは、ポケモンが屋台のおでん屋で酒を飲んでぼやく。
 その屋台が外国の人には分からないという人もいるが、虚構性を強調するならありだと思う。
 日本にすら、今は屋台のおでん屋は少ないし、屋台に妙なオリエンタリズムを感じる人も多いと思う。
 それが、狙いなのである。
 アメリカ映画の「ブレードランナー」というSF映画には、屋台のそば屋と変な日本語が出てきて、虚構の未来に妙なリアリズム(?)効果を加えている。
 「きょだいポケモンのしま!?」は、僕にとっておそらくポケモンのエピソードで一番苦労した脚本だった。
 「きょだいポケモンのしま!?」の字幕シーンは、ギャグとして付け加えられたものではないのである。
 もとからポケモンの字幕シーンを入れるために作られたのが、「きょだいポケモンのしま!?」だったのだ。

 余談として付け加えると、このエピソードには遠くに小さく見えていたピカチュウが、近づいてくると、実は巨大な作りもののピカチュウだった、というギャグがあるが、このアイデアはこのエピソードに乗った1人のプロデューサーが出したもので、あまりにベタなギャグで笑えるので、僕は喜んで脚本の初稿から使わせていただいた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 オリジナリティの話といいつつ、脚本軽視の話など、あんまり脚本家にとって楽しくない話がこのコラムには多くなってしまったようだ。
 で、今回は景気づけに、脚本がスタッフを乗せ、アニメのでき上がりが素晴らしくなった例を、思い出してみる。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のいわゆる空モモシリーズの中での話である。
 古い話だと思うだろうが、今、インターネットのYahoo!動画で無料配信が始まっているらしいので、作品を見られるだろうと思い、取り上げることにした。
 僕の脚本のことだと手前味噌になるので、他の方の脚本にする。
 「大いなる遺産」という金春智子氏の書いた脚本のエピソードがある。
 この脚本は、プロットから脚本まで、シリーズ構成の僕は何もしていない。
 金春智子氏の書いた初稿そのままである。
 で、この脚本を読んだ総監督は、スタッフに、「この脚本で5000枚以上使って動かせたら偉い」と言ってけしかけた。
 当時、大手のアニメ会社では「30分もので3000枚以上使うと警告を受け、それが2度3度続くと首が飛ぶ」と冗談交じりに言われていた時代である。
 5000枚と言えば、そうとうな枚数になる。
 「大いなる遺産」の脚本自体は静かな話で、そんなに枚数を使いそうにない。
 しかし、スタッフは頑張ったのである。
 たっぷり5000枚、使ったそうである。
 脚本が変えられたわけではない。
 そして『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を代表するエピソードのひとつになった。
 同じシリーズで、後半、デビルクイーン3部作というのがある。
 脚本は筒井ともみ氏である。
 この人、日頃、アニメの脚本は書きたくないと言っていた。
 絵コンテやアニメの動きで、自分が脚本に書いたつもりのイメージが変えられるのが、嫌だったのである。
 それを無理を言って書いてもらったのが、デビルクイーンの1作目の脚本だった。
 この脚本も、僕は頼んだだけで、後はノータッチだった。
 デビルクイーンの話は、1作目で終わるはずだった。
 ご本人も1作でお役御免のつもりだった。
 ところが、総監督が僕に言ってきた。
 「続編を作りたい」
 「ご本人に書く気はないよ」
 「でも、作りたい。1作目とスタッフを変えないし、彼らもやりたいらしいから」
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』シリーズといっても、絵コンテ、演出、作画など回ごとに違っていて、出来にばらつきがあった。
 それを、デビルクイーンの回は同じスタッフでやるというのである。
 僕は、「筒井さんしかデビルクイーンは書けないのだから」と言って口説き、ご本人も、他の人に脚本を書かれるぐらいなら自分で書こうという気になった。
 筒井氏は、自分の書く脚本に厳しい人で、「今回はダメ。今回いいでしょ?」と、自分で自分の脚本の評価をはっきり口に出して言う人である。
 デビルクイーンの脚本は、ご本人にとっても悪くない出来だったようだ。
 結局、筒井氏は、続編、さらにデビルクイーン最終編まで書くことになった。
 僕としては、1作の予定が3作になり、しかも直しがないから、ずいぶん助かった。
 もっとも、自分の作ったキャラクターは、自分で始末をつけようと、筒井さんの脚本上でのラストでデビルクイーンは死ぬのだが、生かしておきたいという監督との間で、ラストシーンについて少しもめた。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』では、すでにモモ自身が車にひかれているんで、これ以上死ぬのは……という変な理由で、ラストシーンだけが少し変わったが、アニメの仕上がりを見た筒井さんの言葉は、「まあ、いいわ……」だった。
 でき上がったデビルクイーン3部作は、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の評価を充分支えてくれた。
 今のアニメは脚本重視の頃とは時代が違うと言われればそれまでだが、本当に今のアニメにとって、脚本は重要ではないのだろうか?

   つづく
 


■第152回へ続く

(08.06.04)

 
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